独りよがりの狂信者
春の推理キャンペーンに参加しようと思ったら、魅力的なトリックを思いつかず、犯罪者である主人公の行動と試行を追っていくサイコサスペンスになりました。
全てを自分の都合の良いように解釈する主人公の薄気味悪さを楽しんでいただけたら嬉しいです。
就職を機に上京することになった僕が住むことになったのは築20年のやや古びたアパートだ。大家さん兼管理人さんと母が高校時代の同級生だったという縁で部屋を借りることができた。内装は整っているとは言い難いが、別にトイレや洗濯機が外にあるなどという事は無く、適当な管理会社に任せずに大家さんが直に管理しているという事で、怪しげな入居者がトラブルを起こすという事もない。
この春、そんなアパートの隣の部屋に新しい入居者がやってきた。僕と同じように大家さんと縁のある方の娘さんで、大学進学のために東京に出てきたそうだ。今時律儀に引っ越しの挨拶に訪れた彼女はまだ高校を卒業したばかりで、派手な化粧や髪形をしているわけでもなく、まだあどけないと言った顔立ちの生真面目そうな女の子だった。肩で切り揃えられた清潔な黒髪、丁寧な言葉遣い、よく背筋の伸びた姿勢、好感は抱いたがその時は深い印象は残らなかった。
それが一変したのはアパートの敷地を紫陽花が青紫色に染め始めた頃。僕は季節外れの風邪にノックダウンし、電話口でちょっとの風邪くらいで休むなと怒鳴る上司から何とか休暇をもぎ取り、布団の中で唸っていたのだが、インターホンの呼び出しにフラフラと玄関を開けると、清楚な黒髪を今は背中辺りまで伸ばした彼女がちょっと強張った面持ちで立っていた。
「あれ?君はお隣の…」
「こんばんは。実は煮物に挑戦してみたのですが、ちょっと作り過ぎちゃったのでお裾分けに…あれ?顔色が悪いような…」
「実は夏風邪みたいでね。さっきまで寝ていたところなんだ」
「大変!誰か看病してくれる方は居ないんですか?」
「いやぁ、上京して就職してからは友達付き合いも無くて…取り敢えず買い置きのカップ麺で凌げるかな、と」
「駄目ですよ風邪なのにそんなもの!待っててください、お粥作ってきますから」
「え?良いよそんな。寝てれば治るから」
「いいから寝ながら待っててください、困ったときはお互い様です。直ぐ出来ますから!」
大人しそうな彼女の強い口調に押されて、当初持ってきた煮物だけでなく、お粥までいただくことになった。おまけにお粥を僕の部屋に持ってきた彼女は、部屋の散らかり具合を嘆いてゴミ拾いまで済ませてくれた。まだ出しっぱなしにしていた炬燵の中の、年頃の女性にはとても見せられない雑誌に気付かれなかったのは僥倖というほかない。
この事件の後、僕の彼女への印象は全く変わった。彼女こそ僕がこの東京砂漠で見出した愛の女神に他ならない。何としても彼女を深く知り、その寵愛を僕の物にしなければ。
まず調査の時間を作るために、仕事を辞めて夜勤のバイトで食いつなぐ事にした。わざわざ上京して就職しておきながら退職することに家族は難色を示したが、病人を無理やり働かせるような会社にはいられない、と押し切った。まさか使うつもりはなったのだが、上司とのやり取りのメモをちらつかせると会社も退職金の名目でかなりの額を振り込んでくれ、しばらくバイト暮らしでも余裕のある暮らしが出来そうだった。
最初に彼女にお礼を兼ねてこちらからも手料理を持って部屋にお邪魔する事にした。お誂え向きに見舞いのつもりで母が、地元の漁師が網にかかった時にしか口にしない市場には出回らない魚を送ってくれたので、浜焼き風にして部屋にあげてくれた彼女に夕食を振る舞った。
彼女の部屋は全体にパステルグリーンでまとめられた落ち着いた、とても僕の部屋と基本は一緒とは思えない、かぐわしい香りの漂う聖域だった。部屋の電灯のスイッチ紐に彼女の地元のご当地キャラだという小さなぬいぐるみが吊るされていて、彼女の素朴な人柄がうかがえた。その他に目につくのは本棚を埋め尽くす幾つもの分厚いハードカバー。題名が読めなかったので恥を忍んでどんな本かを尋ねると、趣味の仏文学の原書なんだそうだ。では仏文科なのかと尋ねると、知識が偏っていはいけないので哲学科で比較人類学を専攻しようと思っている、と返事が返ってきた。女神は進路一つとっても深遠な目的を持っている、と地元の大学が適当なレベルだったからという理由で進学を決めた自分との違いを感じる。
料理は食べたことの無い味で面白い、味噌仕立てにしてもいいかもしれない、との評価。これからも地元ネタで彼女との話題を作ることができるかもしれない。何にもない、早く逃げ出したいと思っていたあの町の情報でも集めてみようか。
次に退職金で一眼レフカメラと超小型高性能ビデオカメラを購入する。彼女の艶姿を思い立った時に保存できるよう、これは大事な道具だ。ネットで人物写真の基礎から被写体が視線に緊張することなく、自然な姿を撮るための様々なテクニックをかき集め、まずは皇居東御苑で子供たちを相手に練習する。最初はカメラを構える僕の姿を気に留める子供や親もいたが、一か月ほどの練習の甲斐あって男の視線に敏感だろう若い女性のスナップ写真も可能になった。
カメラの扱いに自信が付いたので、彼女の通う大学へ気付かれないように後から付いて行くことにした。これは彼女の普段の様子を知るというためだけでなく、少し雑談をするようになった彼女から前期のテストが終わってサークルの飲み会にとにかく来るだけでいいからと頻繫に誘われるという彼女を、陰から不埒な者が現れないか確認するためでもある。
彼女が授業を受けている講堂の一番後ろで、夜勤疲れで少しうとうとしながら全く内容のわからない講義の終わりを待ち、友達と思しき女生徒と共に中庭へと出ていく後ろを邪魔をしないように付いて行く。どうやら一緒に弁当を食べるようだ。おかずを交換し合いながら和気藹々和気藹々と会話する彼女を中心に一枚写真を撮る。「女神の休息」と名付けたいほど見事な構図だったと思う。木陰でカロリーバーを齧りながら弾けるような笑顔を浮かべている彼女を見つめていると、僕の横を通り過ぎて行った見知らぬ男が彼女を含む集団に声をかけている。何者だろうか、ナンパの類か?警戒しながら成り行きを見守っていると、話しかけた男の後に彼女たちが続き、こちらへと向かってくる。気が付かれたのだろうか?だがここで慌てて立ち去るのはかえって不審な行動だ。嫌な動悸を感じながらじっとしていると、僕に気付いた彼女が驚いて声をあげる。
「何、知ってる人?」
「うん、お隣さん…あの、どうしたんですか、こんな所で?」
友人たちに応えつつも不審そうな彼女に、咄嗟に考えた言い訳を告げる。
「ああ、実は最近カメラを始めたんだけど…それで散歩しながらあちこち撮っていたら近くを通りかかって、そういえば君の通う学校がここだったな、と思ってキャンパスに入ったんだ。まさか本当に会うとは思わなかったし、友達と一緒だったから声をかけるのもどうかと思って君を見ていたんだけど…その男性に不審に思わせちゃったみたいだね」
「ああ、そういう事ですか…」
上手く誤魔化せたのだろうか、取り敢えずそれ以上の追及は無い。この場はこれで収まったことにして立ち去った方が良いだろう。
「それじゃ、食事の邪魔をしちゃったみたいだね。僕はこれで失礼するから。お友達の皆さんも迷惑をかけてすいません」
そそくさとその場を後にすると、男も彼女も追ってはこなかった。その日の夕方もう一度反応を確かめようと、手早く作った夕食の差し入れを口実に隣のインターホンを鳴らすと、彼女はすでに昼間の事を気にしてなかったようで、改めて謝るとかえって恐縮されてしまった。
今回の事は教訓になった。公園で子供たちを被写体にしていた時は、自分が一番エリアの端に居るのだが、広い大学の構内では自分の後ろにも誰かがいる可能性に気を付けなければいけない。夏休みに入れば彼女も街中で遊ぶことが増えるだろう。今度のように会えるかもしれないと思って近くに来た、などという言い訳が通用しない場面の事も考えておく必要がある。
それにしても久しぶりに彼女の部屋に入ることができたが、相変わらず空気そのものが神聖な場所だ。なにげなく置かれている小物一つがまるで彼女の祭壇に捧げられたフェティッシュのよう。彼女への深い信仰をあらわにしないよう注意しながら部屋を見回すと、南向きの窓からよく日の入りそうな場所に、姿見が増えているのに気付く。
「大きな鏡だね」
「ええ、あまり服に気を遣ってなかったんですが、大学生になったんだからお洒落しなきゃって友達に言われて、全身のコーディネイトに必要かなって」
「変に派手にするよりも品のある格好の方が似合うと思うけどなぁ」
「私もあんまり派手なのは苦手なんですが、あんまり地味だと一緒に歩く友達が恥をかいちゃいますから」
彼女には僕だけのヴィーナスでいて欲しいが、他の人間はそのつもりは無いらしい。全く困ったものだ。それに彼女は僕と一緒に歩くことはまだ考えてくれていないようだ。まだ偶然会った時に雑談をする程度の仲だから致し方ないが、他の誰よりも僕と共にある事を考えてくれるように、何とか誘導しなければ。
「ところでこのおかず、どう思うかな?」
「そうですね…赤くてちょっと辛そうですね」
「辛いのは苦手?お酒のあてにはこれくらいがちょうど良いと思っているんだけど」
「まだ未成年ですよ、私」
「それはそうだけど、前に飲み会に誘われるって話してなかった?」
「ウーロン茶だけです。無理に飲ませるような人とは食事一緒なんてしません」
彼女は生真面目だ。お酒の席では何が起こるかわからないし、きちんと予防線を張っているのは素晴らしいことだ。
「お酒、お好きなんですか?」
「どちらでもないかな。会社にいたときは付き合いがあったから飲んでたけども、今はそんなでも無い」
「え?仕事辞めたんですか?」
「話してなかったかな?馬が合わない上司にいつまでもネチネチ嫌味を言われるのが嫌で、今はバイトしながら求職中」
「ああ、それで今日はあんな時間にあんな所で会ったんですね」
「そうだね。働くのも大事だけど、仕事一筋の人間になるつもりは無いから」
これは本心。僕の全ては労働ではなく、目の前の女神に捧げるものだ。最終的には彼女に物質的な不自由を感じさせないために、それなりの給与の得られる職に就くつもりはある。だが僕の愛に気付かぬ彼女は、僕の行動に不安を感じたようだ。
「人間関係で上手くいかないからって退職したりして大丈夫なんですか?」
「元々そんなに条件の良い職場ではなかったんだ。いつまでもフラフラしているつもりは無いよ。ただ家族にも若いうちに仕事だけに囚われるなと言われてるし、前の所は実はパワハラで辞めたんだけど、訴えない替わりにと退職金の名目でだいぶ貰って当座は余裕があるからね。今は少し趣味に打ち込んでみるつもり」
今度は嘘と真実を混ぜ合わせて彼女を安心させようとする。家族は一日も早い再就職を望んでいるが、パワハラを理由に辞めたのと今資金に余裕があるのは事実。打ち込むのは趣味ではなく人生そのもの。
しかし僕が先の事も考えていると示唆したことで彼女は安心したように頷いてくれた。彼女に僕の事で悩ませるわけにはいかないので、これは当然の配慮というもの。だがこの程度の言い訳に納得してしまう彼女の純真さはこの街では危険だ。やはり僕が良く見守っていなければ。
その後、あの時現れた男はたまたま通りかかっただけの赤の他人であることを確認してから、流行りのドラマなどの雑談へと話を移し、今日の出来事を彼女が振り返らないよう取り計らった。
それから一週間ほどは、夜勤のバイトが終わってから一時間眠り、彼女がキャンパスへと無事に辿り着くのを見届けてから、近くの漫画喫茶で昼まで仮眠を取り、一般教養科目の教室がある校舎の入り口が見える木陰に陣取って、彼女の午後の行動を確認する、というルーティンが続いた。正直睡眠は不足気味だったが、彼女自身の言ったように飲み会に誘われて黄昏どきに歓楽街に入る日も有ったから、堕天の誘惑を彼女が撥ね退けるのを見守る義務を怠ることはできない。幸い僕の不安を嘲笑うかのように女神は悪神のささやきなどに耳を傾けることなく、集まりを一時間ほどで退席して真っ直ぐ僕らの魂の寄り添うアパートへと帰宅していた。
実を言うと一日だけ彼女を見守る聖務を果たせない日があった。彼女が望むと望まざるとに関わらず‐彼女が望むわけは無いが‐悪魔をその身に宿した薄汚い男が聖地に踏み入る事があるかもしれない。それを素早く察知して女神を救うために、部屋に居ながらに彼女の部屋の状態を把握する必要がある。
準備は前々からしていた。一眼レフと一緒に買ったCCDビデオカメラ本体と、最近は設置されていることを素人でも発見できる方法がネット上に掲載されているので、それをかいくぐる方法の考案。正直に言って生兵法は大怪我の基になる恐れもあったが、それらの方法は部屋に実際に設置されていることが前提のようなのでそれを逆手に取る事にした。
彼女に虫が寄る原因にもなりうる艶やかな衣装をまとうための姿見。あれは窓越しの光を良く取り入れられる位置に設置してあるため、ベランダから鏡の反射を使って部屋の大部分を映し出せるのだ。僕にとって忌まわしい道具を逆に利用する、というこのプランは大いに気に入ったので、彼女から一日ずっと目を離すリスクと引き換えに、外壁の柵を伝って彼女の部屋のベランダから最適の位置を選び出してビデオカメラを設置した。
そして季節は巡り、たとえ動いていなくても汗がしたたり落ちるようになった。大学生は長い休暇に入った。真面目な彼女も二度寝で午前中は部屋でのんびり過ごすようになり、僕も安心して夜勤後の身体を休めることができた。
午後はその日ごとに違う事をしている。図書館で日がゆっくりと傾くまで仏文学を開いている日もあれば、友人と共にアミューズメントパークで過ごす日もあった。
七月も終わりに近づくある日は友達に誘われたらしく、彼女には不似合いな竹下通りの猥雑な雑踏を人波を不器用に躱しながら露店を冷やかす彼女を懸命に追いかけた。無遠慮に僕のすぐ横を通り過ぎていく人々もそうだが、コンセプトカフェのしつこい客引きにさすがの僕も彼女の光輝を見失いかけた時は腹が立ったものだ。懸命に振り切り、慌てて一度は見失った彼女が、食べ切れるかと思うほどの大きさの綿あめにかじりついている様子を同行者がスマホの写真に収めているところに出くわした時はほっとした。僕自身もなんとか肩にぶら下げている一眼レフを構えて彼女の無邪気な姿を形に残せたときは思わずこぶしを握り小さく快哉を叫んでしまった。陽が傾いても賑わいの薄れない街を後にした彼女が道に残していく影をこっそりと踏みながら踊るような足取りで付いて行く僕は、思わぬ邪魔は入ったもののおおむね満足のいく一日だったと総括した。
八月に入って数日すると、偶然すれ違う風を装いながら頻繁に声をかけるように努めていた僕に、彼女はその花が咲くような笑顔を見せてくれなくなった。はじめのうちは慣れない都会特有の暑さに辟易しているのかと思ったが、そうではない様子だ。キャンパスに用事ができた日などは待ち合わせた友人に元気に挨拶しているのが確認できる。むしろ、僕の視線を避けているかの様子だ。
由々しき事態だ。誰よりも彼女の微笑みを求めている僕がその表情を曇らせるとは。理由が定かでないのでは対処の仕様がないので、久しぶりに手料理を作って差し入れるのを口実に、彼女の部屋を訪ねることにした。以前辛めの味付けの物を渡した時は反応が良くなかったので、甘めの物が良いだろう。
タッパーに料理を詰めて隣のインターホンを鳴らすと、女神の聖域の門が開く…と思いきや、ドアチェーンがかかっていて彼女の顔は半分ほどしか見えない。
「こんばんは、これちょっと作り過ぎたんだけど…」
「あの!」
「…うん?」
「あの、実は男性とお付き合いを始めたんです。浮気と疑われるのは困るし、これからは部屋に来るのとかやめてください」
「え?」
カノジョガナニヲイッテイルノカワカラナイ。メヲアワセナイママ、カノジョハジブンノイイタイコトダケヲツゲテトビラヲシメテシマッタ。ボクノメノマエデカタクトザサレタトビラヲチカラナイヒトミデミツメナガラ、タダジカンガスギルノヲクラクナッテイクセカイニカンジタ。
それから一晩、ずっと彼女の部屋の前で立ちつくしていた。季節が夏でなかったら風邪をひいていた事だろう。翌朝早く、彼女が部屋から出てきた。ゴミ出しのようだ。化粧気もなく、服装も辛うじて人に見られても問題ない、と言った簡素なものだがそれでも彼女は美しい。だが僕を見る瞳は冷え切っていた。
「いつまでもそんな所に立っていられたら困ります。警察を呼びますよ」
「ご、ごめんなさい…」
なんとか蚊の鳴くような声でそれだけ答えて、自室へと戻った。部屋に戻ると敷きっぱなしの布団に潜り込んで眠ってしまおうとしたが、瞼の裏に彼女の刺すような視線が映ってただ悶々として髪をかきむしり、滂沱と零れる涙を止めることができなかった。
「お付き合い…そんなバカな…彼女が、僕以外の男と…」
否定の言葉を口にしても、彼女の言葉が耳から離れない。先ほどの冷たい視線が心臓を抉り抜く。この世界からお前は要らないのだ、と宣告されたような心細い気持ち。彼女の、女神の微笑みさえあればたとえ世界とだって戦えるはずなのに、これほど愛しているのに他の男が選ばれたなどと…
「許せない…」
口から呪詛が零れる。
「許してはいけない。これは裏切りだ。そんな事は有ってはならない!」
呪いの言葉を繰り返し、自分のなすべきことを思い描いていく。
「まずはその男だ…女神を堕落させた張本人!見つけ出して、罪を贖わせてやる!」
当面の目標は定まったが、それが誰なのかを確かめるには今のままでは心許ない。今の状態で彼女を尾行してもし見つかったら不興を買うだろうし、部屋に現れた時に男を尾行するのは彼女が部屋に招くかどうかがわからない。
今までは有るかどうかもわからない危険のために、念のために部屋の外から異常が無いかをチェックするだけにしていたが、今は危機が現実のものとなったのだ。一歩踏み込んで、彼女が部屋でどんな会話をしているかを知る方法を手に入れなければ。
小型集音マイク。以前カメラを購入したサイトとは別の店にしておく。それとこのアパートは全室単純なクレセント錠を使っている筈なので、ガラスカッターで窓に穴を開けてしまえば簡単に部屋に入れるはずだ。これは普通にホームセンターで売っている。問題は侵入者が僕とすぐにばれる可能性だ。彼女をだました男を誅戮し、彼女にも僕に対する裏切りに相応しい罰を下すまでは怪しまれることは避けたい。
どうすれば良いのか少し迷ったが、少し遠回りをすることにした。この近辺で空き巣事件が多発すれば、侵入者があったとしてもまずはその空き巣犯に疑いの目が向くはずだ。2,3件も同じような手口の盗難騒ぎを起こせばよいだろう。
まず、近所で空き巣に入れそうな家…日中留守になる、防犯設備の整っていない、できれば本番と同じようなアパートという条件で散歩のふりをして探す。本番では暑いがジャケットを羽織って臨む予定なので、逆に下見ではビジネススーツを着用しておく。運のよいことに、近所が工事をやっていて多少物音を立てても気付かれそうの無い物件がいくつかある。それらの中から、平日はデイサービスに行く独り暮らしの老人を探す。もしも鉢合わせてしまったらと考えると荒事にならない相手を狙うべきだろう。せっかくスーツなのだから、目星をつけた家に昼間訪問販売のふりをしてインターホンを鳴らし、家主以外は住んでいないことを確認する。一度連れ合いが家にいて、商品の詳細を考えていなかったので怪しまれてしまったが、どのみちこの家はハズレなので問題ない。
いざ実行の段階だ。スーツケースにガラスカッターと変装の道具を入れ、当たりを付けたアパートにさりげなく入り、物陰でスーツからジャケットとジーンズに着替え、カツラ、マスク、サングラスで人相を隠す。一回り窮屈なスニーカーとゴム手袋を付けたら侵入開始。ガラスカッターであけた穴から鍵を操作するときはさすがに手が震えたが、今更後戻りはできない。部屋に入ったら印鑑や通帳の入れてありそうな小型の箪笥を漁って適当に部屋を荒らす。目的は金品ではなく、「空き巣が入った」と思われることなので適当なところで切り上げて窓から出る。ほんの十分ほどの出来事だったが、呼吸が荒くなっているのがわかる。だが息をついている暇はない。もう一度ここに来るまでのフォーマルな服装に着替えて、駆けだしたくなる心を叱咤して堂々と立ち去る。手抜かりは無かった筈。これを二、三回繰り返したら、彼女の部屋を攻略しよう。
それから一週間ほどかけて三軒の家に忍び込んだ。テレビのニュースにも取り上げられ、連日パトカーが行き来している。一度僕の部屋にも警官がやってきたが怪しまれている様子はなく、「被害に遭ったのと同じような住宅」に注意して回っているのだとか。作戦は上手くいっている。いま彼女の家に忍び込んでも同一犯による盗難事件だとしか思われないだろう。
機は熟したとみて、僕は本番中の本番、彼女の家に小型マイクをセットするミッションに取り掛かる。と言っても手順は今までとさして変わらない。カメラの映像で彼女が部屋を出るのを見送り、三十分ほど戻ってこないかどうか確認したのち、ベランダに人が注意していない隙を狙って柵伝いに彼女の部屋のベランダに移る。クレセント錠を開けるのにも慣れてきた。少し立て付けの悪いガラス窓をスライドさせれば、裏切られた今でもかぐわしいと感じる堕天使の住処だ。
衣装箪笥に目が行くが、せっかく今まで寄り道をしてまで作ってきた空き巣の行動パターンから逸れるわけにはいかない。金目の物が有りそうな場所を適当にあさると、部屋の隅のコンセントに差し込まれた電源タップの裏に用意しておいたマイクを付け、データ送信機能をオンにする。これで彼女が憎らしい男の情報を漏らせば、そこから辿っていくことができる筈だ。
夕方になって帰宅した彼女が荒らされた自室に驚き、パトカーがアパートの前に並ぶまでそう時間はかからなかった。アパートの他の住人に交じって野次馬を演じている僕と事情聴取を受けている彼女は一度だけ視線が合ったが、最後に顔を合わせた時と同じ蔑んだような冷たい視線ではあったが、何かしらの疑念を抱いているようには見えなかった。だがその視線が僕の心を焼き焦がした。裏切りの魔女に蔑まれる覚えはない。彼女こそ僕の侮蔑に耐えるべきなのに。苛立ちながら自室に戻ったが、まだ警官がうろうろしているのに機材を操作するのは気が早いだろう。もし踏み込まれた時のために、念のためにカメラのモニターなども押し入れに隠し、敷きっぱなしの布団に潜り込んだ。
警官が捜査にやってくる間は機材を押し入れから出すのには勇気がいる。まさか犯罪捜査にやってきた警官に恋愛相談などする筈もないので、夜勤のバイトをしながら再就職先を探すいち市民を装って今だけは完全に他人となる。一度だけ事件のあった日に物音を聞かなかったか、と尋ねられたが、夜勤のために熟睡していたので何も気づかなかった、と答えると納得したようだった。
彼女が最後の被害者になれば何か感づかれるかもしれないと思ったので、その後一度空き巣に入ると、警官もそちらから証拠を探す方に人手が移ったようなので、今度こそ彼女の会話の分析を始める。
だが、なかなか目的の情報は手に入らない。既に家宅侵入された衝撃は薄れてきたようで、友人と日常会話を楽しんでいる事はあるが、僕が知りたい彼女が付き合っている男の話題は全く出て来ない。当の男とやり取りしている様子もない。ひょっとして何か理由があってメッセージアプリのみで連絡を取っているのか。この状況が続くようならば、危険を承知で直接彼女を尾行すべきだろうか。そんな事を考えた日だった、その日が来たのは。
「……」
「うん、それじゃ明日二時に門の前で。うん、うん。もちろんだよ。そっちこそレポート忘れないでね」
今日も通話の相手は同性の友人のようだ。特に気安い間柄のようで、彼女にしてはフランクな口調で会話を続けている。
「うん、そうだね。休みが終わるまでにもう一度遠出したいかな。温泉とか…草津温泉が有名だよね」
「……」
「そう、それは残念。冬は…帰省するから…」
「……」
「え、何?」
「……」
「ああ、あの人のこと…」
あの人?とうとう目的の人物の話題か?
「うん、最近は全然。偶然のふりして待ち構えてることも無くなったし」
…?すでに関係は解消されている、という話だろうか。
「……」
「うん、大当たりだったね。もう付き合ってます作戦」
「……」
「彼氏持ちには興味ないって事だと思うよ。泥棒の時も、それを理由に近付いてくることもなかったし」
どういう事だ?誰の話題だ?作戦?
「……」
「わかってます、感謝してます。原宿の時に気付いて作戦立ててくれたんだから。大家さんと縁がある人だから、警察沙汰にはしたくなかったし」
「……」
「言葉だけじゃなくて、ちゃんと形にします。それはまた今度会って話そ。うん、うん。また明日ね」
それで電話は終わったようで、スマホを机に置くと電話前から手元にあった雑誌を読みながら何かをメモしている。そうじゃない。今は彼女の行動より、先ほどの通話の内容を検討しなくては。
原宿。見失いかけた。あの日。見られてた。態度が変わった。大家さん。警察。作戦…
「ああ、あああ~っ!」
全てが繋がったと思い、思わず声が溢れ出る。そうなのだ、そうだったのだ!
そこには裏切った女も、裏切られた男も最初からいなかった。
裏切り続けた男を包み込んだ優しい噓が一つだけ。
疑念が氷解した解放感と、自分の浅ましさへの怒りからモニターとスピーカーを叩き壊し、憎み続けるためと言い訳して飾り付けたままにしていた隠し撮りの写真を破り散らす。ボロボロになった自室で虚脱してさめざめと泣いていると、隣の部屋のドアの音が聞こえた。もう、彼女がどこに出かけたのかはわからない。ただ今ならもう一度だけ彼女の部屋に侵入できる。
そう思った僕はガラスカッターとAV機器のコードを抱えて再びベランダを渡り、盗難事件の後だけに強化されたガラスにカッターを叩き付けて割って入り、コンセントの裏に隠してあった盗聴器を抜き、ベランダに出るとコッソリ設置した盗撮用カメラを外し、ベランダの上部に設置された物干竿用の吊り具にコードを何重にも巻き付け、ジャンプしないと届かない高さに丈夫な輪を作る。
作った輪に手をかけ、自分の心に迷いが無いことを確認すると、腕と足に全力を注いで、首をループの中に通す。それで精一杯、力はすぐに抜けて、支えを失った首にコードが食い込み、数秒で意識が遠くなる。
願う事はただ一つ、少女が僕の醜い素顔を直してくれますように…
少し長めの本作を最後まで読んでくださってありがとうございました。
ご意見ご感想、誤字報告などありましたらご連絡ください。