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モノクロの君に捧げるモノローグ  作者: 花式カイロ
二章
54/61

24-2

 思考が冷やされていく。クリアになる、という意味ではない。凍結していくのだ。認知を拒むみたく、思考を巡らせる道の一つ一つが、恐怖という不純物に埋められていく。

 それでもと、震えてすくむ足を無理矢理にでも動かした。自分よりも上の存在に対する恐怖より、生存本能が上回る瞬間。体の形を模した氷の檻を飛び出した、その瞬間。先までヴァイスが足をつけていた床が噴火でも起こったみたく吹き飛んだ。

 衝撃でヴァイスも吹き飛ばされたが、受け身を取りながら後方で起こった出来事を確認するために目を凝らす。白絹と木片が視界でまばらに散る中、ヴァイスの目を引いたのは、壊れた床でも机に放置された書類の悲惨な状況でもない。


 そこにいるのは、フリースペースという名に似つかわしくない出立ちの、優雅な布に全身が包まれた、貴婦人のような(・・・)生き物だった。


 体制を整えたヴァイスは、その姿をもう一度見て、そして絶句した。だってその姿には見覚えがあったから。いつかの時、資料室で垣間見た長方形に閉じ込められたカティアの過去。その中心にいた、人型を模した異形。今この瞬間目の前にいる〝それ〟は、あの時見たものと全く同じ姿だった。


「なっ、なんで——っ!」


 絞り出したような疑問。それは前方から迫ってきた魔力の気配によって、自分で答えを出す間もなく潰された。咄嗟に反応して右へと避ける。間髪入れずに、魔力の気配が走った直線上のインテリアが吹き飛ばされた。木製とはいえ粉砕されてしまったそれらを見て、ひぇ、という情けない声が喉を通り抜ける。喰らえば洒落にならない威力だ。どうやらそれ——人型異形の脅威は、最初にヴァイスが感じた恐怖と釣り合いが取れているらしい。残念なことに、全く嬉しくはないのだが。


 行動を終えた異形は、華やかな服をゆらりゆらりとなびかせながら、こちらにゆっくりと近づいてくる。顔すら見えない、というより顔があるのかも分からないそれの考えは、表面のひとすくい分すら見抜けない。重圧な魔力の空気によって巧みに隠され、殺意も敵意も上手く感じ取ることができなかった。

 それでも、この目の前の異形が〝明確に狙いをつけて攻撃をしてきた〟ことは事実だ。それならば、この場は撤退するべきである。……それが、最適解のはずだ。


「っ……」


 今ここで自分が逃げたら、誰がこの異形を食い止める? 初動の攻撃は詳細不明ながらも、床が盛大に吹き飛ぶほどの威力を持っていて。感じる魔力だって、並の異形とは比にならないほどに強大で禍々しい。ヴァイス個人の主観でしかないが、これに打ち勝つビジョンはどうやったって見えない。


 だからこそ、足止めをする者が誰もいなくなった状況のことを危惧していた。確かにこの寮には、ヴァイスより強い人工亜人なんて大勢所属している。青鈴だってその一人だ。恐らく、先ほどここから離れた人工亜人たちのほとんどもそうだろう。だがその彼らでさえ敵わなかったら? それこそ、最悪の未来に辿り着くことになってしまう。

 目の前の異形を、確実に食い止めることができる戦力が揃う時。それまでのせめてもの時間稼ぎをするには——。


「う、わっ! ——っ、僕がやるしか、ない!」


 またもや迫ってきた魔力の波を、すれすれのところで体を捻って避けていく。ステップを踏みながら体制を整えて、パチンと一つ指を鳴らしながら戦闘服へと衣装チェンジした。

 再生力が落ちていようが、結局ヴァイスが死なないことに変わりはない。今ここでその体質を活かさなくて、どうすると言うのか。


「震えるな、僕……!」


 トントンと、己の拳で太ももを叩いた。その拳でさえもが、情けなく恐怖に揺さぶられている。それを打ち払う気持ちも込めて、最後に一回だけドンと強く拳を太ももに打ちつけた。

 バッと顔を上げ、目の前の敵を視界に入れる。強い意志を編み込んで、それを氷で固めた剣を手に持った。

 次に魔力の波動が飛んできたのは、ヴァイスが踏み出したタイミングと同時だった。

 横一直線に飛んできた攻撃を、低い姿勢で飛び込み前転して避ける。ヴァイスが体を起こし、そのタイミングでまた放たれた攻撃を、剣で受け流す勢いで避けようとした。


「……!」


 剣を通して伝わった感覚。掴みきれないような不思議なその感覚に眉を寄せつつ、後方へと飛んで距離を取った。


「剣が濡れてる……」


 アクアマリンで形作ったように艶を放つ剣身に、ポツポツと雨が降り落ちたように水滴がついていた。氷剣が溶けているのかとも思ったが、いやいやそんなはずはないと思い直す。この剣を形作る氷は、ただの氷ではなくヴァイスの魔力を込めて作られた氷だ。魔法で生み出された氷は特殊で、使い手の力量にもよるが簡単に溶けたりしない。おまけに、この剣は使用者——つまりヴァイスが手にしている間は、魔力を少量ずつ吸収してその形を保っている。つまり、仮に溶けたとして、この剣は絶えず与えられる魔力によって瞬時に冷え固まる。


 だとしたらこの水滴は、異形の攻撃を切り裂いた——と言っても、手応えなどないに等しかったが——時に付着したものと考えて良いだろう。ということは、だ。この液体の正体が分かれば、少しは対策の余地が生まれるかもしれない。そうなれば、明確な作戦を練ることも不可能ではないだろう。


六花(りっか)冰紡檻(ひょうぼうかん)!」


 素早く音を紡いでいって、魔法を発動させる。パキンパキンと小気味良い音を響かせながら、銀華が異形を取り囲むように咲いていった。敵から攻撃を防ぐための防御魔法。それを異形の周囲に展開させたのだ。

 六花冰紡檻は、ヴァイスが発動できる防御系統の氷属性魔法の中でも、最も魔力消費が激しいものだ。魔力の扱いが不得手なヴァイスにとって、それは普段使いなど到底できるものではない。タイミングを誤れば魔力切れ必至だからだ。

 けれど今この瞬間、そんなことを気にしている余裕があるだろうか?

 否、ただの一つだってないだろう。そもそもこの戦闘の目的は時間稼ぎだ。だったら半端な防御はむしろそぐわない。


「——液体? いや、なんか……ペタペタしてる……? なんだこれ」


 ヴァイスが言葉をこぼしている間、異形の攻撃は容赦なく氷でできた檻へと注がれた。バキ、パキンと氷が削れる音が響く。この身が打ち震えるような音を、されどヴァイスは意識しないようにしつつ剣身の付着物を確認する。毒などの害の有無も気にはなったが、体質的に問題はないだろうと判断して構わず触った。例え有害だったとして、結局は治るのだろうと考えると大した障害ではない。


 水滴だと思っていたそれは、水というには粘度が高い感触だった。皮膚にまとわりついたかと思えば、離した瞬間、その名残だけが触れていた証拠となるような。そんな、不思議な感触。

 未知の感触に怪訝な顔つきをしながら、液体もどきをまじまじと見つめる。それで気付いた。その液体もどきは無色ではなく、ほんのりと青紫の色彩を帯びていた。かなり薄められたような色をしていたから、気付くのが遅れてしまった。あの攻撃を切りつけた時に付着したものがこれなら、同じように知覚できなかっただけで今までの攻撃もこの色を纏っていて、尚且つ実体があるのだろう。


 思考を巡らせる中、ふと脳裏に朧月のようにぼんやりとした記憶が浮かんできた。

 僕は、この物質を見たことがある?

 一つの仮定が浮かんだ瞬間から、ヴァイスは記憶の引き出しを手当たり次第に漁っていった。いつ、どこで、何がきっかけでこれを見たのか。必死に頭を働かせて、でも何かが引っかかったように思い出せないことに苛立ちが募る。焦れば焦るほど、霧が蔓延するように記憶を隠していく。それを邪魔だと払い除け、求めたものに手を伸ばしかけた。その時。



 ——バキンッ!!



 何重にも響いた硬い音。六花の檻が、崩壊した。


「っ、ぐぁっ!!」


 音で反射的に理解したヴァイスは慌てて構えを取ろうとしたが、それよりも速く、異形の攻撃がヴァイスに襲いかかる。与えられた痛みに歪められた表情。狭まった視界には、自身の鳩尾に打ち込まれる青紫色の触手が写っていた。



『……あぁ、そうそう。今日ね、面白いものを見つけたんだ』



 あの時見せられた写真。構図の中心を陣取った被写体。青紫色の、〝スライム〟と呼ばれるようなゲル状物質。あれは、あれが、既視感の正体だ。



「がはっ! かは、っ……ぅ、ぐ……、っ!」


 壁に打ちつけた頭と背中、そして直接の攻撃を受けた腹部がズキズキと痛む。咳き込むたびに、口から血液が溢れ出た。戦闘服の黒地部分は紅を吸い込み更にその色を深くさせ、白地部分はその面影すら消すように派手な鮮血に彩られている。その色の変化は止まるところを知らず、蝕んでいくようにじわりとシミを広げていった。

 ヴァイスは激痛に耐えながらも、ふらりふらりと立ち上がる。外傷は目立たないが、内臓がやられているのだろうか。動くたびに体の内側から刺すような痛みに襲われる。引かない痛みと、治らない傷に辟易とした。

 いつもならもう治ってるのに。こんな怪我も、気にせず走り出せるのに。

 なんでこんな時に限って、と自身の体質への文句を浮かべる。けれどそんな思考にリソースを割いている暇などない。左右に勢い良く頭を振って、雑念を追い払う。一つ息を吸って、敵の方を見据えた。


 ヒュンッ!


 耳をつんざくような風切り音。持ち前の反射神経を活かして、その音と共に襲いかかってきた攻撃を間一髪でかわす。


「うぐ、っ……!」


 激しい動きはそれだけの負荷を伴う。回避行動によって刺激された体に痛みが増す。効力が弱まったとは言え、再生によってそれ以上の出血がないことだけは幸いだ。


 そうして体を休める暇もなく、敵の攻撃が再開される。先ほどの攻撃で伸ばされた触手がそのまま進行方向を変え、こちらへと飛んでくる。ヴァイスは空中に魔法で薄い氷を貼りながら、上に跳躍してそれを避けた。そのままもう一枚氷壁を生み出し、それの表面を異形に向ける形で設置した。

 トンっ、と軽い音を鳴らして氷に足をつける。ぐぐっと踏み込んで、氷が砕けると共に勢いそのままに異形へと突っ込んでいった。


「はぁっ!」


 力いっぱいに振るった氷の剣が標的に命中した。避ける素振りも見せなかった異形は、胴らしき部分から見事に両断されている。床へと着地したヴァイスは、再び剣を構え直して異形へと見合う。

 手応えがない。

 二度目の感覚に焦燥を覚える。それに誘われるようにして、自分が負ける未来を想像してしまう。けれどそれだけは避けねばならない未来だ。


 床に倒れて静止したままだった異形は、不気味な挙動で起き上がりながら、両断されていた胴を繋げた。千切れたままの服の隙間からは、触手と同じ色の素肌らしきものが見える。全身がゲルでできているのだろう。でなければ断たれた胴をくっ付けることなど不可能だ。ヴァイスのような特殊体質持ちを除いては。


「ズルじゃん……」


 まるで悔しがるかのように吐き捨てる。そんなズルが〝標準装備〟となっている自分のことは棚に上げ、恨めしそうに眼前の敵を睨め付けた。頬をむくれさせるおまけ付きで。

 その場には似つかわしくない表情を浮かべるヴァイスを煽りでもしているのか、異形は服の裾から伸びている触手をゆらゆらと動かしている。ぐにゅん、ぐにょん。次第に振れ幅が大きくなっているそれは、一際大きく振りかぶったのを合図にヴァイスの方へと向かってきた。

 体を酷使させ、ヴァイスはその攻撃をなんとか避けた。とはいえ完全には避けきれておらず、ヴァイスの陶器のような頬に擦り傷ができる。


「それのどこにそんな、っ! 切れ味があるんっ、だよ……っ!」


 絶え間のない連撃を回避と氷剣を駆使して捌き切る。そんな攻防戦の最中、ヴァイスはとあることに気づいた。異形が薙ぎ払いを行った後、動きがほんの少しだけ停止するのだ。

 敵の隙を認識した瞬間、ヴァイスは直感的に「停止と同時に距離を詰めて一撃を見舞う」という、シンプルで尚且つリスキーな作戦を組み立てた。

 上手くいったとして、並大抵のダメージなどものともしないであろうことは明白で。その上少しでもタイミングを見誤れば、こちらが反撃を受けてしまう可能性だって大いにある。ハイリスクローリターン。

 それでも、行動を起こさない理由にはならない。主目的は時間稼ぎだが、ダメージを与えるに越したことはない。

 ヴァイスの命は軽いけど、だからこそ、容易に賭けられる。


 上へ、下へ、ゆらゆらと。触手が規則的に動き出す。なんと今回は大盤振る舞い、目にするだけでも背筋が凍る数の触手がヴァイスに襲い掛かろうと、予備動作を行っている。総数は八本。数値だけ見れば少ないが、射程や太さ、勢いなどを加味すればたった八本でも脅威である。やはり、どう足掻いても大きなリスクを背負うことになりそうだ。

 そんな後先のことは一旦頭の隅へと追いやって。ヴァイスはクラウチングの姿勢を取った。

 頭が良くなくても、細かな魔力感知が苦手でも、昔から素早さだけには自信があった。今がその〝自信〟を、最大まで引き出す時だ。


「——ふっ!」


 触手がヴァイス目掛けて飛んでくる。ヴァイスが駆け出したのはそれと同時だった。

 空を切る音が、ヴァイスのそばを掠めていく。一本、また一本と段階的に迫ってくる触手を、ヴァイスは全力を持って避けていく。上に跳躍、着地と同時に斜め前に向かって前転回避。異形本体へと近づくための強気な回避を行うたび、ヴァイスの心拍数は上昇していく。


 前からはヴァイスを狙う残りの触手が迫り来る。後ろからはヴァイスに避けられたことで標的を失った触手が壁や床に衝突する轟音が響いてくる。前後の状況が与えてくる情報は、ヴァイスの緊張を煽り立てた。

 それがなんだ。もう踏み入ってしまった死地に気後れできるほど、ヴァイスは心に余裕を持っていない。それで良かった。中途半端なところで〝命懸け〟を投げ出すのなんて、それこそ自殺行為だからだ。


「つ、かまえっ……、たっ!」


 文字通り八方から襲いかかってきた触手、その全てを掻い潜り、ヴァイスは大型異形の本体にたどり着く。まるで焦がれたように息も絶え絶えな言葉を吐いて、そうして彼は異形の躯体に刃を突き立てた。


「凍れっ!!」


 喉が裂けてしまいそうなほどに声を張り上げる。全身を使って刃に魔法を伝えるみたく、彼はその小さな手で力の限りグリップを握りしめた。



 パキンッ。



 剣身を伝って異形の体へ。魔法の発動は成功した。氷は剣を中心にして、花を形作るように急速に異形の体を凍らせ始めた。



 そして、その終わりも急速だった。



「え……」


 氷の侵攻は前触れもなしに終わりを告げる。中途半端なところで形成が止まった氷。無機質さも相まって、まるで時が止まったような感覚に襲われた。

 けれどそんなのは一瞬の感覚で。

 決死の攻撃が失敗に終わった。

 その事実が与える焦燥は、ヴァイスの心を揺らし思考をかき乱す。


 生まれた隙はほんのわずか。けれどそのわずかな時間の油断が、ヴァイスの足元を掬った。


「ぐあっ……!!」


 再起した異形の八本の触手。それら全てが、まるでヴァイスを追い込むように襲いかかってきた。

 作戦の失敗に気取られていたヴァイスがそのことに気づいた時には既に遅く、自らの体に凶悪な殺意の塊が打ち込まれた。

 先ほどとは違い、ヴァイスの体が打ち付けられたのは床だった。壁か床かで差異はありつつも、存外冷えている思考が「デジャヴだ」の一言を巡らせた。


「がはっ、かは……っ、はぁ………う、っ……」


 だがしかし蓄積されたダメージは大きく、ヴァイスは倒れた姿勢のまま身動きを取ることができない。どれだけ自分の体に動けと命令しても、指の先すらぴくりともしなかった。

 かろうじて動かせた目が捉えるのは、ヴァイスにゆっくりと迫ってくる触手だった。蛇が弱った獲物を捕らえに掛かるような、そんな動き。嫌でも冷や汗が背筋を伝った。

 がしっ。そのうちの一本が、だらりと床に伸びていたヴァイスの腕を掴んだ。あまりにも容易く持ち上げられ、力の入らないヴァイスの体はぶらんと宙吊りになる。


「は、なせっ……!」


 振り絞った声はほとんど掠れていた。ごぼ、と口から血が溢れて、息苦しさから思わず何度か咳き込む。その動作で体に激痛が走った。

 ヴァイスの腕を掴んだ触手のその先。帽子から垂れる布で頭部を丸ごと覆われた異形は、その表情——あるかどうかは分からないが——などまるで読み取れない。それでも、捕らえたヴァイスから顔を背けたりしない様から、嫌な気味の悪さを感じた。


 先の一撃で魔力は枯渇状態。何かできたとして、今自らの腕を掴む触手の表面を凍らすだとか、到底効きはしないだろう氷の(つぶて)を何発か飛ばすだとか、それくらいのものだろう。魔法で作り上げた剣も異形の体に突き刺さったまま。恐らく数分後には溶けるか、ヴァイスの戦闘不能によって魔法自体が解けるかのどちらかだ。どっちにしろ、とけて消える。体はもちろん動かない。

 これが万事休すというやつか。

 自分の行先を案じながら、眉間に皺を寄せて目をギュッと細めた。どこぞの身内みたいだ、なんて思いながら。



「水刃烈流衝!!」



 不意に、そんな声が聞こえた。ハリのある凛とした、水属性魔法の詠唱。少ない時間差で発生した、青く澄んだ衝撃波が、目の前の異形を切り裂いた。


 拘束から解放されたヴァイスの体は支えを失い、そのまま垂直に落下する。床に激突すると反射的に目を瞑るが、予測していた衝撃は来ず、代わりに誰かに受け止められた。

 いや、誰かではない。その主を知っていた。ふわり、藍色の耳飾りがヴァイスの視界を掠める。視線の先に、その帰りを待ち望んでいた人の顔が映った。


「せい、りん……せ、んせ」


 相変わらず、ヴァイスの声は掠れていた。普段、その名を呼ぶ時の透明感とは、全く似ても似つかない声。教え子のそんな声を聞いて、彼は何を思ったのだろう。わずかに顔を伏せた青鈴の表情は、読み取れなかった。


「……ヴァイス、遅れてごめんな。先生、一緒にいてやれば良かったよ」


 どこか震えているようにも感じられる声が聞こえてくる。だんだん、だんだんと、その声がぼやけていく。遠くから「先走るな!」という怒号が飛んできた。近くにいる青鈴の声よりも、なぜか鮮明に聞き取れた。

 ぐんっ。前触れもなしに視界が揺れる。青鈴がヴァイスを抱えたまま回避行動を取ったのだが、ヴァイスはそのことに気が付かない。それでもヴァイスの意識外で、攻防戦は続いている。

 こんな状況なのに安心しきってしまったのだろうか、意識が遠くなっていく気がした。まるでバランスでも取るみたくギリギリのところで保っていれば、ヴァイス、と呼びかけられる。


「悪いが、ちょっと手荒に扱うぞ。文句は後でたっぷり受け付ける」


 構いませんよ、という返事は言葉にならなかった。ぐっと腕を掴まれて、強い浮遊感に襲われる。それも束の間、ヴァイスの体は投げ飛ばされた。衝撃に脳が揺さぶられる。途中、己の横を通り過ぎていく窓枠が視界に入った。


 窓、開いてたんだ。


 もう使い物にならなくなった頭は、最後の意地とでも言うように、そんなどうでも良いことを認識させた。

 煌めく銀糸に導かれ、ヴァイスの掠れた視界は、恩師の柔い笑顔を捉えていた。

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