25 目覚め
ひらり、ひらり。小ぶりな羽をリズミカルに動かして飛ぶ真っ白な蝶がいた。その蝶は、止まり木を探す鳥のように彷徨っている。規則性なく進んでいったその先のとある場所で、ようやく蝶はその羽を休めた。蝶の足先に広がる赤は、激しいコントラストによって強く主張されていた。
不意に、そんな一羽の蝶に釣られたようにして、また一羽、もう一羽と蝶が増えていく。同じ場所に群がる蝶の絵面は、幻想的なようでいて、どこか不気味だった。
蝶にとっての止まり木となったのは、その蝶と同じくらいに真っ白な少年——ヴァイスの体だった。自らの体に止まる蝶の気配によって、その少年は目を覚ます。
うわ?! ちょっと、どっか行け!
自らの体に無数に止まる蝶を見て、ヴァイスは思わず叫び声をあげる。が、間違いなく動かしたはずの口からは、思った通りの言葉は出なかった。妙な息苦しさに襲われて、反射的に思い切り息を吸い込もうとする。酸素を取り込む感覚すら曖昧だった。
ヴァイスはこの状況に覚えがあった。つい先日、体の異常を確かめるためにと行った検査。その最中で体験した、暗闇の中での摩訶不思議な出来事。あぁ、そっくりじゃないか。不思議と腑に落ちる感覚があった。
それでもあの時とは変化があって。一番大きいのは、体の自由が効くことだった。検査を受けてこの状況に出会したあの時は、指の先すら動かせなかったのだ。何故、と考えて分かるようなものでは、到底ないのだろうけど。
そしてもう一つは、この蝶の大群。前は一羽だけだったのに、今回は随分と大勢で出迎えてくれたものだ。恐ろしさもあるために、大声で嬉しいなどとは言えないのだが。
……いや、僕、ボロボロじゃん。
蝶の大群以外特に危険がないのを良いことに、呑気に状況確認をしていたヴァイスは、己の負傷度合いを認識した。擦り傷切り傷はもちろんのこと、体の感覚から内臓もどっかしらが損傷していることに気づく。出血も相当なものだった。その割に痛みがないのは不思議だが、そもそも現状が謎そのものではあるので、ヴァイスは気にしないようにした。
謎が謎を呼ぶ現状に辟易としていると、ヴァイスの体に留まっていた大勢の蝶のうちの一羽が、長い長い口吻をそろりと伸ばした。え、という相変わらず言葉にならない驚きが空気としてだけ漏れる。その口吻が伸びた先にあるのはヴァイスの体だけだ。それも、血だらけの。そこまで考えて、まさかという考えが頭をよぎった。
この蝶たちは、僕の血を吸う気なのか?
自分で打ち出した考えながら、頰が引き攣る感覚がした。あり得なさすぎると思ったのと、本当にそうならドン引きものだと思ったからだ。
だがしかしいや待てよ、と改め直そうとする。蝶が吸うのは花の蜜だ。血を吸うだなんて、そんな吸血鬼じみたことはしないはず。
でもそう言えばと、この『亜人ノ国』には吸血鬼も所属していることを思い出す。それならば吸血鬼ならぬ吸血蝶もいるのだろうか。
存外速く回る頭でそんなことを考えていた。意外にも余裕ありげに仮説を立てるヴァイスを気にかける様子は蝶にはもちろんなく、各々が勝手に口吻をヴァイスの体——もとい血液に向かって伸ばしていた。
え、はっ……なんで。
咄嗟に脳をよぎったのはそんな言葉だ。
蝶がヴァイスの血液に口吻を伸ばして、恐らくそのまま血液を吸って。その一連の行動が最後に生んだのは、細かな氷のエフェクトだった。生じるそれと反比例するように、ヴァイスの体から血と傷が少しずつ消えていく。まるで血液を氷へと変化させていくように。
この現象にも覚えがあった。いや、覚えがありすぎた。もう何度見たかも分からない、体質によって傷が再生されていく様。今起きている現象は、傷が再生される時に見るものと全く同じ光景だ。
この場所は一体どれだけ謎を生むんだ。
衝撃的な光景を目にしながら、それでもどこか冷静だったのは、この空間そのものが現実離れしているせいだろう。夢の中で起きる不思議な出来事と片付けてしまえば、それで終わるのだから。
ヴァイスの色白な肌には目立つ血が全て吸い取られた頃、ヴァイスの体からは傷が一つ残らず消えていた。もちろん、内臓の違和感もなくなっている。そちらのダメージも回復したのだろう。
と言うより、これも元に戻ったと言う方が正しいのだろうか。
特に大差ないことを考える。そうこうしていると、突然、本当に突然ヴァイスの目の前に朧げな人影が現れた。予測していなかった出来事に驚き、ヴァイスの肩がビクリと跳ねる。警戒心から、ついついものすごい形相でその人影を睨んでしまった。
けれども、目の前の人物はヴァイスに危害を加えるでもなく、ただそこに棒立ちになっている。遠慮もなしに見つめていると、蝶たちが苛立ったようにその場を飛び立って消えていった。突然のことに驚きはしたが、それでも構わず観察しているうちに、とある既視感を覚えた。ヴァイスは片眉を上げて、訝しんでますという感情を表情で全面に出していく。
——僕?
確信を持っていないような声は、それから間も無くやはり空気だけで口から漏れた。それに慣れたヴァイスは煩わしさを感じることなく、ただ目の前の誰かを見据えている。
その誰かは自分に似ていると、ヴァイスはなんとなくそう感じた。光源そのものだったような蝶の大群が消え、その誰かの顔は認識するのも難しいが、漂う雰囲気がどこか他人じゃないような、そんな感情を抱かせる。背丈はヴァイスよりも大きく、視界が明るい時に見た限りでは髪型も随分と違っていた。それなのにどこが似ているんだろうと、我ながら疑問ではあった。
あなたは誰、という問いが言葉にならないことは知っている。だから口にはせず、頭の中だけでその質問を投げかけた。
ヴァイスの脳内でも覗いたのか、彼が質問を浮かべた瞬間、目の前の人物は徐に右腕を持ち上げる。暗闇の中、その人はヴァイスに指をさしているような、そんな気がした。
ほんの少しだけ開いた瞼。その隙間に入り込むみたく、明るい光がヴァイスの瞳を刺激した。ぱち、ぱちと緩慢な動きで瞬きを繰り返して、そうして何度目かにようやくヴァイスの脳は覚醒する。これまたゆっくりとした動きで辺りを見渡して。左へと目線を移した際に、椅子に座って読書をしているノワールが見えた。
「ノ、ワール……」
ヴァイスの細い声はノワールに届いたらしい。ピクリと反応した彼は、素早く読書をやめて、ヴァイスに近寄ってきた。
「ヴァイス……!? 目が覚めたんだね、良かった……」
嘘みたいに優しい声だった。珍しく焦ったような顔をする彼に、場違いな上に失礼だとは分かりつつも、笑ってしまいそうになった。
「……ここ、どこ……」
「病室だよ。……君自身が病床に伏すのは、初めてだったね」
唐突に投げかけた質問にも、ノワールは変わらない声色で答えてくれる。それを聞いて、ヴァイスはわずかに目を見開いた。
病室、ということは当たり前だがヴァイスたちは病院内にいるのだろう。それも、自分が入院できているのだから人工亜人受け入れ可能な一般の病院。
そこでまた一つ生まれた問い。何故自分が一般の病院に入院することになったのか。
自らの体質と秘匿性から、ヴァイスは通常の医療機関の利用を禁止されている。故に心身に異常があった場合には、人工亜人開発部に赴いてくれと生みの親であるグレースから言いつけられていたのだ。
だから今自分が一般の病床に伏していることが不思議で不思議で仕方なかった。
そんなヴァイスの疑問をノワールは見透かしたらしい。おかしいよね、とでも良いたげに眉を下げてみせた。
「意識不明の重体だったからね、先に病院に搬送されたんだよ。幸か不幸か、搬送された時は自然治癒力が人並みに低下していたから、君の体質については気付かれなかったらしい。グレース様も、それならばって君を研究室に移すことはしなかったって」
まぁ、突然移送したらそれはそれで怪しまれるからね。ノワールはそう付け加えた。
なるほど、大体の謎は解けた。それにしてもヴァイスの表情一つで彼の疑問をほとんど解消させる答えを出すとは、ノワールはの観察眼は相変わらずの鋭さだ。
感心感心、と呑気に考えていると、ヴァイスの頭にもう一つ重大な疑問が浮かんだ。
「じゃあ僕は、君が目覚めたことを医師に伝えに——」
「青鈴先生は?」
ノワールが繰り出そうとしていたであろう報告に被せるようにして、ヴァイスはその浮かんだ疑問を口に出す。言葉を被せてしまったことに対する申し訳なさは感じたが、それよりも恩師の安否が気になった。
ヴァイスの問いかけを受けたノワールの顔からは、お得意の微笑が消えていた。ピタリと動きを止め口を閉ざす。ほんの少しだけ視線を彷徨わせた後、まるで取り繕うような嘘っぽい笑みを浮かべた。
「青鈴さんは、無事だよ」
宥めるようにノワールは答える。けれどその声色にほんのりと滲んだ動揺を、ヴァイスは珍しく聞き逃さなかった。
「……うそだ」
自分でも驚くほどに冷えた声色だった。ノワールの返答に対する感想だけでなく、まるで頭に浮かんだ悪い予想の全否定をするかのような。そんな温度の低い声が、生ぬるい口内からスッと吐き出された。
ノワールは、また一瞬だけ口を閉ざす。選択を迷うかのように、艶やかな髪と同色のシャープな眉をほんの少しだけ歪めた。
「——入院してるよ。でも、君が心配するほどじゃない」
説得力を持たせるみたく、ノワールは左右へと軽く首を振る。連動して流れる髪が、不安に揺さぶられているかのように見えた。
ノワールがどこか胡散臭くて嘘っぽい雰囲気を漂わせるのは、何も特別なことではない。こんなことを言っては失礼極まりないが、普段から彼はそんな感じだ。弱冠十二歳にしてどうかとは思うが、それでもいつもはそんな些細なことを気にするほど、ヴァイスは神経質じゃなかった。
けど、今だけは。ノワールの言葉を疑う気持ちが拭えない。どんなに信頼している家族であろうとも、切っても切り離せない分身のような相手であろうとも、その要素すら上回る不安が脊椎を伝うのだ。
「……この病院にいるんだよね? どこ、連れてって」
「っ、君だって今は患者だ。大人しく——」
「じゃあいい、自分で探す」
最初からノワールなど当てにしていなかったように言葉を被せる。がばっと掛け布団を剥いでベッドから降りた。裸足で踏みつけた床はぬるい。構わずそのまま歩き出す。
「ヴァイス!」
そんなヴァイスの態度に耐えかねたのだろう。声を荒げて白を冠す名を呼びつけたノワールは、そのまま名の主の細腕をガシッと掴んだ。案外強い力で引かれたことで、ヴァイスはふらりとよろけてしまう。
「離せよ! おまえに僕の行動を止められる義理はない」
バランスを崩したのに釣られたのだろうか、思った以上に大きい声が出た。ヒリ、と喉が痛む。それによって痛みを感じることを思い出したかのように、全身に激痛が走った。
うぅ、と痛みに呻くヴァイスを見たノワールは、何か言いたげに口をぱくぱくと開閉させていた。道標を失った迷い子のような顔をする彼に、罪悪感を抱かなかったと言えば嘘になる。
それでも一度吐いた言葉が元に戻ることはない。ヴァイスは口を一文字に引き結び、すっかり脱力しているノワールの手を払う。そのまま廊下へと続く扉をガラリと開け、病室を後にした。
一人取り残されたノワールは、己の失態を嘆くかのように、顔を覆って立ち尽くしていた。




