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古い町、遠い街

作者: Stairs


 残った氷をコップの底に沿ってくるりと回し、再びコースターの上に戻す。閑古鳥が鳴く喫茶店、その片隅に座っているわたしはメニューのひとつを何気なく読み上げた。

 変哲も無い、ありふれた名詞。されど唯一ラベルの付いた名前。知っているその名前を口に出して安心する。ざらついたこげ茶の木の机に落ちた水滴を指でのばすと、その軌跡はゆっくりと蒸発して消えた。


 既に離れた古巣であれど、町は私が居なくなったことに気付く筈も無く、似合いもしないイルミネーションに彩られていた。景色はそう大きく変わった訳ではないが、私が居なくなったこの町もゆっくりと変化しているのだろう。昔はこんな洒落た光など町は纏っていなかったし、この喫茶店も客がそれなりに居たと思う。今ではこの様だが、それでも閉店すると書かれた貼り紙は見ていない。もう暫くの間は、ここも続いていくのだろう。


 わたしはどこか遠い所へ、知らぬ所へ行こうと発った。しかし、かつて過ごした町へこうして戻ってきてしまったのだ。そして、古い町にすら侵食するイルミネーションは、そんなわたしの寂寥感を不快に傷付けている。町を変えれば別世界、そんなことある筈も無く、やはり何処かに共通点を見出してしまっては、落胆してしまう。わたしには、あのLEDの付いたケーブルが有刺鉄線に見える。


 この町に、戻りたいと思える理由となるようなものは無い。強いて言えば、頭上を電車が通らないことは好ましいが、それは特筆する程のことでもない。これといった理由は挙げられないものの、どうにもわたしはこの町に戻りたくなるようだった。期待したものから変わっていったとしても、比較的遠くの、現実的な異世界をわたしは探しているのかもしれない。


 時計を見てから、外に視線を移した。まだ暗くはない。それでも、それなりの時間は過ごした気分だった。この辺りで帰ろうと立ち上がったとき、随分気軽な異世界に来てしまったものだと少し可笑しく思う。まるでポケット異世界旅行だ、とわたしは笑った。

 最後に、会計時の金額を見て、「懐かしいこの価格」と思いたかったのだが、そもそもこの額が前と同じだったのか、わたしは何も覚えていなかった。


 外に出ると、白い息を描き消してしまう程度の少し強い風が吹き込んだ。目の前の歩行者用信号が点滅しているのを見たわたしは、棒立ちになったまま風が通り過ぎるのを待ち、白い息が出ることを確かめる。向かい側のガードレールに置き去りにされた片側だけの手袋が、何気なく目に留まった。指を広げたまま捨て置かれたそれは、わたしに進めと言って手招きしているように見えた。何でも嫌なことに捉えてしまうのはわたしの良くない癖だ。わたしは、この手袋がもっと何か明るいメッセージを伝えようとしているのだと思うことにした。


 そうだ、この手袋は私に手を振っていることにする。古巣を再び後にしようとするわたしを見送るために手を振っているのだ。これは良い。そう満足してから赤信号を見たとき、この手袋が見送るのではなくここに引き留めようとしているとしたらどうだろう、と思った。

 暫くそうして、笑いが込み上げる。くだらない妄想だった。それにしても、手袋がわたしを引き留めようとしているだなんて、あまりに馬鹿馬鹿しくて仕方ない。だが、そんなことを考えてしまう程には、わたしはこの町が好きだったのかもしれなかった。

 そうして、ふと、信号機に取り付けられた補助標識が目に入る。

 

 ────。


 はて。確かに見覚えのある地名ではあるが、馴染みのある名前では無かった。無論、喫茶店もこの道もよく知っている。間違いなくわたしはその町に住んでいた頃、ここを通っていたと確信を持って言える。だが、そこに書かれていた地名は隣町だった。どれだけの時間呆けていたのか、再び青信号が点滅したことで我に返ったわたしは、思わず吹き出してしまった。

 滑稽な話だ。感傷に浸り、憂うように氷を揺らして、挙句には捨てられた手袋にまで感情移入をしようというのに、ここは僅かに隣町だったのだ。わたしは、かつて住んでいた所が町の境界に近かったことを思い出す。恐らく、ほんの少し歩くだけで、本来わたしの知っている町に入ることができるだろう。或いは、既にこの、今立っている場所が境界線なのかもしれない。それを教えてくれる物はここには無いし、今更正確な境界線を知りたいとも思わなかった。


 きっと、曖昧でよかった。帰る理由だって、何となくで良いのだろう。新しい土地に馴染めなかったとしても、もしかしたらそこは私の知っている町なのかもしれない。これから、なんとなく知っている町の少し知らない所を知っていくだけなのだ。

 例えイルミネーションの光が全て消えて、その境を見失ったとしても、わたしは暗い空に目を凝らすだろう。撫でるような風が流れるこの藍色の空に、わたしの煙が溶けてしまうまで。


 いつか私も、知らない地続きの街の人になる。

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