28 ただいま
暇に思えた入院生活はあっという間に過ぎ去り、退院の日がやってきた。許可をもらってからたった二日の出来事なのだから、当たり前なのは当然だけど。
二日前、太陽から隠れて大泣きした日。あの後、ノワールと二人で病室に戻った。再生というのは便利なもので、泣き痕が消えるのを待つどころか拝むこともなく、びっくりするほどいつも通りの顔でいられた。おかげでヴァイスが泣きじゃくったことは、当事者だけの秘密にとどまっている。
今日はそんな当事者その二であるノワールと、それからディアン、そしてスティルが迎えに来てくれる。ノワールと顔を合わせるのが気まずいのはもちろん、それ以上に、スティルに会いたくなかった。いや、ヴァイスの心情を細かく解説するならば、その表現は適切ではない。会いたくても、彼に合わせる顔がなかった、と言うのが正しいだろう。
ヴァイスが入院してから意識があるうちにスティルと顔を見合わせたのは、目覚めたあの日の一度だけ。それから今日までの三日間、スティルがヴァイスの病室を訪れたことはないし、ヴァイスの方も、青鈴の見舞いに来たであろうスティルの姿を見かけた際には、意識的に彼のことを避けていた。
二人ともまだまだ子供だが、いつもみたく喧嘩した次の日に仲直りができるほど明るい状況ではない。それにスティル相手では、ノワールを相手にする時ほど素直になりきれない。スティルの方がどう思っているかは、分からないが。
だがいつまでもウジウジしてはいられない。退院は決定事項だし、迎えの時間も迫ってきている。気は重いが、発つしかない。最悪顔を合わせた時に、どうするか考えればいい話だ。
両手いっぱいに荷物を持ったヴァイスは、挨拶を済ましたのちに病院を出た。少し外を見回すと、見慣れた三人の姿が確認できる。一度だけ深呼吸をしてから、その輪に加わるために歩き出した。
「……」
「……」
そばに寄ってから一番最初にスティルと目が合った。二人同時に口を横一文字に結び、沈黙だけを流す。ディアンもノワールも、見守るのが役目だと言わんばかりにただ黙っている。背中を押すように、暖かさを持った風がヴァイスを撫でていた。
「「ごめんなさい」」
「「……え?」」
互いの開口一番を互いに驚く。子供らしく幼い目を思い切り見開き、今度は口をぽかんと開けて見合った。ヴァイスはスティルが言ったことを咀嚼しようとしていたし、スティルもまたそうするかのようにしきりに瞬きをしている。
数秒した頃に、後ろに控えていたディアンが堪えきれなかったように吹き出した。そんな彼を見て、ノワールも珍しく楽しそうにくすくすと笑った。ヴァイスとスティルの年下二人だけが、置いてけぼりにされたように唖然としている。
「……ふふっ」
「……あははっ!」
そんな雰囲気に釣られて二人も笑い出した。口角を上げたその裏で、スティルのそんな顔を見たのは久しぶりだ、とヴァイスは思った。
「スティル、あの時は、ごめんね。スティルだってきっと辛かったのに、酷い当たり方して……僕、お兄様失格だよな」
「……いえ、いいえお兄様、良いんです。あの時は、少しビックリしてしまっただけで……私がもう少し、上手く切り返せていたら良かったんです。私こそ、失格です。……申し訳ありません」
返ってきたスティルの言葉を聞いて、酷く切ない気持ちになった。それと同時に、相変わらず優しいな、とも思う。……甘やかされている、と言った方が正しい気もするけれど。
失格なんかじゃないよ。
そう言おうとして、やめた。これ以上は不毛になるだろうから。そんなヴァイスの考えを見抜いたのか、眼前の少年は柔らかく微笑んだ。優しげな翠玉の瞳と、傾げた首に沿って流れる練色のふわふわとした髪。いつも通りすぎるスティルを見ると、ほっと安心する。頬が緩むのを自覚するが、特に直そうという気は起きなかった。
「ただいま!」
元気いっぱいに伝えてみせる。誰の真似でもない、ヴァイス自身の素の笑顔をスティルに向けた。スティルは一瞬驚いたような顔をしたけど、すぐさま年相応な笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。……ずっと、待ってましたよ」
喜色を含んで一層高くなった声は、それでも木綿のように柔らかな聞き心地で。ずっと待ってた。その言葉に咄嗟にノワールの方を向けば、ほらね、とでも言うように目を伏せたのだ。
「お帰り、ヴァイス」
「おかえり」
ようやくの出番といったように、年上二人も歓迎の言葉を向けてくれる。抱きしめるような優しい空気に、やっぱり家族っていいな、なんて思った。だからこそ、このままハッピーエンドで終わりにしたくはない。
「……僕、ずっと後ろ向きなことばっか言ってたけど、それでも時間は前にしか進んでくれない」
脈絡のない切り出し方に、それを耳にした三人ともが不思議そうな顔をする。けれど誰一人として口を挟まず、静かに聞いてくれている。だからまっすぐな気持ちを精一杯込めようと、そう思った。
「前にしか進まないからこそ、僕は、いつか青鈴先生が目覚めるって、そう信じるよ。その時は笑顔で〝おかえり〟って、……みんなで、言いたい」
太陽が沈まないことはない。でも、それと同じように、太陽が一生昇らないこともあり得ない。まだその時ではなくても、いつかきっと、あの陽だまりのように暖かい笑顔がまた見れることを信じている。
スティルもノワールも、まだヴァイスの言葉を身に浸透させている途中らしい。まだ一言も口にはしないが、その表情から、立ち振る舞いから、決して無視しているわけではないと分かる。
そんな中、真っ先に返答をくれたのはディアンだった。仕方がない、みたいに笑ってヴァイスのそばに寄り肩を組む。この表情を見るのは何回目かな、なんて考えた。
「そんじゃ、そん時は胸張っておかえりって言えるように、もっと強くなっておかなくちゃな」
柔らかな物言いに、どこか強く望むような色が混ざる。肩を組んだ時の荒い動作とは真逆のそれに、ほんの少しだけ動揺してしまった。
「なんだよ、お前から言い出したんだぜ? 梯子外すなよな」
それをディアンは別の意味で受け取ったらしい。不満そうな言葉とは裏腹に笑って言ってくる。そういうところだ、と物申してやりたい。それでもヴァイスは、笑いながら「ごめんって」なんて返した。
「それまで私たち、怪我も大病も許されませんね」
次に寄ってきたのはスティルだった。ディアンとは反対の場所に位置取りをして、ヴァイスの顔を覗き込んでくる。揶揄うような声色に、こいつも中々メンタルが強いな、と思った。けれど耳に痛いのは事実でしかなくて。あはは、と曖昧に笑ってみせる。
「……それって僕の尺度で測っていい感じ?」
「お兄様?」
「病気は大丈夫でも怪我はムリ!」
常に命のやり取りの最前線に立たされている以上、こればかりは譲歩できない。いや、普通ならば譲歩しなければならないのだろうが、立場というものがある。早々に戦闘員を引退するならば別だろうけど。
「……冗談です。できる限り、元気でいましょうねって話ですよ」
そう言って、どこか悲しそうに笑みを深めた。冗談と言ったのは言葉の通りで、けれどそれ以上に複雑な感情を含んでいるように感じた。スティルはきっと分かっている。自分たちが歩む亜人生において、病はともかく怪我から逃れることはできないということを。彼は昔からそうだ。物理的な痛みに敏感で、恐らくヴァイスの体質を誰よりも快く思っていない。悪い意味ではなく、怪我をしても大丈夫という前提がそもそも嫌なのだと思う。
だから「できる限り」なんて物言いをするんだ。百の確率で怪我を免れる保証はなくて、だからって仕方がないものと割り切れもしなくて。そういう彼の難しさを見ると、勝手にも大人っぽくて羨ましいと思う。言えはしないけど。
そんなスティルに同調するように、ヴァイスも薄く微笑んでみせる。彼の頬が安心するかのように少し緩んだような、そんな風に見えた気がした。
「全く、結局悲観的になってないかい?」
その雰囲気にツッコミを入れたのはノワールだった。彼だけはヴァイスの方へと寄らずに、一人同じ立ち位置のままそこにいる。その佇まいと急な正論に、逆にぐうの音が出そうだった。
「このまま突き進めば良いだけだろう? それで大体解決するよ」
先ほどまでの雰囲気とは真逆に、あっけらかんとして言い放つ。逆張りしないと死ぬのか、と思った。
「なんだそれ、随分雑にまとめたな。脳筋かよ」
「え、ディアンじゃん」
「脳筋はチームに二人も必要ありません」
「お前ら……」
塊になっている三人は好き勝手に話を広げる。ディアンの説教が始まるだろうか、とスティルと一緒になって身構えれば、ノワールが先にため息をつき主導権を奪い返した。
「ディアンと一緒にしないで。……僕はただ、このまま成長していけば強くなれるし、病気は置いといて結果的に怪我も減る。そしたら、青鈴さんが目覚めた時にも五体満足で迎えられるんじゃない、って言ってるんだよ」
最初の言葉に反応したディアンを抑えつつ、聞いた言葉に驚いた。まるで小川のようにさらりと軽く言っているが、その実海の塩分濃度の如く中身が詰まっている。つまり、それだけ完成難易度の高い絵図だということだ。
「貴方は随分……簡単に言ってくれるんですね」
割合で表すと十、といった具合に呆れが含まれた声でスティルが言う。本当だよ、と援護射撃をしたい気持ちはあったが、ノワールのこういった態度がお馴染みすぎて、今日ばかりは控えておいた。何せ今さっき退院した身だ、これくらいは許して欲しいと思う。
スティルの返答を聞いたノワールは、冗談だろ、とでも言うみたくふっと笑った。斜め上に首を傾け、挑発するような視線を向ける。細まった瞼から覗くシトリンのような瞳が、イタズラに鈍く光っている。
「それじゃあ君は、歩み始める前から諦めるってことかい」
疑問形の割に語尾の抑揚が平坦な、独特な声遣い。その表情と併用されれば、煽り効果は百倍増しだ。
「……癪なので事前に言っておきますが、私は貴方の挑発に乗るつもりはありません。が、私が簡単に諦めるとは思わないで欲しいものですね」
口調は丁寧なのに、普段のコットンみたいな声色が嘘のようにトゲトゲしていた。
スティルにはノワールの挑発がよく効く。スティル本人は否定しているが、恐らく身内の中では既知の事実だ。ディアンと目を合わせて「効いてるね」というアイコンタクトを交わす。その後でノワールの方を見ると、やはり狙い通りだったのか満足げに笑っていた。真横からほのかに感じるオーラが恐ろしい。ヴァイスは神に祈りかけた。
「……もーいいだろ! 締まったんなら、今日はもう帰ろうぜ」
神はすぐそばにいたらしい。その神、もとい少年はなるたけ明るくしたような声で帰還を促す。気のせいか、後光が差しているようにも見えた。調和というのは良いものだ。そのためなら、スティルへ送ることは諦めた援護射撃をしても良いと思える。
「そーそー、帰ろうよ。……入院生活疲れたしなー、早く帰って休みたいなー」
わざとらしく語気を強めて言う。ヴァイスとディアン、寒暖コンビの連携に、静かに散っていた火花が収まっていくのを漂う空気から感じ取る。次第に、二人の表情が和らいだ。
「そうですね、そうしましょう」
「いつまでも外で駄弁ってたら、ヴァイスの体に障るもんね」
鎮火というと大袈裟だが、とにかく落ち着いたようで心底安心した。ほっと胸を撫で下ろす。またまたディアンと目線を交わし、労いの意を互いに込めた。
「折角ですし、今日はこのまま並んで帰りましょう」
「僕はどこに行けって言うんだい。君がどいてくれるの?」
「俺が手繋いでやっても良いぜ」
「勘弁してくれよ。だったらまだスティルと繋ぐ方がマシだね」
「私が嫌です」
「は?」
「まーた振り出しじゃん……」
わいわいと言葉を交わしながら、気の置けない兄弟たちは並んで帰路を歩いていた。
喜びや悲しみ、楽しみや苦難。他にも数えきれないものを生む出来事があったし、生きている限りそれは変わらず起こっていく。まだ乗り越えられなくても、受け止めきれなくても、結局は進むしかないのが亜人生というもの。
それでも今だけは、悲痛な現実を心のうちに隠してただこの時を過ごしたいと、そう思ってしまう。幼い心は明るい未来を願ってしまう。
今は四人で歩くこの道を、いつか全員で歩けたら良いと、そう思った。




