2 男爵令嬢は王太子との初顔合わせを回想する
王太子であるレオニス・シオドア・マティアス殿下とコレットが初めて公式に顔を合わせたのは、コレットが自分の出生の秘密を知ったわずか三日後の事だった。
もっと心の準備をさせてくれと思ったけれど、忙しない大人の都合は繊細な乙女心にちっとも配慮してくれない。
だがぶっちゃけその二日前、暴露を受けたまさに翌日に、祖父たるフォアローゼス前公爵と伯父たるフォアローゼス現当主に引き合わされたことのほうが、コレットにとっては信じられない暴挙だった。
何故、もっと前から心の準備をさせてくれないのかと、父親の首根っこを掴んで揺さぶってやりたかった。いや、揺さぶった実際に。腹いせで。父の首はガクガク揺れていた。
ともかく、雲の上とも思っていた大貴族と、いきなり顔を合わせることになったコレットである。非常に緊張していたし、気も遠くなりそうだった。
場所は郊外にある、フォアローゼス家の星の数ほどある持ち家の一つ。いきなり母家たる大屋敷に呼び出されなかったことだけが救いだったし、たとえそれが自分が彼らに軽んじられている結果なのだとしても、コレットはほっとした。
もっともそんなとんでもない親類縁者との面談も終われば、次は早くも王太子殿下との顔合わせである。
正直なところ、一昨日の公爵等との顔合わせに気力を使い尽くしていたコレットは、もはや若干投げやりな気分になっていた。
もう、ここまで来たら何があっても怖くない。王様でも王子様でも来るなら来やがれ、とまでは言わないけれど、畏怖も緊張も飽和して殆ど感じなくなっていた。
もしやそれこそが、父親や先日初めて存在を知った祖父や叔父の策略かもしれないけど、当然感謝するつもりはない。
今度はさすがに郊外でひっそり、というわけにも行かず、コレットは城の一室にちょこんと座っていた。
目の前には、王太子殿下がおよそ一名。
涼し気ながらに華やかな顔立ち。気品のある笑みを静かに浮かべているものの、どこか空虚なそれは完全に他所行き用のそれで、彼が自分にさしたる興味も関心も抱いていないことがまざまざと理解できた。
まあ、向こうもいきなりやってきた婚約者(候補)に、親しみを覚えろと言う方が無理だろう。むしろあからさまに邪険にされないだけマシかも知れない。
さて、どうやってお茶を濁しながらやり過ごすか、などと考えていると有能そうなメイドさんが、紅茶とお茶受けを持って来た。
やはり王城ともなると、メイドさんもすごく賢そうだなあ、などと思いながら、無聊を誤魔化すように茶請けのクッキーをかじる。その途端、コレットはかっと目を見開いた。
「えっ、何これ美味しい……っ!」
しっとりとした生地にはバターがふんだんに使われており、一枚には細かく挽いた茶葉が、もう一枚には砕いたナッツが練り込まれている。
それぞれの風味や食感が異なっており、もしかすると砂糖の量やバターの配分も工夫しているのかも知れない。
舌にとろけるような甘味を、香ばしいナッツの風味や茶葉のほろ苦さが見事に調和させている。
コレットも年頃の女の子らしく、甘味の類は嫌いではなかったが、城下のどの店で買ったクッキーに、これより美味しいものはなかった。
「くくっ……」
茶請けに夢中になっていたコレットは、正面から漏れ聞こえた笑い声にはたと我に返る。
「あ、あれ?」
もしかすると全部声に出ていたのかと、コレットは焦る。
「熱烈な感想をありがとう。良かったらこちらも如何かな」
相変わらず涼しげな表情は変わらないものの、どこか楽しげに目を細め、王太子は自分の茶請けをコレットに差し出してくる。
「えーと、さすがにそれは、その……」
いくらなんでも恐れ多すぎる、と言うか不敬が過ぎるだろうと遠慮しようとするが、たった2枚の自分のクッキーはとっくにコレットの胃を通り過ぎている。
「……ありがたく頂戴いたします」
「ぶっ……」
欲望に負け、恭しく頭を下げて皿を受け取る。そんなコレットの頭上から、笑いに耐え切れず吹き出したような音が聞こえた気がしたが、恐らくは気のせいだろう。何しろ、今コレットの目の前にいるのは王太子殿下ひとりである。
「ついでに、このクッキーどこで買えるか、教えて貰っていいですか?」
こうなればもうどうにでもなれと、コレットが半ばヤケクソになって尋ねた途端、王太子はあからさまに腹を抱えて笑い出した。
いやあ、まさか自国の王子がここまで笑い上戸とは知りませんでしたね。コレットはちょっとだけ捻くれた気持ちで、目の端に浮かんだ涙を拭う王太子を見やる。
「残念ながら、このクッキーは王城でしか食べられないんだ」
「ああ、城で作った賓客用の茶菓子とかだったりします?」
「そんな感じだね」
自分の為だけに賓客用の菓子が用意されるとは思えないので、きっと他の客の分が余ったか何かだったのだろう。
自分で買えないというのは残念だけれど、本来なら口にする機会もなかったであろう菓子を食べれたのはついていた。
結果的に王太子からぶんどってしまったクッキーを味わいながら、コレットはそうひとりごちる。
そんな滑稽じみたやり取りで緊張が解れたお陰か、ぽつりぽつりとコレットは王太子と会話を交わせるようになった。
どれほどのヒエラルキーの差があったとしても、コレットと彼は同じ学園に通う生徒だ。授業の進捗、いけすかない教師への愚痴、試験の出来栄えなど、意外にも話題の種は尽きなかった。
何より、最初の謁見用の外面から、同級生へ向ける顔に切り替わった王太子は、思ったより話しやすかった。
いくら王太子とは言え、同い年の男の子だ。むしろ、公爵家の当主や前当主よりは、よっぽど会話が弾むと言うものである。
「殿下、そろそろ……」
話しにのめり込み、ついつい場所も相手の身分も頭から吹き飛んだ頃、メイドさんが控えめに王太子に声を掛ける。
「ああ、もうそんな刻限か……。すまないね、この後に予定があるため、今日はここまでだ」
「こちらこそ、すっかり話込んでしまって……」
さすがは外交も生業の一部である王族だ。最初の無難にやり過ごそうという考えはどこにやら。時間も忘れて会話を楽しんでしまった事で、その手腕に感心するコレットである。
恐らくちょっと名残惜しいなどと考えてしまったのも、自分だけなのだろう。と、彼の涼しげな顔を見て苦笑する。
美味しいお茶に美味しいクッキー、そして楽しいお喋り。思いがけず良い思いをさせてもらったと、コレットが一人満足げに頷いていると、
「では、次の顔合わせの日時は、改めて連絡を寄越すので」
「へぁっ!?」
予想外の言葉に奇声を上げるコレットを置いて、さっさと王太子は部屋を出て行く。王太子ともなれば、分刻みの予定が詰まっていても何もおかしくない。
そして取り残されたコレットは、ご丁寧にも絶賛したクッキーをお土産に持たされ、これまた来た時とは大違いの、下にも置かない態度で見送りを受けながら帰宅した。
「やあ、コレット。王太子との顔合わせはどうだったかい?」
夜分遅くに帰宅してきた父親は、寝巻きに着替え、あとは寝るだけのコレットに尋ねる。
王子と別れてからずっと、狐に摘まれたような顔をしっぱなしだったコレットは、ここでようやく悩ましげな下がり眉を殊更に下げて、父親に答えた。
「……出されたクッキーが美味しくて、お土産にも貰って……、あと何故だかまた会う事になりました……」
訝しげな顔をするコレットとは裏腹に、父親はうむうむと頷く。
「当然かな。とびきり可愛くて賢いコレットの良さを、一目で見抜けないようなボンクラに、うちの娘はあげられないからねえ」
そう呟くと、父親はおやすみとコレットに就寝の挨拶をして自分の部屋へ向かう。それを見送り自室のベッドに潜り込んだコレットは、そこでようやく自分が父親にお帰りの挨拶もおやすみの挨拶も、し忘れていた事に気づいたのだった。