三話 玄と仁 2
※御大:長、団体の首領、頭などの別称。親しみを込めて呼ぶ場合が多い。
「起きたばかりで胃が驚くから、ゆっくり食べなさい」
鍋の粥をかき混ぜていた銀髪の彼は、椀に粥をよそいつつ、柔らかな表情でそう言った。
食事を拒んで眠った僕は、結局空腹で夜中に目が覚めてしまった。けれど天狗の彼らはこうなると分かっていたようで、真夜中にも関わらず、粥は湯煎で温められていた。
差し出された碗を受け取り、「いただきます!」と手を合わせてから、かき込むようにして食べ始める。
これ以上ないほどに泣いたせいか、色々とすっきりとしている。
不安や恐怖、疑念などは未だぬぐい切れないものの、思い返せば「山の天狗さま」たちは誰一人として襲って来ない。それならば、今はこの空腹をなんとかしたかった。
粥は熱すぎず冷えてもいない、丁度良い温度だ。それは胃に染み渡るかのようで、椀はすぐに空になった。もう少し食べたくてちらりと長い銀髪の人を見ると、彼はにこりと笑って「おかわりだね」と手を差し出した。
そうしてありがたく二杯目をかき込んでいる時。
「ゆっくりと言ったのに…」
銀色の髪を揺らした彼は苦笑して手を伸ばし、僕の頬にそっと指を滑らせた。
どうやら頬に粥がついていたようで羞恥に顔が赤くなるが、それどころでない僕は、とにかくこの食欲を満たそうと匙を動かし続けた。
「ん、んぐっ…」
残りの粥を全て口に放り込んで、空の碗をちらりと見下ろす。
本当はもっと食べたいけれど、実はすでに満腹感を感じている。これ以上を食べれば苦しくなると渋々匙を置くと、「もういいの?」と問いかけられた。
「はい。ご馳走様でした」
「じゃあ、お茶をどうぞ。まだ熱いから気をつけて」
言いながら湯呑みを台の上に置いて、銀の瞳が僕を見つめる。凛と名乗った白い天狗に似てはいるけれど、この人は別格だった。
白というよりも銀。瞳はよく見てみれば、光の加減で虹の色さえ滲ませる。
この色に美しさ。もしも神様が本当にいるのなら、こんな感じだろうか。そう思って凝視していると、彼は湯呑みを口に運びながら口を開いた。
「落ち着いたところで改めて聞きたい。君、名前は?」
「…名前…」
「言いたくないなら仕方ないけど、でも僕らも呼び辛い。愛称でも偽名でも、なんでもいいんだ」
「…」
答えなければ、と分かっている。
実は轍に聞かれた時にも、ちゃんと答えようとした。しかし思い出せないのだ。
自分の名前が分からないなんて、とあの時は愕然となってしまったけれど…
もう一度、目を閉じて己の名前を探す。しかし思い出そうとすればするほど、記憶はまるで赤い墨で塗り潰すかのように隠れてしまう。その赤い色の中に父と母の顔が浮かんで、血まみれの惨状に呼吸が浅くなっていく。
(…わからない。やっぱり…思い出せない)
急に心が冷え込むような感覚に陥って両腕を抱いた僕は、とりあえずはきちんと答えようと口を開いた。
「あの…名前が 思い、出せないんです…」
絞り出すような声になってしまうけれど、ちゃんと伝えられたとホッと息をつく。
きっと思いがけない言葉だったのだろう。ちらりと窺き見た彼の瞳が、僅かに見開かれた。
「…では、他は。村やご両親の事は? 今、どうしてここにいるかは覚えてる?」
「おぼ 覚えてるけど…顔がわからない、です。思い出そうとしたら、ち 血だまりの中の 父さんと か 母さんが…っ」
「…っ! 分かった、思い出すのをやめなさい。とりあえずお茶を飲んで。…ゆっくりとね」
記憶を辿る僕の注意を己に引きつけて、彼が湯呑みを差し出してくる。受け取ってゆっくりと口に含むと、温かい温度にやがて震えが止まって…。その時になって初めて、僕は自分が震えていたと気づいた。
「…辛い事を思い出させてごめん。あんなことがあった後では、無理もなかった…」
詫びながら髪を撫でられて、僕は頭をぶんぶんと振って無理やり笑顔さえ作って見せた。銀色の人は心配そうにこちらを見ていたけれど、やがて小さく頷いてくれた。
「…怖くなったら無理に喋らなくていいからね。でも名前は…。そうだ、それなら仮の名前を考えよう。呼ぶ名前がないのは不便だし」
「…はい」
「う~ん…そうだな…、急だとなかなか思いつかないな。…と言うか、僕もまだ名乗っていなかったっけ」
銀色の目が、ふと思い出したようにこちらを振り返った。警戒心を抱かせないためなのか、柔らかく気の抜けるような言動に、思わず肩から力が抜ける。
天狗と言えば強面に筋肉質な男を想像していただけに、改めて胸を撫でおろす思いだった。
そう言えば、あの轍と凛という人も、どちらかと言えばひょろひょろと細い方だったように思う。
翼を広げたあの姿を見ていなかったなら、彼らが天狗だなどと、きっと信じなかっただろう。
そんな風に観察している視線には気付かず、彼は自己紹介を始めた。
「昼間、君の面倒を見ていた轍と凛がいただろう? あの子らの母で、僕は仁」
「ジン… 仁さん」
「うん?」
早速名を呼ばれて、仁がにこりと笑いながら首を傾げた。
「僕って言ってるし、お 男に見えるけど、母ってことは、もしかして女の人なの?」
「ああ、そこね。うん、良く言われるけど、うーん… 両方、かな」
「…? どういうこと? お化けだから男でも子供を産めるの?」
「お化け。…僕たちは妖怪なんだけど… まぁ、一緒か…」
「え あ、いや、なんて言えば良かったのかな。えっと」
なぜかがっくりと肩を落とした仁に、まずい事を言ったのかと矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。と、突然聞こえて来た笑い声に振り返って見てみれば、随分と厳しい印象の、黒い修験装束の男が入ってきたところだった。
村を襲った男たちが脳裏に蘇り、ぞわりと背を駆けのぼるような恐怖に血の気が引いていく。
それを見た仁がさっと子供の横について抱き寄せ、入って来た男に非難めいた瞳を向けた。
「玄、威圧感丸出しで来ないよう言っておいただろ」
「そんなもんどうやって抑えろっていうんだ。それより…飯を食えたようだな。食欲さえあれば回復も早いだろう」
言いながら子供の様子を見ようと身を乗り出した玄だが、これ以上怯えさせるなと仁に目で制され、拗ねたように身を引く。
助けたことには良い顔をしなかったものの、玄は子供好きである。けれど状況が状況だけに、厳しい態度を取らざるを得なかったのだ。
更に言えば、妖怪の妖気は人にとって良いものではないため、ただでさえ幼い身を案じた故のものでもある。それを理解している仁は、玄の頬をするりと撫でて宥め、「もう少し待っていて」と笑みを見せた。
「大丈夫。彼は玄と言ってね、見た目は怖いけど、とても優しいんだ。君の怪我も玄が治してくれたんだよ」
抱きついて仁の羽織に隠れるようにしている子供に、仁は努めて優しく声をかける。すると一番最後の言葉に反応して、ちらりと玄を見上げた。
「僕、怪我してた…?」
「足の指なんて、爪が剥がれていた。木の枝や棘も刺さっていたし、山には毒のある木もあるから、念のため治癒の術を使ったんだ」
「…」
仁の説明に子供が目を輝かせて玄を見上げる。その表情に「しまった」と感じた仁が口を開こうとしたが、しかし玄に手で制されて押し黙った。
玄は「大丈夫だ」と言わんばかりに仁に頷いて見せて、怯えながらも自分の前に進み出た子供の前に腰を下ろす。
「あの! て、天狗様は傷を治す力を持ってるんですよね。どんな怪我でも治せるの? 僕の父さんや母さんと友達が、それだけじゃなくて、村のみんなを…!」
やはりそう来たか、と一度目を閉じた玄は、しかし毅然とした面持ちで口を開いた。
「生きる力さえ残っていれば怪我は癒せる。だが死者は蘇らん。残念だが…村の者を助けることは出来ない」
こういう時は下手な希望は与えてはならない。出来ないことは出来ないと、たとえそれが幼い子供であろうと、誤魔化す事無くはっきりと伝える。それは今まで玄が貫いてきた御大としての姿である。
下手な嘘はすぐに崩れ、誤魔化しで与えた希望は、絶望をより深くしてしまうと知っているが故の姿勢。
…仁はただ座して、幼い人の子が現実を受け入れられるかを見守った。
そんな仁の目の前、孤児となった彼は、心のどこかでもう駄目なのだと分かっていて、それでも問いかけた結果を噛み締めるように、やがて自分の腕や足を見る。
そこにあっただろう傷はうっすらと白く残っていて、痕を指でなぞっていると、隣で見守っていた仁がそっと体を寄せてきた。
「…泣いてもいいのに… 君は強いね」
「…お 男は泣いちゃ駄目だって、お父 さん が、いつも 言ってました…っ」
そんなことはない。男だろうが女だろうが、こんな時さえ涙を堪えなければならない理由などどこにもない。
…仁はそう言いたかったけれど、再び玄に向き直って背筋を伸ばした彼の姿に、今は自分の出る幕ではないと悟って口を噤んだ。
その仁の前で、必死に涙を堪えながらも小さな人の子はしっかりと上を向き、やがて玄に頭を下げる。
「怪我を治してくれて、ありがとうございました」
「あ、いや。…ごほん。元気になってくれたら、俺はそれでいいんだ。うん」
「ふっ…!」
「仁てめぇ!」
戸惑っていたのに、急に背筋を伸ばして格好を付けた玄に仁が噴出す。途端に顔を真っ赤にした玄が仁を小突いて、その様子に子供が小さく笑った。
その笑顔に誘われるように彼を抱き寄せて、仁が視線を玄に移す。
「ふふ。さて、名前を考えよう。玄も、良い名があれば頼むよ」
「…名前を考えるってなんだ。もう二十歳くらいだろう。まさか今まで名前がなかったなんて言わないだろうな」
「この子は人間だよ。成長が早いんだから、多分まだ十歳くらいだ」
「もうすぐ七つになります」
「そ、そうか…。だったにしても名前がないのはおかしいだろうが!」
「うるさい、いちいち怒鳴るな」
子供を庇うように両腕で包みこみ、銀の瞳が玄を睨んだ。ぐっと口を噤んだ玄はバツが悪そうに一度そっぽを向くが、すぐに気を取り直して表情を和らげた。
仁もまた口許を緩ませて、子供の髪を指で梳いていく。
「名前もだけど、色々と思い出せないらしい。辛い目に遭ったせいか…」
言いながら仁が背中を撫でると、子供は安心したように仁の着物を掴んで何度か目を瞬かせた。どうやら満腹になったところに安堵感を感じ、再び睡魔がやってきたようだ。
「…だから、思い出すまでは仮の名前を考えようって話してたところだったんだ。…何か良い名前、ある?」
もたれかかってきた子供を少しずつ横にさせて、そのまま寝かしつけながら仁がちらりと玄を見る。玄もまた手を伸ばして子供の頭を撫でると、大きな手の平に父の温もりでも思い出したか、肩の力がふっと抜けて目を閉じた。
「…轍と凛の小さい頃を思い出すな」
「あの頃は可愛かったね。良くこうして寝かしつけたなぁ」
「こんなに大人しくはなかったがな。あいつら、夜も昼もお構いなしに暴れていたぞ」
「僕らの手を離れただけで、今も変わってないよ」
穏やかな会話を交わしつつも、二人の表情は少々硬い。
山を下りて直接村を見て回った二人は、襲撃者の目的が村人の特異性にあったことを知った。
それは目に見えるようなものではないが、村人には他の「人」とは違う力がある。とはいえ、それは誰もが持っていて、ただその能力が抜きん出て強く出ているだけのものだった。
馴染み深い村の消滅。現場を目の当たりにしてきた二人は、脳裏に残る村の惨状に、静かに息を吐き出した。