02 恐怖を前にして何をする?
交互に姿を見せる月と太陽。食糧と水が減っていく。
今いる場所は、隣国である帝国に続く大地……だと思う。
とっくの前から足は棒になっているが、なかなか人里は見当たらない。
熱い太陽に照らされ、汗が流れる。残りの水はあと少しだ。
このまま何処にもたどり着かないんじゃ──そんな弱音が顔を見せた。
その時だった。
「────ッッ!?」
突然、人が目の前に吹っ飛んできたのは。
飛ばされてきた人影が岩山に激突し、砂塵が舞う。
揺れを感じるほどのその衝撃に、俺は思わず腰を抜かしてしまった。
口をポカンと開け、固まっていると──
『ヴァァアアアアアアアアアアッ!!』
後を追うように大気を震わせ地面を砕き、姿を現した──魔物。
夜闇を思わせる黒毛に包まれた巨躯に、成人男性の腕ほどはあるであろう一対の大きな牙。目が、血走っている。
開いた口からドロッとした唾液を落とし、鼻の穴から緑がかった煙を荒く吹き出すその姿に。
──怖い。
俺は圧倒的強者を前にして、慄然とした。
「チッ、なんでこんなところに平民が……!? おいアンタ、早く逃げろッ! さあ走──」
砂埃の中から姿を現した人物が、俺に向かってそう叫ぶ。
燃えるような深紅の髪を肩まで伸ばした、背の高い女性だった。
しかし、言葉の途中で彼女に向かって突進する獣。
女性は剣でそれをいなすが、衝撃が凄まじかったようで痛苦の表情を浮かべ、後方に飛ばされまた別の岩にぶつかった。
傷だらけの装備が外れ落ちる。
「に、逃げ、ないと……!」
俺は少しでも後退しようとする。
だが、恐怖で脚に力が入らない。
全身の筋肉を使い、立ち上がることができない俺がようやく出来たのは、ただ無様に地を這い後ろに下がることだけ。
それでも時間は進み、魔物は再び狙いを定め、女性に向かって最後の突進をしようとしている。
「た、隊長ッ!? 弓兵、射て──ッ!」
しかし、そこでザッザッと音を立て走ってきた十名ほどの兵士たち。
その中の一人が固い声を上げると、瞬時につがえられた矢が一斉に放たれた。
一直線に飛んでくる矢の数々を避けるため、方向転換する猪。
何筋かが当たったかに見えたが、黒黒とした体毛が身を硬く守っているらしく、決して刺さることは叶わない。
俺は額に汗を浮かべ、乾燥した土の必死にこの場から離れようとする。
体に力を入れかなり動いたはずなのに、実際に移動できた距離は息を上げてようやく二、三歩分といったところだった。
「──くたばってたまるかよォッ!!」
隊長と呼ばれた最初の女性が剣を振りながら叫び、後から駆け付けた人たちもそれに加勢する。
魔物は剣や槍を使って戦う兵士たちに強烈な体当たりを繰り返した。
数人は倒れたきり、再度立ち上がることがない。
──逃げろ! 早く……早くっ!
戦う力を持っていないのだから、俺は今この瞬間、全速力で逃げるべきなんだ。
背中を見せてでも少しでも遠くへ。
だというのに……怖くて、上手く逃げることすらできない。
畜生ッ、どれだけ臆病なんだ!?
兵士たちが一人、また一人と戦闘不能に陥っていく。
地獄のような景色を前に動転していると、ちょうど──剣を構えた兵士が魔物の体当たりを喰らった。
彼の体が宙を舞う。
落下地点にいたのは──
────俺。
「うぐぅッッ?!」
金属製の装備を身に付けた兵士とぶち当たる。
骨が軋んだ。兵士の腕が顔に当たって意識がぽあっと遠くなり、「うぅ……」と呻き声を漏らして蹲る。
「ハァ……ハァ……ッ」
呼吸が乱れ苦しい。
鼻血を垂らしながら確認すると、隣で倒れている兵士は完全に気を失っていた。
でも、幸い息はあるようだ。
俺は顔面に残る痛みによって恐怖から意識が逸れ、ようやくふらつきながらも立ち上がることに成功した。
膝の震えはいまだに収まらない。
自分の脚だというのに満足に動かせず、やっとの思いで右足を前に運ぶ。
と、そこで。
不意に隣で倒れている兵士に目が行く。
このままこの人を放置すれば、あとで魔物に殺されるだろう。
他の兵士たちも皆、全く知らない赤の他人だ。
俺はまだ死にたくない。一秒でも早く次の一歩を踏み出して、この場から逃げ出して──
いや、わかってる。
逃げることが正解で、それ以外は間違いだと。
「けど、この人を近くの岩の裏に隠すくらいなら……!」
もしかするとクリスタに何もできなかった後悔があるから、死ぬ前に最後、誰かのために何かをしたいのかもしれない。
俺は半ば自暴自棄になって、男の脇に腕を通そうとする。
そしてその前に顔をパッと向け、戦況を確かめ──
「ぁ」
魔物と、目が合った。
「──────」
『死』が迫ってきていることを感じ、目を見開く。
いつの間にか、残りの兵士は二人になっていた。
あの赤髪の女性と、大盾を持った男性が一人。
その彼らもすでに満身創痍で、長くは持ちそうにない。
獣もかなり傷を負っているが、このままでは皆──もちろん俺も殺されるだろう。
静かにこちらを向いた魔物。
進行方向に捕らえられ、終わりを覚悟する。
しかし。
兵士たちが尚も果敢に攻撃を続け、お陰で敵の標的は再び彼らに戻った。
「──ハァ、ハァ」
止まっていた呼吸が再開する。
一人を岩の影に隠し、逃げる。それどころではなくなってしまった。
魔物と俺のスピード差を考えると、今から逃げたとしても確実に手遅れだろう。
冷静に──いいや、さっき理性よりも感情を優先したんだ。昂りながらそう考える。
絶体絶命の状況だから仕方がない、普通だったらこんなことは決してしない。
俺はいくつものの言い訳を探す。
わかってる。これが明らかに狂った蛮勇だと。
でも。
「や……やるしか、ないッ!」
それでもこの場を切り抜けて、生きたいのなら立ち向かうしかない。
まだ死ねない。そうだろッ!?
だったら──命を奪え。
決断を下さざるを得ない状況なんだと己に理解させるため。
必死に用意した言い訳に背中を押され、俺は運ぼうとしていた兵士が持っていた『両手剣』を拾った。
家にあった護身用の物を振ったことはあるが、実戦はこれが初めて。
剣を力強く握り、走り出す。
ハイになっているからか、距離がとんでもなく遠く感じられる。
もしかするとまともに走れていないかもしれない。
だけど死の一歩手前まで来たからだろうか、根拠のない自信にあふれていた。
その時、ちょうど。
盾兵にぶつかった魔物が、
『ブアッッ──?!』
反動で前足を浮かした。
勢いを殺さず、咄嗟の判断で俺はその下にできた空間に滑り込む。
「うぉぉおおおおおおおおおおおッ!!!」
魔物の真下で剣を立て、柄頭を地面につける。
そして、剣先が……まっすぐと落下してくる魔物の腹に吸い込まれていく。
『!?!? ──グォワアアアアアアアアアアッッ!!』
皮の抵抗感。
魔物の自重によってそれを突き破った瞬間、一気に奥へと刺さる剣身。
落下してきた巨躯に押し潰される寸前、俺はギリギリのところで魔物の下を通過した。
すぐに立ち上がって振り向くと、まだ動こうとする敵は──しかし、そこでドスンッと倒れた。
しばらく観察しようと思ったが、生き延びたことに対する安堵なのか、自分でもよくわからない感情によって足の力が抜ける。
「多分……倒せたん、だよな?」
今になって自分がどれほど危ない橋を渡ったのか、恐ろしさに気づき血の気が引いていく。
地面に座り込みボーッとしていると──
《魔物を初討伐しました。【職業】発展の準備を開始します》
「え?」
脳内に、声が響いた。
レベルアップ……?
いや、【勇者】でもない【両手剣使い】の俺に──いくら強い魔物だったとしても──初めての戦いでそんなことが起きるはずはない。
「空耳、だよな……普通」
俺が混乱していると、唐突に背後からパチパチという音が聞こえてきた。
顔を向け音の正体を確認し──さらに深まる困惑。
そこには突飛で混沌な光景があった。
拍手をしながらこちらに向かってくる隊長と呼ばれていた女性。
それと……気を失ったり命を落としたと思っていた兵士たちが、「よいしょっ」といった風に立ち上がり、服に着いた土を払っていたりする。
「よくやった。素晴らしいセンスだ」
どこか満足そうに手を叩く女性は、俺の前でしゃがみ込む。
そして顔を覗き込むようにしてこう続けたのだった。
「──待ってたぞ、『発展持ち』」