24-1 命懸けの激闘
ヴァイスは特に何かするわけでもなく、変わらず椅子に座りっぱなしだった。きょろり、と周りを見渡してみると、他にも同じように待機している者はちらほらといる。困ったように立ちすくんでいたり、何事もなかったかのように作業やら何やらを進めていたり。不安が余韻を残す中、各々は多種多様に時間を削っている。
一人ではないこの空間は、けれどヴァイスにとっては孤独な場所だった。青鈴やカティア、NoDiWSメンバーなどの、いわゆる身内以外との交流は、己の体質のこともあって控えめにしている。そもそも人工亜人のコミュニティは、縦より横の繋がりが強い。それこそ教育係や直属の研究者でもない限り、誰かと仲を深める機会なんて、一際亜人関係に狭く深くのヴァイスには無縁というものだ。
だから、特段関係値の高い相手がいない状況となると、ヴァイスにとっての居心地はさほど良くない。待機を命じられた以上動くわけにもいかないし、かといって勝手に事務仕事を再開させるのも躊躇われた。ヴァイスはただの手伝いなので。
「……先生、大丈夫かなぁ」
そんなことを呟きながら、ヴァイスは机に身を預けた。書類たちを器用に避けて、べたっと体をくっつける。少しぬるい。でも、それはきっとヴァイス自身の体温が低いせいで、相対的にそう感じられるだけなのだろう。ヴァイスだけの感性に頼ると、普遍的な冷たさの基準さえ狂ってしまう。彼の普通は、他者に冷気を与えるのだ。
ほぼ一体になったかのような机をするりと撫でながら、ヴァイスはその体を起こした。手持ち無沙汰に紙をペラペラとめくっていく。途中でつっかえたりしながら、高速で通り過ぎていく文字たちを見つめるだけの時間を過ごした。
「……ん? なんだろ、これ」
ふと気になったとある文字列。とっくのとうに過ぎ去った紙を、一枚一枚辿って探し出す。見つけ出した紙に書かれていたのは、とある任務の報告書だった。
青鈴からの指示で同項目の書類をまとめるだけの作業をしていたから、ヴァイスはその内容まで深く知らない。目を通していいかすらも聞いていないから、確認するのでさえ躊躇われる気持ちはあった。けれど、仕事を任されたくらいだし、少し見るだけなら特に問題ないのでは、という考えも浮かんでしまうもので。
好奇心が勝ったヴァイスは、手に取った書類の内容に細かく目を通すことにした。叱られたら……その時は、その時だ。
「人間界探査報告書……」
声に出して、慣れない文字列を読み上げる。ヴァイスの頭にははてなが浮かんでいた。
人間界。この言葉は授業中に聞いたことを覚えている。魔物と違って、人間界はそれだけを扱う授業が個別であったからだ。ノートもきちんと取ったし、自分の部屋にある棚を端から端まで探せば該当するものは出てくるだろう。恐らく、ではあるが。
ノートに関してもこの有様だ。当然、人間界についての詳細もすぐに思い出せる訳ではない。覚えているのは、人間界は異界と魔力でできた障壁を隔てた向こう側に存在しているということ。人間界には魔法どころか魔力という概念もなく、そこに住む生き物も異界のそれと比べて身体的な特徴が薄い、ということ。これらだけ。
興味がない訳ではない。ただ、ヴァイスにとっては異界——とりわけ、自身が所属している「亜人ノ国」だけが世界の全てで、壁一枚を取り払った向こう側にまた一つの世界が存在していることに対する現実感がないのだ。
だってヴァイスはまだ十しか生きていない小さな子供で。自分の足で踏み出すことを、つい最近許されたばかりで。
自分の目で見たものしか信じない、という主義でもないが、自分自身が関わっていること以外は、どこかフィルターを通したように不鮮明な〝情報〟でしかない。手を伸ばしても当然の如く触れられず、触れることを許されているかも分からないそれはまさしく非現実的なものだ。
手の甲で空気を撫で付け、そのまま見えもしない空気を握るようなジェスチャーをする。感覚神経が伝えてくるのは、相変わらず冷たい温度を保った己の肌の感触だけだった。空気はその手に捕らえられたかもしれないし、器用に間を縫って逃げ出してしまったかもしれない。肉眼で測り用のない事象は、いつだって期待と想像によってその仮定が成り立っている。
「僕もいつか、行けたりするのかな」
どこへ、なんてわざわざ言う必要もない。ヴァイスの視線の先は、微かな凹凸を浮かべる紙面へと向かった。
ドォォンッ!!
すると突然、寮内で轟音が響き渡る。前触れも何もなかったその出来事に、ヴァイスは体を大きく震わせながら驚いた。建物がミシミシと悲鳴をあげ、誘き出されるようにして木片と埃が舞い落ちてくる。周囲にまばらな配置をとっていた他の亜人たちも、何だ何だとでも言う風に周囲を見渡していた。
轟音の正体を気に掛けつつも、ヴァイスは青鈴の安否を気遣った。先ほど感じた不穏な気配と、建物を揺らすほどの轟音。これらに関連性があるならば、気配の正体を探りにいった青鈴も何らかの非常事態に巻き込まれている可能性があるからだ。
考え込むうちに、一人の男性が立ち上がって部屋を出ていく。つられるようにして二人、三人と退室者は増えていった。避難か、あるいは状況確認か。各々の意思を持った上での行動であろうそれは、ヴァイスの眼中には入るものの、席を立たせるといった行動を起こすほどの出来事ではなかった。
それはもちろん、何が起きたかなんて気になるに決まっている。けれど青鈴に待機の指示を出された以上、下手に動くわけにいかないのだ。そもそも、どんな危険があるのかも分からないのだし。
うちに秘めるもどかしさを放つように、そわそわと落ち着かない様子でただ座っている。衣擦れと椅子の軋む音だけを生むその行為は、足音と声からなるざわめきと比べるとずっと静かで。外界から遮断されたような感覚は、自らが放つ雑音をかき消す音さえも、それに対する認知を歪めた。
気付けば室内の人影は随分と減っていた——と言うより、ヴァイス以外の全ての利用者がいなくなっていた。あれ、とようやく焦りの感情が生まれる。人がいないのをいいことに、ガタッと勢い良く音を鳴らしながら立ち上がった。きょろり、ともう一度だけ周囲を見渡して。ああ本当に一人取り残されたのだと、人気のない空間を見てそう実感した。
「……僕も出てった方がいいかな」
ぽそりとつぶやく。だがその言葉とは真逆に、ヴァイスは立ち上がった姿勢のまま動こうとはしない。迷っているのだ。周りに合わせてここを出ていくか、青鈴の指示を忠実に守るか。
まるでどこぞの身内みたく寄せられた眉は、ヴァイスの迷いを顕著に表している。既視感のあるような険しい表情を浮かべながら、彼はその場を右往左往した。とん、とん、たたっ。不規則に小さな足音が溢れていって。それに待てをするように、端末の通知音が鳴り響いた。
「わっ、ビックリした。……あ、先生から!」
通知欄に表示された「青鈴」のに文字が、まるで神からの啓示のように崇高なものに見える。
ヴァイスは早急に、半透明の図形に囲まれた彼の名前をタップしてメッセージを確認しようとした。だが、その途中でヴァイスの指はピタリと止まる。まるでプログラムに不具合でも生じたように。氷点下の中、骨の髄まで凍りついてしまったように。
そこに〝いる〟。遥か強大な力の気配と悪寒を撒き散らす、そんな恐ろしい存在が。




