1 男爵令嬢は婚約破棄を宣言する
瀟洒な絵が描かれたティーカップから、花のような芳しい香りが立ち上る。
お茶請けに並べられているのは、本来は賓客しか味わえないと言う、王城限定のクッキー。
大きく開かれた窓辺では、心地の良い風が白いカーテンをはためかせている。
そんな午後のお茶会に相応しい条件が揃っているというのに、状況と交わされる会話はまったくもって相応しくなかった。
「コレット・マーガレティア・オデス。君にはいくつかの嫌疑が掛けられている」
「はあ」
はっきりしない受け答えを返しながら、彼女は相手を見る。
光の輪が浮かぶ絹糸のような黒髪。
淡い水色の瞳は冷たく清廉で、まるで冬の澄んだ青空を思わせる。どこまでもすがすがしいその色が、自分は結構好きだったなあとコレットは今更のように思う。
所作はいつ見ても隙がなく、他人行儀な口調や態度であったけれど、いつも真っすぐ自分を見てくれていた。
しかし、今はその眼差しも違う意味を持っているのだろう。コレットはすっと視線をそらす。
口をつけたお茶は恐らく味も香りも一級品のはずだけれど、残念ながら今のコレットにはそのどちらも分からない。何もそれは、白いティーカップが触れれば砕けてしまいそうなくらい、薄く繊細な磁器でできていて、味わいも忘れるほど緊張を強いられるから、といういつもの理由だけではない。
この分では、ここに来た時にしか食べることのできない大好物のクッキーも、味がしないだろうとコレットは少し残念に思った。
「君には自分の立場を笠に着て、学園で横暴を奮っていると言う複数の訴えが寄せられている。ある女子生徒は、母親の形見の耳飾りを君に取り上げられたという。ある男子生徒は、試験の不正に無理やり協力させられたという」
ひとつひとつその嫌疑を口にしながら、彼の目はまるで僅かな動揺も見逃さないと言わんばかりの、冷たく揺るぎない眼差しでコレットを真っ直ぐに見つめている。
「そして、一番大きな訴えが、君がアナスターシャ公爵令嬢に嫌がらせをしていると言うものだ。君がアナスターシャ嬢を陰で罵倒し、時には直接的な危害を加えていたと」
そこで様子を確認するように言葉を区切ったあと、彼は言った。
「コレット。君は私の、この国の王太子の婚約者として、何か言いたいことはあるか?」
第一王子であるレオニスが問う。
しかしそれは形式的なもので、すでに断罪は決定しているのだろう。
「いいえ、ありません」
だから、コレットはきっぱり答えた。
レオニスの目が僅かに見開かれる。
「今日、この場を持ちましてわたし、コレット・マーガレティア・オデスはレオニス・シオドア・マティアス殿下との婚約を解消させて頂きます」
「と言うことで、婚約解消してきたよ。ルカ」
コレットは執務補佐室に据えられた来客用テーブルに、ぺったりと上半身をうつ伏せに張り付けたまま報告をする。
彼女の言葉にちらりと視線を向け、再び書類に向き直った幼馴染、ルカ・ハロルド・フローレンはあっさりと答える。
「お疲れ様」
「それだけぇ?」
不満げにコレットは唇を尖らすけれど、幼馴染の性格を理解しているため、ただパタパタと靴底で床を叩いて不服を主張するに留める。あまりしつこくして彼の仕事の邪魔をすると、容赦なく追い出されてしまうし。
ルカはコレットより一つ年上の十七歳であり、ともにまだ学園に在籍中の生徒であるが、卒業後は父親である宰相閣下の下で働くことが内定している。その為、卒業までは休みのたびに見習いとして仕事をするべく登城しているのだ。
ちなみにコレットの父親でもあるオデス男爵も、宰相閣下の部下である。
父親同士が上司部下の関係であるから、コレットとルカも幼馴染なのだ。
「そもそも、わたしには王太子殿下の相手は荷が重かったんだよ」
自分で切り出したことではあるが、その後まっすぐ逃げ帰るようにルカのいる執務補佐室に向かったのは、コレットにとって婚約も婚約解消もどれも一人で抱えられることではなかったからだ。
そもそも、父親の仕事や学園に通っていることで、年の大半は王都に定住しているけれど、本来の領地は都から遠い山間にある。そんな田舎者の男爵令嬢であるコレットが王太子の婚約者になるなんて、本来ならばあり得ない。身分違いも甚だしい。
にも関わらず、コレットが婚約者になってしまったのは、今からちょうど一年前。思いもかけない己の出自を知ったことに始まった。
コレットは仕事から早めに戻ってきた父親の元へ足を運ぶ。大事な話があると、朝のうちに言われていたのだ。
書斎にいた父は柔和だけどどこか困っているような印象を与える、いつもの下がり眉のまま、のほほんと笑いかけてきた。
「わざわざすまないね。宿題とかで忙しかったんじゃないかい?」
「それはまあ、大丈夫ですけど……」
むしろ多忙なのは、城務めをしている父の方である。そんな父がわざわざ帰宅を早めてまで、自分に話があると言ってきたのだ。よっぽどの内容だろうとコレットは腹を括る。
「今日、君に来てもらったのは、君の婚約についてだ」
「あ、やっと決まったんですね」
切り出された内容は、もう何年も前から覚悟を決めていたものだったので、コレットはむしろホッとした。
曲がりなりにも貴族の端くれである以上、コレットの歳になれば、すでに婚約者の一人や二人、いて当然だ。
しかし、コレットは今の今まで決まった相手がいなかった。
口さがない同級生や親戚などは、コレットに何か女性としての問題があるから婚約が決まらないのだと意地の悪い噂も立てたが、話は単純。
コレットは学園に通うため、父は城内での仕事のため、年の大半を王都で過ごしているものの、オデス男爵家の本来の領地は特に目立った長所もないド田舎である。
更にコレットは一人娘。特に名産もなく、知名度も低い領地に、娘婿として入ってくれる人間はそうそういないという話だ。
「それで、私の旦那様になるのは何処のどなたですか?」
うちと同じ男爵家の五男あたりか、それとも地方の商家の三男か。同年代が良いとわがままは言わないが、できれば父ほどの歳上は避け欲しい。
そんな事を思っていたからか、コレットは父親の言葉を聞き逃した。
いや、違う。とっさに聞くことを拒否した耳が、脳に繋がる回路を閉じたのだ。
「……今、え? どなた様ですって?」
「おや? うちの箱入り娘は知らないかい? レオニス・シオドア・マティアス殿下。この国の王太子なんだけど……?」
知らないはずがない。
コレットは思わず絶句する。
レオニス・シオドア・マティアス殿下は、コレットと同じ学園に通う、文字通り王子様だ。
しかしコレットとレオニス殿下では、そのヒエラルキーは天と地ほど違う。
ボンキュボンな均整の取れた身体つきで男子生徒の視線を独り占めする華やかなりし公爵令嬢アナスターシャ様を始め、眉目秀麗で高位の貴族が常に周りに侍っている彼と、特待生の平民の友達が多い弱小貴族のコレットでは、月とスッポンどころか存在する次元すら異なる。
事実、コレットと殿下は何年も同じ学園に席を置いていても、話をしたことも、正面から顔を拝見したこともないのだ。
「お父様。その冗談ちっとも面白くないです」
「冗談ではないよ? ほら、うちの国の二大公爵家の片方フォアローゼス家の名前は知っているよね」
麗しのアナスターシャ嬢のいるピオーニア公爵家とは異なる家系の一族、フォアローゼス公爵家。
コレットよりも一つ下の学年には、現公爵の三男が通っていることは知っているが、これもまた地味に大人しく生きてきた、まだ学園に通うコレットにとって、関わり合いになる余地もない赤の他人だ。
「まあ、名前くらいは。まさかお父様。実はフォアローゼス家前御当主の隠し子とか言いませんよね」
「それはコレットのほうかな」
「お父様。だから冗談はいい加減にしてくださいって」
コレットは渋面を作って父親を見る。人の良さそうな下がり眉は父に良く似ているともっぱらの評判で、今更血のつながりを否定できる余地はない。
父親は、酷いなあと苦笑いしながらあっさりと真相を口にする。
「コレットのお母さん、フォアローゼス家の末娘だったんだよ」
「初耳なんですけど!!?」
「そりゃあ、今まで隠していたからねえ」
コレットの母親は、彼女が幼い時分に鬼籍に入った。
記憶に残る母は、寝台の上でコレットが泣くほど臨場感たっぷりに絵本を読んでくれる、ちょっとおちゃめな姿である。
しかし常に寝間着で寝台に横たわっていた彼女は、元より身体が弱かったと聞いていた。
「うちの領地のそばの療養地に来ていたお母さんは、道に迷って僕と会ってね。お互いひと目で恋に落ちたんだ」
当然、公爵令嬢とド田舎の弱小男爵家の跡取りでは、釣り合いが取れるはずもない。
しかし、頑として譲らない娘についに公爵も折れた。
決して長くは生きられないことが分かっていた愛娘の我がままを、一つくらいは叶えてやりたいという気持ちもあったのかも知れない。
空気の良いど田舎なら体にも良いだろうと、渋々結婚を許した公爵だったが、夫となる次期オデス男爵にはいくつもの注文をつけた。
そのうちの一つは、フォアローゼス家の娘が嫁いだことを、決しておおやけにはしないこと。
そしてもう一つはーー、
「生まれた子どもを、フォアローゼス家の指定する相手と結婚させること……?」
「そうそう。僕もすっかり忘れていたんだけどね」
フォアローゼス家は先代、先々代と代々の王と親密ではあったが、性別や年齢の関係で血縁を結ぶことができなかった。
二家ある公爵家の片方だけが、血の繋がりを濃くしては政治的にも偏りが生じる。しかし、今代もフォアローゼス家には男しか産まれなかった。
「だから私に白羽の矢が立ったと」
「そういう考え方もあるかな」
呑気な顔で頷く父親に対し、コレットはちっとも心穏やかにはなれなかった。
これが第二夫人とか第三夫人、何百人もいる後宮の一人とかならともかく、この国は王家であっても一夫一婦制だ。
王太子の婚約者になるということは、自動的に王妃にまで繰り上がるということである。
「無理っ! 絶対に無理だし! 私には荷が重すぎます!!」
「まあ、無理だと思えばやめればいいだけだし、とりあえず会うだけ会ってみたらどうかな?」
「そんな気軽なお見合いみたいに!!?」
このようにして、コレットが王太子の婚約者になることが決まったのだった。




