4 男爵令嬢は王太子に連れ去られる
思い返せばコレットも、ノックもそこそこに扉を開けていた訳で、さすがのルカも「ここは無料休憩室ではないんだけどな」とぼやいている。
「すまない。ルカ・ハロルド・フローレン。ここに、私の婚約者がいると聞いたのだけれど」
「レオニス様……っ!」
真っ先にとりまきであるダリオが、ばっと頭を下げる。
コレットは「私の動向はみんなに筒抜けか……っ」と、苦渋の呻きを漏らす。
そして、この国の王太子たるレオニス・シオドア・マティアスはくるりと室内に視線を巡らせると、ぴたりと一点でそれを止めた。
注がれる眼差しにコレットは居心地の悪い思いで身じろぎをするが、視線を返すこともできずに態とらしく明後日の方向を見る。
「いるよ。仕事の邪魔だから、とっとと連れて帰って」
「ルカ……ッ!?」
無情な幼馴染の物言いに、コレットは非難の悲鳴をあげるが、ルカは興味の一切が失せたような様子でパッパッと手で追い払う仕草すら見せる。
「そうか、協力感謝する」
「別に。馬に蹴られるつもりはないから」
王太子は、せめてもの抵抗に来客用のテーブルにへばりついているコレットをあっさりと抱え上げた。俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。
「ぴぎゅっ!!?」
動揺のあまりに妙な鳴き声を上げるコレットを抱き上げたまま部屋を出ようとする王太子に、ダリオは慌てて扉を開け放ち、道をひらく。
「ありがとう。ダリオ・ティボー・フォアローゼス。また、学園で」
ともすれば冷たく見える水色の瞳はいつもの通りだが、ダリオはこくこくと黙ったまま頷くことしかできなかった。
二人が去り、まるで嵐が去った翌朝のように静まり返った室内で、ダリオはおずおずと振り返る。そこには、何事もなかったかのように仕事を続けるルカがいた。
「その、だな。……良かったのか?」
いったい何がとは自分でも分からないまま、ダリオは尋ねる。流石に無粋だと、嗜める人間はここにはいないので仕方がない。
しかし、王太子の婚約者を幼馴染に持つ男は、顔も上げずに言葉を返す。
「別に。コレットが誰のものになろうと興味ないし」
味も素っ気もない物言いに、ダリオが眉を顰める間もなく、
「コレットが本当に嫌だと思った時には、犬に食われようが馬に蹴られようが、さらって逃げてあげてもいいけどね」
本気なのか冗談なのか、ダリオには判断のつかない調子でうそぶいて、ルカは淡々と書類に向かい合っていた。
横抱きに抱えられるのは、思ったより高くて怖い。
ある種の少女の憧れは、実際にその身に体感すると、予想外の現実が見えてくるものらしい。
「ちょっ、待っ、その……っ! 降ろして! まず降ろしてください!」
甘えるつもりなど一欠片もなく、ただただ安定感という名の安心を求めて首に抱き付かざるを得ないコレットは、予想だにしていなかった力強さで自分を運ぶ王太子に懇願する。
「嫌だ」
「殿下はそんなキャラじゃなかったでしょう!? 誰に見られるか分かったものじゃないから、降ろしてくださいっ!!」
「それの何が問題かな?」
ただでさえ筒抜けらしいコレットの動向である。元婚約者の王太子に抱えて運ばれるだなんて、きっと明日の昼にはお茶の間を賑わせるちょっとしたトピックスになってしまう。
それは勘弁してほしいとコレットは主張するが、レオニスはどこ吹く風である。
「コレット、君には三つ伝えたい事がある」
廊下を迷い無い足取りで歩きながら、レオニスは言う。それは今じゃないといけないことですか!? とコレットは心底思う。
「一つ目は、私の毎日の予定はかなり過密に詰め込まれていて、突発的な事態に対応しようにも即座に行動に移すことは難しいと言うこと」
「はあ」
彼が非常に忙しい日々を過ごしているのは、自明のことなのであえて言われるまでもない。
何故あえてそれをわざわざ口にするのか、コレットは不思議そうに首を傾げる。
「二つ目は、正式な手順でもって寄せられた訴えは、どれだけ荒唐無稽であろうとも、私の一存だけで退けることはできないと言うこと」
これにはコレットも、うぐっと言葉を飲む。
双方の言い分を平等な立場から聞いた後でなければ、判断してはならない。それは彼の王太子としての立場からすれば当然のことだろう。
なので、彼の言葉一つで婚約破棄を告げたコレットはあまりに短絡過ぎると言われるかもしれない。だが、コレットにだってコレットの言い分があるのだ。
「それは勿論分かっています。分かってますけどーー」
「そして三つ目」
人の言葉を途中で遮るなど、普段の彼ならば決して行わない暴挙にコレットは驚き目をまん丸にする。
それを感情は読めないものの妙に重苦しい目で見下ろして、レオニスは続ける。
「私はコレットとの婚約解消を了承した覚えはない」
「ひぇ」
有無を言わさぬ物言いに、コレットの口からは勝手に素っ頓狂な声が漏れる。
「コレット。君は私の、このレオニス・シオドア・マティアスの婚約者だ」
ともすれば冷徹にも見える彼の瞳が、異様なまでの熱を持っているように見えるのは、果たしてコレットの気のせいだろうか。
「そして私の婚約者である以上、言いたいことを我慢しないで欲しい」
吐息すら届かんばかりの至近距離でコレットを見つめたまま、レオニスは告げた。
「我々にはもっと会話が必要だ。そうだろう?」