二話 天狗族の里 2
拝殿入口に立った玄の黒い翼が、大きく広げられる。
烏天狗の翼は、その能力が高ければ高いほど翼の大きさと色艶に表れる。
それこそ集落一の巨体を持つ景よりも大きな翼は、玄の能力が今も衰えていない事を示していた。
それは仁にしても同じことで、本来一対であるはずの彼の白い翼は、ここぞという時には二対目が現れる。
研鑽を積み続け、己の力を昇華させた妖力は一対の翼には収まり切らず、ついに二対目の翼を有するに至った。
…いつだったか博識な猫又の長が教えてくれたそれを思い出した景は、二人を誇らしく思う反面、その陰に隠した懸念に口を引き結んだ。
隠居したとは言え、先代長二人は今も天狗族を守る柱として聳え立っている。
けれど… 始まりのあるものは必ず終わりが来る。
頼もしいどころではないのだ。この頼もし過ぎる双柱を失えば、天狗族はどうなるのか。
そんな不安は、二人が隠居を決めた時から集落内に渦巻いている。そしてそれは、数百年に渡って集落を背負って来た二人には、痛いほどに伝わっていた。
状況を見かねた玄は、ある日、景に言った。
『かつては俺自身が経験した事だから、お前たちの不安は解るが…、世代の入れ替わりは俺たちに限った話じゃない。寿命はともかく、事故や襲撃、いつ誰が命を落とすかなんて、誰にも分からないんだ。だからな、景…』
あの日、少し寂し気に微笑んだ玄の笑顔が脳裏に蘇る。
その先の言葉を今一度心に思い浮かべた景は、玄たちが塔へと飛び立って行くのを見送ってから踵を返した。
二人は、子供を塔に預けたらすぐに戻って来る。それまでに、自分は村へと降りる準備をしなければならなかった。
まずは御大代理を任せられる烏天狗の粋を呼び、景は己の武器を確認しつつ指示を出し始めた。
一方の塔では、仁が子供を寝台に寝かせて様子を窺っていた。
怪我や毒の心配はないが、玄によると、熱が出るかもしれないということで、水を張ったたらいに手拭いなどを準備して、やっと一息つく。そうして後ろを振り返ると、轍と凛がじっと仁を待っていた。
そんな二人に苦笑を零し、仁は寝台に腰かけたまま二人に向き直る。
「さてと、聞きたいことは色々とあるだろうけど… まずは集落の現状だ」
「はい」
「…何かあればこの山を去る。それは前々から言って来たけど、今がその時かもしれない。決定されれば伝達が行く。二人も心積もりを」
「えっ!? これってそんな深刻なの!?」
驚いたように声を上げた凛の口を人差し指で押さえ、仁が苦笑する。声こそ上げなかった轍は、けれどやはり驚きを隠せない顔で仁を見つめていて…
そんな二人から視線を外した仁は、再び子供の様子を窺う。その瞳はやがて、窓の外に見える景色に細められた。
「人間は基本、僕らを恐れて近寄って来ないけど、中には妖怪を恐れない者もいる。それこそ色んな理由で襲い掛かってくるんだよ」
「…村の人は俺たちの存在を知っても放っておいてくれた。でもあいつらは危険だってことか? こっちからは何もしてないのに」
「何かをしようがしまいが関係ないんだ。妖怪同士でも、僕達八咫を捕らえて殺そうとするだろ? 人が妖怪を襲う理由は、それと同じ場合が多々見受けられる」
「つまり、人間にとっては俺たち妖怪自体が霊薬…とか?」
「それが本当に霊薬の効果をもたらすかどうか、定かでないのにね。…もちろん別の理由も在る。単に僕達が怖いからという理由だけで追われたこともあるし、腕試しに挑んで来る者もあった」
理解したような顔をした轍を振り返り、仁は笑顔の消えた曇り顔で頷く。轍は同時に、子供を助けた事になぜ玄が渋い顔をしたのかを知ってうな垂れた。
「そうか、父さんが良い顔をしなかったのは…そういうことなんだ」
拳を握り締めた轍に、まだ理解していない凛が不思議そうに轍と仁を見比べる。その様を見て取った仁は、子供を助ける決断を下したのは轍だと知って笑みを見せた。
「轍は間違ってないよ」
「…でも、ここを追われかけてるのは、俺が人間を助けたから…」
「違う。この子が偶然山へ逃げて、追っ手が来ただけだ。轍が助けても助けなくても、彼らは結局、他の生存者を探して山頂まで捜索に乗り出しただろう」
「でも…」
「僕らは人には使えない力があるけど、こういった人間の流れに逆らえない。でもね…轍が決断したから、この子は生き延びた。それだけは確かだ」
確かに自分は逃げ惑う子供を助けた。
それが集落の存続に影響を与えたと思い込んでいた轍は、もう一つの懸念に、小さな人の子を見下ろす。
「…決断というか、思わず助けたんだ。でもそれがこの子にとって良かったとは限らなかった…」
自分は助けを求められたわけじゃない。ただ、目の前で子供が殺されようとしているのに、それを黙って見過ごすことができなかっただけだ。
もしもそれが余計な真似だったなら…。
そう考えているのが手に取るように汲み取れて、仁は柔らかく顔を綻ばせて轍の肩をぽんと叩いた。
「この子の今後がどうであるかは、生き延びた先の話だ。いつかきっと笑える日が来る。そう信じて無力な今を周囲が助け、本人が希望を持って歩むしかない。轍、お前は死ぬはずだったこの子に、その選択肢を与えたに過ぎないんだよ」
生か死か。それを選ぶ間もなく問答無用に殺されるよりも、この子供は逃げて生き延びようとした。それは明確な生きるための意思ではなく、恐怖に駆られたが故の本能の行動だ。
けれど…
「死にたくない」と必死に山を駆け、傷だらけになった子供の姿。
山でのその姿を思い出した轍は、これで良かったのだと納得したように頷いた。
「…じゃあ、あとはこの子次第、ってことなんだな…」
まるで独り言のような轍の言葉に仁が頷く。
本人次第なのは間違いない。けれど助けた以上は、こちらにも責任がある。
…とりあえずそれは置いておこうと口を閉ざした仁は、寝室の入口で錫杖や独鈷などを確認している玄を振り返って、そちらに歩み寄って行った。
「もういいか」
己のしたことが事態を悪化させているかもしれない。そう苛まれていた轍だが、仁の励ましに復活したのを見て玄が問いかける。無言のまま頷いた仁もまた手に短刀を呼び出して握り、一度鞘を抜いて愛刀の確認に目を走らせた。
「じゃあ僕たちは少し出てくる。御大代理は粋だ。何かあれば拝殿にいる粋に相談なさい」
「くれぐれも子供をここから出さないようにな。…怯やかすような真似、するんじゃないぞ」
「…もう怯えてしまってるよ」
子守を押し付けられて不満そうな凛がぼやく。
玄は苦笑すると、先に展望台へと向かった仁を追って部屋を出た。