三話 玄と仁 1
『… 、 』
声が聞こえる。
『 』
誰かが何かを言っている。
僕の名前だった気もするし、何かを聞かれたのかもしれない。
確かめようと必死に手を伸ばし、何かを掴もうとして…次の瞬間、僕は目を覚ました。
「…っ!」
がば!と音を立てて起き上がると、すぐ目の前にいた誰かが振り返った。
「お、目が覚めたか。気分はどうだ。痛いとことか、ないか?」
黒い髪がさらりと揺れて、屈んでこちらを覗き込む黒い瞳が柔らかく微笑んだ。それがあの時の天狗だと気づいた時、再び震え始めた体を抑えて後ろへとずり下がる。
「あ うぁ…っ!」
「こら、急に動くな。まずは身体の具合を…」
「こっち来るな! ぼっ ぼくを食うんだろ! 僕なんか! 人間なんか食べたって美味しくない! ないから!!」
「お前を食うって… 俺がか!?」
「ぶっふ!」
その時、どうやら後ろにいたらしい誰かが噴出して、僕は勢い良く振り返った。そこにはあの時にも見た白い髪の人がいて…
「まぁ、僕たちが人間じゃないのはバレバレだよね。でも人間を取って食う習性はないよ。確かに君、不味そうだし」
「凛、茶化すな!」
「真面目くされば良いってモンでもないでしょ。それより君、お腹空いてない? おかゆ作ってあるよ?」
そう言って凛が火鉢にかけている鍋の蓋を取る。そしてお玉で中身を掬って見せると、じっと様子を見ていた子供の目が涙目になった。
「ど どうしたの!?」
突然の涙に凛がお玉を手放して近寄ると、子供はいやいやをしながら寝台の端へと逃げた。
「それ何!? 人!? 人を煮てるの!?」
「だから人間なんか食べないって言ってるだろ! ほら! ただの米と卵だから食ってみろって!!」
「ぎゃぁあっ!!」
「おっと」
更に逃げようと立ち上がりかけたが、けれど布団に足を取られて身体が傾く。その体を受け止めた轍が、ぽんぽんと頭を撫でた。
あまりに優しいその手つきに上を向いて… ああ、そういえば奏太兄ちゃんも、僕が泣いてる時はこんな風に撫でてくれたな、と思うと、少しだけ安心した。
もう一度彼の黒い目を見てみれば、そこには殺意ではなく、まるで人のように心配そうに見守る光があって…。
天狗は、もっと怖い顔をしているのだと思って見ていると、彼が口を開いた。
「大丈夫、誰もお前を取って食ったりしないし、粥だって本当に米と卵だけを使ったもんだ。俺らだって米を食うんだぞ?」
「…ほんとに?」
「ああ、お前らの村から米を物々交換してもらったりもしてたんだ。…たまに数人の男らが買い付けに来ていたの、見たことないか?」
「…ある…」
年に数回、米や麦などの農作物を求めて物々交換にやって来る男たちは確かにいた。
頷いてみせると、黒髪の彼は安堵したように笑った。
「あれは… ここの人たちだったの?」
「ああ。俺たちは農耕が出来ないからな」
「でも、肉とかも食べるでしょ…? やっぱり人さらったりとか…!」
「断じてしない! まぁ猪とか鳥は食うけど、お前らだって食うだろ?」
一人勝手に想像しては突っ走りかける子供に、轍が慌ててその思考を止めさせる。けれど、子供はともすれば泣き出しそうな顔をしていて、怯える背を努めて優しく撫でた。
「猪は、食べる…?」
「おお、食うぞ? もう一度言うけど、本当に人は食べないからな」
「じゃあ 本当に、僕を 殺さない…? 食べたり、しない よね?」
ついに涙が零れて、けれど子供は轍にしがみついて顔を押し付けた。
怯える子の髪を撫でて、背中をぽんぽんとあやす。
幼い頃には、この天狗族も他種族から襲撃を受けたことがある。その時の恐怖を思い出した轍は、父、玄がしてくれたように子供を柔らかく抱きしめた。
当時の玄はまだ御大であり、それこそ集落を守るため、たとえ我が子であろうとも構っている場合ではなかったはずだ。それでも玄は、恐怖に慄く轍と凛を抱きしめていてくれたのだ。
あの柔らかな抱擁と温もりを、今度は自分が。頼る者を失くしたこの子に、少しでも安心を与えられるように。
「そんなこと絶対にしないし、誰にも手出しさせない。約束する」
「…うぅ…っ」
まだ恐怖が勝って、まともな会話は望めない。それでも轍が敵ではないと知ってもらえただけ良かったのだろう。
尚も子供を慰めていた轍は、凛から粥をよそった椀を受け取ると、もう一度子供の様子を窺う。
「な、飯を食わないか? 元気出るぞ?」
「…」
粥を匙にすくって子供に近づけるが、ぷいと顔を背けられてしまった。
食べさせたいけれど、まさか無理矢理口に突っ込む訳にもいかず、轍は匙を自分の口に放り込んだ。途端、その目が半眼になる。
…粥は凛が作ったのだが、いつもより贅沢な味付けに、凛の子供への配慮が見えたのだ。
なぜか面白くなくなった轍は匙を投げ置くと、椀の中身を一気に口に流し込んだ。
「こら! それはその子の分だろ! なんで轍が食うんだよ!」
「うるせぇ。一口食ったら余計腹が減ったんだ」
「だったらそう言えよ! ちゃんと僕らの碗も用意してたのに…もう」
「お、そうか。じゃあもう一杯くれ」
「…ていうかさ」
おかわりを無視して、凛は轍にくっついている子供を覗き込んだ。子供はびくりと体を震わせると、すでにしがみ付いた轍の服を更に引っ張って顔を隠してしまう。
「こらこらこら、服が伸びる。いやまぁいいけど。…凛、お前怖がらせてんじゃねぇぞ」
「そんなつもりないよ。ただ…名前を知りたいなと思ってさ。ね、教えてくれないかな」
なるべく優しく声をかけるものの、子供は答えずに轍を見上げた。どうやら轍には安心を覚えるようで、助けを求めるような瞳を向けられて、幼い子供の髪を撫でていく。
「…そうだな。名前、オレも知りたいな」
言うと、凛がうんうんと頷いてにこりと笑った。しかし子供は頑なに口を閉ざしていて、ちらりちらりと凛と轍を見比べるばかりだ。
これは先にこちらが名乗って流れを作るべきかもしれない。そう思った凛は、とりあえず椀を後ろの机へと押しやってから口を開いた。
「僕はね、凛ていうんだ。君の名前は?」
相変わらず口を引き結んでいる子供に、凛がちらりと轍に目配せをする。おそらく「お前も名乗れ」と言ったところだろう。
「オレは轍だ。凛とは兄弟で、見た目は全然違うが、これでも双子なんだ」
「…嘘だ。双子はそっくりになるんだ。見たことある」
名前は教えてくれないものの、けれどやっと口を開いた子供に二人が笑顔を見せる。
このままもう少し会話を重ねて、彼の警戒心を和らげられたなら。そう考え、否定されたそれに答えようと轍が苦笑した。
「はは、似てないのは本当だから仕方ないな。でも双子ってのは嘘じゃない」
「…髪の色も真逆だし、顔立ちも…全然、違うのに?」
「そんな双子もいる…というより、オレたちは妖怪としても種族が違う。それも関係してるんだ」
「…よ 妖怪… ひぐっ、うぅ…っ」
何かを思い出してしまったのか、再び溢れてくる涙に、轍が子供の背中をあやす。
もはや名前を聞き出そうとするのは逆効果だろう。
考えてみれば、この子供は親も仲間も、村という居場所もなにもかもを失ったばかりなのだ。
幼い身で突然突き付けられた残酷な現実。それを思い出してしまった彼に、轍と凛が眉根を下げて見守る。
「ねぇ…っ なん、なんで父さんと母さん 死んじゃったの…。なんでみんなっ 殺されたの…っ!」
それは轍たちも気になっていることで、答えられるはずがなかった。
今頃、その理由を探して村を見回っているであろう先代長二人を思った轍は、ただ黙って子供の背を撫で続ける。
泣き続ける小さな人の子の泣き声は、しばらく止むことはなかった。
数時間後。
…空腹に目が覚めて、隣で添い寝をしてくれていた人を見上げる。
それは凛と名乗った人にそっくりな、けれどもっと綺麗な人だった。
長く伸ばした銀髪はゆったりとした感じで肩のところで結わえられていて、窓から差し込む月明かりを受けて、まるでそれ自体が光を放っているかのようだった。同じく銀の瞳はその月を見上げていて… その目が不意に自分を見下ろし、彼が柔らかく微笑んだ。
あまりにも綺麗なその笑顔に、心臓が跳ねる。
「…寒くない?」
聞きながら白い人の手がするりと頬を撫でていき、布団の隙間を押さえていく。
その時に触れた銀の髪が月光にきらきらと輝いて、思わず手を伸ばすと、白い人は笑顔のまま自分の髪に触れる小さな手を見守っていた。
「まだ小さいのに、頑張り屋さんの手をしているね。こんなところに肉刺が出来ている」
硬い茎の薬草は、採り続ければ手が傷む。それを繰り返しているうちに出来た肉刺に気付かれて、我慢していたのに再び涙が零れた。
血溜まりに倒れた両親。身代わりになった親友。戻らない日常。それらが一気に思い返されて、溢れる涙を零し続けていた時、銀髪を揺らした彼に抱きしめられた。
「…たくさんの大事なものを失ったね。今は辛いと思う。君を慰められる言葉なんて、僕は持ってない…」
そう言いながら強く抱きしめられて、僕は… またしても、声をあげて泣いた。
『今は泣くな。後で、生き延びてからならいくら泣いてもいいから』
まるでその言葉通りに、安心感に涙は堰を切ったかのように流れて、僕は、ただ泣き続けた。