第二章 秘密の逢瀬[後編]
リンラとアズハの戯れ、そして密かな歪み。
「っしゃ、できた!」
一方で川原に残ったリンラは、アズハのヘアアレンジに勤しんでいた。それはもう、傍から見れば鬱陶しいほどに。ふわっと一つに纏めた三つ編みからお団子、ポニーテール、ツインテールにハーフアップなど、基本と呼べるアレンジは大方制覇した。
そしてこれが最後だとリンラが挑んでいたのは、上品な優等生感を醸し出すと雑誌に載っていた、編み込みとハーフアップを合わせたアレンジだ。きっちり編み込んだサイドの髪と、反対にふわっとしたトップの編み込みを耳の高さで一つに纏めたそれは、和服のアズハによく似合っている。これで髪飾りでもあれば文句無しなのだが、さすがにヒバルはそこまで携帯していなかった。
「どーよこれ!」
「……本当に器用ね」
生まれ変わった自分の髪を手鏡を通して見つめながら、アズハはしみじみと呟いた。真っ直ぐすぎて纏めようがないと思っていた髪が、リンラが触れれば魔法に掛かったようにあらゆる形に纏まっていく。その変わりゆく様を見るのは、なんとも不思議で擽ったい気持ちになる。
「じゃ、今日はそのままでいろよ」
「え!?」
驚いて振り向いたアズハの姿をパシャッとさり気なくスマホで撮ると、アズハは「あ、これ前言ってた羽子板ってやつ?」と風呂敷の中を勝手に漁り出す。人の話を聞いているようで聞いていない、聞いていたとしても大抵は流して我を通す彼女のことを野蛮人と呼ぶ者も少なくはないらしいが、
「なぁアズ――」
パシャリ。
「へ?」
「羽根突き、やる?」
それでも嫌いになれないどうしようもない魅力が、リンラにはあった。隙ありとばかりに写真を撮り返したアズハはスマホを袂にしまうと、リンラの手から羽子板一枚と羽根を抜き取り、距離をあけて向かい合わせに立った。ルールは前に説明してあるので、「いくよ」という声を合図に羽根を打つ。リンラも慌てて板を振るって応戦し、辺りにはしばらくカコーッンという聞き心地のいい音が響いた。
(…………)
羽の動きを目で追う一方で、アズハはリンラの動きをそっと観察する。一見適当に打ち返しているようで、彼女は板の角度や振るう際の力加減を身体で覚えようと意識を集中させていた。
死乃宮特有の遊戯を教えてほしいと言ってきたのは、リンラのほうだった。幼少期から訓練漬けで育ったアズハが知っている遊びなど高が知れていたが、リンラは常に真剣に向き合って遊んでくれた。
カルタ取りのような頭を使う遊びには大層苦戦していたが、独楽回しや鞠つきといった身体を動かす遊びに関しては覚えが早く、いつもあっという間にコツを掴んでしまうのだが、飽きたと言って投げ出したことは一度もない。
「っと、バドミントンみてぇだな。年の初めに、やるんだっけ?」
「昔は、ね。最近は羽子板だけを、魔除けのお守りみたいに、女の子に贈ることのほうが多いみたい」
少し余裕が出てくると、羽根を打つ音のなかに会話が混じってくる。しかしもう数分もすると、リンラのほうが先に羽根を落としてしまった。
「あ……」
「あ、落としたら罰ゲームだから」
「は!? んなルール知らねぇけど!?」
「前に言ったよ、顔に墨入れるって」
「えぇマジ?」
墨って水で落ちんのかよ、てかヒルに見られんの嫌すぎて死ぬんだけど。ブツブツ言いながらリンラはガックリ項垂れる。墨なんて持ってきていないこと、風呂敷を漁った時に気づかなかったのだろうか。アズハはクスッと小さく笑むと、
「じゃあ墨入れの代わりに――私の質問に答えて」
人が変わったように、凪いだ声音で言った。リンラも口を閉ざし、表情を改めてアズハに向き直る。風が二人の隙間を埋めるように、あるいは隔てるように吹き抜けていく。
「リラは、怖いと思ったことってある?」
「戦争か? それとも、こーゆー関係が表沙汰になることか?」
「質問に質問で返さないで」
つまりはイエス、その両方ということか。リンラは僅かに目を眇める。
「私は、ある」
終わりの見えない戦争もその裏でこうして仲良くしている事実も、とアズハは言う。E・リンラ・エヴァフォードという目の前の少女のことも、正直何度も怖いと思った。
戦場で相対すれば一切の容赦なく刀を振るい、大地を焼き尽くし、戦いたくて堪らないと襲いかかってくる。その一方で膝枕を強請ったり、ことさら丁寧な手つきで髪を梳いたり、今のように遊んでくれたり……それを素直に嬉しいと思えた時期もあったけれど。
果たしてそんな簡単に、スイッチを切り替えるように態度を一変できるものなのか。少なくとも最近のアズハは、引きずるとまではいかなくても、きっぱり割り切ることを難しく感じ始めている。ゆえに、右耳の聴覚がない代償として発された声の裏側、すなわち本音を聞くことができる【読心】という祈祷を不意打ちで使い、その本心を確かめることも少なくない。
「ねぇ、どうなの」
リンラは違うのか。戦場に立つ自分は、彼女にとって敵でしかないのか。こうしてプライベートで会っている自分は、戦場の自分とは違う存在なのか――自分がどんな答えを欲しているかも分からないまま問いかける。けれども、
「ねーよ、怖ぇと思ったことなんざ」
迷いなく言い切る友の目は、これでもかというほど蒼く真っ直ぐで。疑う余地すら許してくれなくて。
「……そう」
震えそうになる声と、耳栓に触れそうになる手を必死に抑え込む。そうか、リンラは怖くないのか……なにも、思わないのか。私が戦場での態度を引きずっているんじゃないかと不安に思うことも、私を殺してしまうんじゃないかと恐れることも、何も。
「本当に、リラは強いね」
深呼吸して心を落ち着かせ、アズハは精一杯の微笑みを浮かべた。
「っ、アズ――」
今にも風に攫われてしまいそうな雰囲気の友を前に、流石のリンラもギョッとして駆け寄ろうとしたが、
「なぁ、そろそろ飯にしねぇ?」
そのタイミングでヒバルとユキハが戻ってきた。中途半端に踏み出した状態で固まるリンラと、なんとも儚げな空気を纏って振り返るアズハを見て「なんかしくった」と二人して察したまでは良かったが、
ぐぅうう~……。
KY上等と言わんばかりに、ヒバルの腹時計が間抜けな音を立てる。同時にリンラの額にプチッと血管が浮き上がり、ぶん投げられた羽子板がヒバルの額にクリティカルヒットした。
「~~~~っ!」
「おっと」
両手で額を押さえて身悶えるヒバルをユキハが後ろから支え、アズハも「角当たったように見えたけど、大丈夫?」とヒバルに駆け寄る。そこに、今し方の儚さはなかった。そして怒りの一部を発散したことでハッと我に返ったリンラも、慌てて謝りにいった。
「悪ぃ、壊れてねーかな……」
ぶん投げた羽子板のほうに。
「いや俺に謝れよ!」
バッと両手を下ろし、微妙に血の滲んでいる額を曝け出しながらヒバルが怒鳴るも、「そんだけ喚く元気があんならヘーキだろ」とリンラは相手にしない。
「もとはと言やてめぇの腹の虫のせいだし」
「しゃーねぇだろ腹減ってんだから!」
「ちょ、二人とも落ち着いてよ……」
「アズ姉、俺も腹減った」
「ユキ……」
結局空腹の誘惑には抗えず、四人はなし崩しにランチタイムに突入する。明るい色の曲げわっぱの弁当箱が四つ。鮭とたまごのふりかけおにぎりと、海苔を巻いただけのノーマルなおにぎりが綺麗に並べて詰められていた。ちなみにふりかけむすびのほうは俵型で、海苔むすびは三角型……誰がどちらを握ったかは一目瞭然だった。
「笑うなら没収する」
「誰も笑ってねぇだろ」
てかウチ、俵のほうが好きだし。
リンラは当たり前のように言うと、「いったーきまーす」と鮭のふりかけむすびに大きく齧りついた。その大胆だが下品ではない漢前な食べ方に、アズハは人知れず見惚れた。先ほどのやり取りを忘れたわけではないが、今くらいはいいかと自分の分のおにぎりを食べる。確かに美味しいが、心なしか今日のはいつもより塩っぱく感じた。
「ぁ、これウマい」
「そうか?」
「ん、すげー俺好み」
リンラよりも控えめに開いた口で海苔むすびを頬張ったヒバルも、幼子のように目を輝かせる。リヴドシティではパンが主食で、ご飯系はリゾットやパエリアといった味のついたものしか出されない。シンプルに米の味を活かしたおにぎりの存在は知っていても食べたことはなく、ずっと食べてみたいと思っていたのだ。
「気に入ってくれたなら、俺も嬉しい」
「っ!」
いつもより少し甘めを意識してユキハが微笑むと、ヒバルは口の中に残っていた分を丸飲みしそうになって噎せた。ユキハが水筒のお茶を差し出せば礼もそこそこにがぶ飲みし、「死ぬかと思った……」と涙目になる。死なれるのは困るなと言う代わりに、ユキハはヒバルの背中を摩った。出会って間もない頃は差し出したものも受け取るまでに一瞬の間があり、無防備な欲を見せることもなかった。
「なぁ、ユキは食いたいもんねぇの?」
それが今では、びっくりするほどに素直ときた。月日が経つって凄い。
「おにぎりの礼に、なんか俺らも作ってきてやるよ。食いたいもんがあれば、の話だけど」
「……じゃあ、パンに肉とか野菜とか挟んだやつ」
「ああ、サンドイッチ?」
「ん、あと焼いてたほうがいい」
「ホットサンドな。了解」
ヒバルはニッと笑って頷くと、「聞いてたか?」とリンラのほうに顔を向けて、
「んー? むぁんま?」
心底呆れた。相棒は自分の分だけでは飽き足らず、アズハの弁当箱にまで手を伸ばしていた。
「アズ、あんま甘やかすな」
嫌なら遠慮なく突っ撥ねればいいとヒバルが溜息混じりに言うと、咀嚼した分をちゃんと飲み込んでから「いやちゃんと許可とったわ」とリンラが噛み付いてくる。脅し取ったの間違いじゃねぇのと噛み付き返せば、また剣呑な空気が生まれたが、
「私は全然いい。もともとリラたちに食べてもらいたくて作ってきたし……食べてもらえるなら、そのほうが嬉しい」
アズハの言葉で瞬時に霧散した。やや伏せ目になって微風に靡く髪を片手で押さえるという仕草がまた癒し効果に拍車をかけ、金髪コンビは文字通り固まってしまう。唯一動けたユキハは、二人の手から落ちそうになっているおにぎりを弁当箱に避難させながら、自分の分のふりかけむすびをモグモグ頬張っていた。
「……っと、サンドイッチだっけ? アズもそれでいいのか?」
ようやく呆け面から脱したリンラが、頬を掻きながら尋ねる。いつになく泳いだ目と忙しない指の動きが、彼女が感じている照れを具現化しているようで、
「うん、私もそれがいい」
微笑ましいと思いながらアズハは頷いた。それからは四人で夕暮れ間近まで適当に駄弁って過ごしたが、
「なぁ、お前ら来月末って空いてる? リヴドシティの祭り来ねぇ?」
ぼちぼち解散するかというタイミングで、リンラが爆弾を落とした。アズハとユキハは勿論、ヒバルも驚愕のあまり硬直したが、リンラは気にせず祭りの概要をペラペラ語っていく。
リヴドシティでは季節が夏に移り変わる前に、【ライトルーズ】と呼ばれる祭典が行われていた。夕刻から深夜にかけて重要施設を除く建物の照明を落とし、代わりに灯油ランタンと蝋燭で過ごすという一風変わった祭りで、当日は紐に連なった幾つものランタンがビル間を縦横無尽に横断し、電灯とはまた異なる明かりを街に届ける。
が、正直それ以外に大してめぼしい特徴はなく、通りに建ち並んだ出店を前に家族連れやリア充がワーワー騒ぐ至って普通の祭りだった。生きていることへ感謝を捧げるだとか何とか小難しい由来もあった気がするが、忘れた。
「ぇ、いやでもそれ……そっちでやる祭りだよね?」
「うん」
「俺ら、そっち行けないよ?」
「こっからなら行けんじゃね? 検問とかねーし」
「でも見た目とか、服装とか……」
「髪はウィッグ、服はウチらの貸してやるよ」
ああ言えばこう言う、リンラの十八番がここで出た。アズハとユキハの疑問という名の不安を片っ端からぶった斬り、自分のほうへと引っ張っていく。
「ま、無理強いはしねぇよ。そういうイベントがあるってことだけ覚えとけ」
そして一度引き際をチラつかせ、
「ただし、身バレのこと心配して引くのはナシな? 言い出したのはこっちだ、全力でエスコートしてやる」
絶対的な安心感の漂うカリスマ性をぶちかましてくるのだ。リンラがコレを発揮する相手も場面も限られてはいるが、大抵の者はこの無駄に整った顔と声音でノックアウトされる。
「……うん、ありがと」
アズハはその常連といっても過言ではなかった。そして姉が無理をしていないと察したユキハが、「来月末、考えとく」と首を縦に振るところから、
「これ、無意識でやってんだからタチ悪ぃんだよな……」
ほぼ強制的に傍観者席に追いやられたヒバルが嘆息するまでが、お決まりの流れである。ただ今回に限っては、ヒバルはリンラの提案に密かに一票入れていた。決して森で会うことに飽きたわけではない。
むしろガヤガヤと五月蝿い外界から解放してくれるこの森での一時は、いつだって楽しくて待ち遠しい。それでも、たまに想像してしまうのだ……堂々と四人で街中を闊歩して、ゲーセンやカフェで朝から晩まではしゃぐ姿を。その時の、満更でもないユキハの表情を。
「ヒルも異議ねーよな? あったら燃やすけど」
「燃やすってなに? 異議? それとも俺!?」
軽く漫才を交えながら次に会う日を決め、今度こそ四人はそれぞれの帰路についた。
◇◇◇◇
「なぁ、どうしたんだ」
フォグからリヴドシティへ戻る道すがら、ヒバルはリンラの背中に尋ねた。森を抜けて道なりに十数分も歩けば、煌びやかにぎっしりとビルが建ち並ぶ街に出る。ただし二人は大通りではなく、裏の小道を選んで寮を目指していた。良くも悪くも軍人として顔が割れているため、念を入れての隠密行動である。
「あ?」
「さっきの祭りの話だよ。いくらなんでも唐突すぎるだろ」
「祭りは来月末だぞ」
「誤魔化すな」
ヒバルはリンラの肩を掴み、無理やり歩みを止めさせる。ピリッと張り詰めた空気に反応し、電線に屯っていた烏が一斉に夕暮れの空へ飛び立った。
「……言ったろ、いざとなりゃ逃げればいいって」
話すまで放さないと語る五指の強さに根負けし、リンラは口を開く。昨日の軍用車でのやり取りを思い出したヒバルはより表情を引き締め、手に力を込めた。疑り深いというか何というか、リンラは肩越しに苦笑を送った。
「`今この瞬間からお前は自由だ、どこへ行って何をしてもいい`」
「は?」
「仮にそう言われたら、まず何を感じる?」
脈絡はさっぱりだが、向けられる眼差しは真剣そのものだった。ヒバルはいったんリンラを視界から外し、自分なりに言葉を噛み砕いてから再び彼女を見据える。何を感じるか――不安だと、正直に答えた。
「俺らは軍人っつう肩書きがなけりゃ、ただの学生だからな」
自由に夢がないといえば嘘になる。こんな生温い戦争に縛られて、戦いたくもない相手と戦って……抜け出したいと思う。だが自由というのは、自力でこの先を生き抜く力や立場を既に手にしている者、あるいはそういった者に庇護してもらえることを約束された者だけが手にできる片道切符だ。生半可な立場の子供が手にしても終着駅は見えないし、後悔しても後戻りできない。
「だろうな」
ヒバルの回答がお気に召したのか、リンラは緩く口端を上げた。
「つまりだ――自由を目指して亡命するには、下準備と慣れが必要ってわけよ」
「……は?」
ヒバルの表情がキョトンとしたそれに変化しても、リンラは気に留めず話し続ける。話を聞く直前の凛とした空気は消え、意味深に響いていた烏の鳴き声までもが間抜けなBGMに聞こえてくる。
「今回の祭りは`慣れ`の部分だ。アズたちに外の世界に慣れてもらうための第一歩」
「おい」
「つっても元は同じ国だし、一概に`外`とも言い切れねぇけど――」
「おいコラ」
思っくそ凄んだ声を出すと、ひとまずリンラの謎説明にピリオドが打たれる。こっちを見ろとヒバルが言えばリンラは一応振り向いたが、視線そのものは絶妙な加減で逸らされている。ヒバルは大事なことを忘れていた。己の相棒は決して馬鹿ではないし、大胆な行動の裏にはそうするに至った理由が必ず隠されている。だがそれはあくまでも戦術家としての賢さであって、
「先に結論を言え、十文字で」
「いや短っ」
「言え」
「っ……」
内政や時事といった一般的な問題に関しては、一点突破の直情思考だった。ヒバルはこの瞬間よりイノシシ思考と命名した。
「み、耳貸せ」
「……?」
「だからウチが考えてたのは、…―…―…」
「っ!?」
戸惑いがちに十文字前後で囁けば、ヒバルからは「こんの考えなしがっ」という怒号とともに鉄拳が飛んでくる。ギリギリ躱せたもののリンラの傍らにあった電信柱が身代わりとなり、表面が拳の形に抉れた。うわぁーと冷や汗が流れる。
「あ、と……ヒル?」
「…………」
「……マジで怒ってんなら、悪ぃ」
「別にそうじゃねーよ」
ヒバルは引っ込めた拳を軽く振ると、リンラの腕を掴み直して歩き出した。住居である寮に着くまでも着いてからも、互いに無言のままだった。
二人が通っているリヴドシティ最大の教育機関【スパイラルアカデミー】の生徒が住居として利用している寮は、高級ホテルのような外装で、土地の面積もさる事ながらセキュリティ面も充実しており、建物内の扉をくぐるにはIDカードによる認証が必要だ。
強いて弱点を挙げるとすれば、外からの侵入ばかりに重きを置いているせいで、荷物置き場になっている地下室などにひっそり抜け道を作っても気づかれない点だろうか。まぁそこを強化されてしまえば門限を過ぎると出入りできなくなるので、緩いままで一向に構わないのだが。
「おーい……ヒルさん?」
気づけばリンラは、ヒバルの部屋のフローリングに正座させられていた。間取りはどの部屋もだいたい同じだが、彼の部屋の家具はカジュアルな茶色や白で纏められており、モノクロで統一されたリンラの部屋と違ってカントリーな雰囲気が漂っている。
「リラ、お前亡命っつったよな?」
ソファにどっかり腰を下ろしたヒバルは、肘掛けの部分に頬杖をつきながらリンラに確認する。完全に説教モードだ。
「……言ったけど」
「じゃまず亡命の概要を言ってみろ」
「違法じゃねぇ高飛び」
「分かったもういい」
早々に諦めたヒバルは溜息を吐くと、そこから説明に入る。
亡命とは、政治家や軍人など地位のある人間が宗教的・思想・政治的理由などで母国を脱出し、他国へ逃げることを意味する。越境するのが常套手段だが、交通手段を制限された状態での脱出が必要となるため、大使館などの在外公館に保護を求めるパターンもあった。当然、途中で落命する危険性もある。
そこまで話してから「アー・ユー・オーケー?」とヒバルが首を傾げると、リンラは反射的に「オー、ケー」と返した。
「じゃ次。亡命を他国に認めてもらうには条件が二つある」
一つ、申請者が母国で迫害を受けたという恐怖とそれを立証する十分な証拠。一つ、迫害の原因が人種・宗教・国籍・政治的意見・特定の社会的集団に関係していること。この二つが満たされて初めて、亡命者が利用できる特別な法的保護――亡命者保護の資格を得ることができるのだとヒバルが言うと、リンラは「え、問題ねぇじゃん」と目を瞬いた。
「戦わねぇと明日はねぇって、上に圧力かけられてるし」
「直接脅迫されたことはねぇだろ。それに断れば即死刑にするとも、家畜として扱うとも言われてねぇ」
「っ、いやでも、未成年者放り出すってだけで非道じゃね?」
「首都だけで何人の戦災孤児がいると思ってんだ」
「っ……」
上層部が提案したのはあくまでも生きていくための一つの手段であり、拒否したからといって即日命が失われるようなことにはならないとヒバルは言う。それに常に激戦区に送られているわけでもなければ、タダ働きさせられているわけでも、ましてや衣食住が生活最低基準値を下回っているわけでもない。
「つまり、条件の一つ目を満たすほどの身体的・心理的危害は加えられてねぇんだよ。二つ目に関しちゃ論外だ」
「……べつに、そんな保護に頼んなくたって…」
「国外逃亡や追放された奴のステアード、つまり住民IDは抹消される。身元不明の奴が無断で住める国の治安なんて高が知れてるぞ」
そんな国にアズハたちを住まわせるつもりかとヒバルが言うと、ついにリンラは何も言い返せなくなる。「クソがっ」と吐き捨てながら、ガシガシ髪を掻く相棒の姿を見つめること数秒。ヒバルはソファからラグの上に座り直すと、「ボールペンとノート。本棚下段の左端」とリンラに命令する。
「ぁ、おう」
反射的に立ち上がったリンラは、言われた通りの物を背後にある本棚から抜き取って手渡す。ハッと我に返った時には、ヒバルは足の短いテーブルの上にノートを広げ、何やら物凄い勢いで書き込んでいた。リンラは唖然とその背中を見下ろす。
「…………」
ふと思い至って再び本棚を顧み、整然と並べられている本の背表紙に注目した。戦術や戦略に関係する本のほか、指示を出す立場の者に必要とされる態度や話し方について記された本がある。
「リラ」
「っ!」
「勘違いしてるみてぇだから一応言っとくけど、俺はお前の願いを否定はしてねぇ」
「は、ぇ……はいぇ!?」
「んだその間抜けな声」
ツッコみながらもヒバルはペンを動かす手を止めない。そっとリンラが上から覗き込んでみれば、空白だらけだったはずの見開きページがビッシリと文字で埋め尽くされている。
え、こいつの脳内どうなってんの? アカシックレコードでも飼ってんの?
「ただ亡命じゃ、一緒に暮らすことはできても自由に暮らすことは出来ねぇ。それじゃ今と大して変わんねぇだろ」
「……じゃあどうすりゃいいんだよ」
「国の思想を変えればいい」
リヴドシティと死乃宮が友好国になれば必然的に戦争はなくなり、四人が敵対することもなくなると言って、ヒバルはくるっと掌の内でペンを回した。外に出られないのなら中から――言うのは簡単だが、それこそ無理難題だろうとリンラは天井を仰ぐ。両国の思想は正反対なうえに、政策は十二人の選ばれた代表者が共同で決めている。つまるところ、国を変えるには二十四人の価値観を変えなければいけない。
「変えるのはリヴドシティだけで問題ねぇよ」
「それでも十二人だぞ?」
「それも全員じゃなくていい。あいつらはどんな決め事にも最終的には多数決を使うらしいから、発言力の高い連中を抱き込めば何とかなる」
だから最低七人だと言ってヒバルはひとまず区切りを付けると、ペンをテーブルに置いた。軽く仰け反って背後を見やれば、相棒はへのへのもへじ並みの呆け面を晒して突っ立っている。ポップコーンのようにポンポン膨れ上がっていく情報を処理し切れず、脳がオーバヒートを起こしているのだろう。プッとヒバルは吹き出した。
「お前、ホントこういうの向いてねぇのな?」
「ぇ、あー……」
視線を泳がせるリンラに、「だから責めてねぇって」ともう一度言った。意外なことにリンラは、こと自分の苦手分野に関しては出来ないことを出来ると見栄を張ったり、下らないと見下したりはしない。
「アズの前でカッコつけたい気持ちも分かるけどよ」
「んなっ」
「それなら尚のこと、ちゃんとその分野が得意なヤツを頼れ」
相棒の文字は戦場でしか適用されねーのか?
言いながらヒバルはゆうるりと口の端をつり上げ、座ったまま片手を差し伸べた。
「……ハッ、今回ばかりはマジで降参だわ」
歳相応に目を丸くしたかと思えば、リンラはハイタッチをかますようにその手を握り返し、隣に腰を落ち着けた。こんなことならもっと早くに話しておけばよかった。
「んじゃ、まずは情報収集からだな」
「は?」
ほれ、と手渡された見開きノートに視線を落としたリンラは、再度「は!?」と目を剥く。ヒバルが書き込んでいたのは誕生日や家族構成、学歴や職歴といった上層部十二人の基礎情報だった。これ以上なにを書き込めばいいのだとリンラが視線を走らせると、趣味やイデオロギー、交友関係や性癖の欄が空白になっている。
「頭から爪先まで丸裸にしろってか……」
「俺は上から六人調べるから、お前は下からやれ。期限は二週間、長くて半月だ」
「は!?」
「決めとかねぇとお前先延ばしにするだろ。まずは大佐から当たれ。あの人も上層部のメンバーだから」
泥団子を舐めたような酷い顔のリンラに「ノートの中身、絶対に人に見せんなよ」と忠告すると、ヒバルはキッチンのほうへ飲み物を取りにいく。
(そうだ……あいつ計画とか作戦とかに関しちゃ、徹頭徹尾のパーペキ主義者だった)
早まったかもしれないと頬をヒクつかせながらも、リンラは「了解シマスタ……」と頷いて頭にノートを乗せた。
――四人で自由に暮らす
生半可な気持ちで、そんな願いが口に出来るものか。
「ほらコーヒー。熱いから気をつけろよ」
「サンキュー」
「そういやお前、十文字っつったのにオーバーしてたよな」
「あ? んじゃ一文字もオーバーせずに言ってみろよ?」
「四人仲良く暮らす」
「…………」