二話 天狗族の里 1
<二話 烏天狗の里>
襲撃を受けた人里の、すぐ後ろに聳え立つ山。
この山の山頂には烏天狗が統治する妖怪の集落があった。もちろん人の目に映らぬようにと結界が張り巡らされているため、そうと知る者は少ない。
集落には他種族の妖怪の姿もあるが、成り行きの者、力の強い天狗に庇護を求めた者、あるいは利害の一致であるなどと理由は様々だ。
今回の襲撃を受けた人里はこの天狗族との共存関係にあり、細々とした交流を持っていた。
とは言え人と妖怪が関わり過ぎても良いことはない。交流は村長を始め、村の管理に携わるほんの数人に限られていた。
そうやって、両者はつかず離れずの距離を保って来たのだ。
けれど、時として見過ごせない問題は起きる。
流行り病、山賊などの襲撃、天災、それに伴う飢饉、そして略奪。
それは主に人が助けを求める場合が多かっただろう。けれど耕作をしない妖怪たち故に、米や麦、その他の糧食を求めて人里を訪ねる事も多々あり…。
この地に暮らす者として、どちらかが困れば手を差し伸べる。彼らは、ただ隣り合って暮らす良き隣人だった。
今回の非常事態に気付いた天狗族は、だからこそ轍と凛の二人を飛ばしたのだが、状況はすでに手遅れで…
その救援の任を与えられた二人は、警戒に当たっていた仲間に状況を伝えて、すぐさま天狗族の御大への報告に走った。
「景様。轍と凛、戻りまし…あ、と 父さん!?」
天狗族の御大将の住居である、山頂の神社本殿。そのすぐ目の前の拝殿に入った轍は、現族長、もとい御大である景の不在に、代理として座していた父の姿にギョっと目を剥いた。
轍と凛の父であり、今は隠居した先代族長、玄。
烏天狗は攻撃性にも優れた種族だが、玄は主に結界や治癒に関する術に精通した烏天狗だ。
厳格という言葉が服を着たような性格で、少々神経質な一面を持つが、治癒能力の高さにおいて彼の右に出る者はなく、隠居した今も忙しく動き回っている。
妖怪の成長はある時を境に止まる。八百の歳を超える彼の姿は若々しいが、意図的に肉体を成長させた玄は、人間でいえば三十路後半の姿を維持していた。
やや長めの黒髪は無造作に後ろに流していて、精悍な顔立ちは女たちに評判だ。しかし愛想がない上に、その性格上面差しも鋭く、近寄り難い雰囲気を醸しているのが玉に瑕と言ったところだろうか。
背も高く筋骨隆々、まさに「長」という出で立ちを体現したかのような玄は、我が子二人を前に笑顔も見せずに口を開いた。
「様子を見に行ったのが、お前たちだとは聞いていたが…」
厳かな口調に轍と凛が思わず姿勢を正して、そんな二人を玄の刃物のような目が射抜いた。
父の厳格さは息子の轍たちが誰よりも良く知っている。過去、幾度となく振り下ろされた拳骨を思い出し、轍が子供を落としかけて、慌てて抱え直した。
「子供とはいえ、人を連れ戻った理由は余程のものだろうな」
立ち上がり、二人に歩み寄りながら玄が手を差し出した。すると何もなかったはずの宙から錫杖が現れて、彼の大きな手に収まる。途端に轍と凛の顔が引きつって、二人揃って頭を垂れた。
「申し訳ありません! む 村はすでに壊滅状態でした。生き残ったこの子も追われていて…大きな怪我はありませんが、意識を失ってしまって、その…放っておけば殺されるのは目に見えてたので!」
「…まずは子供を診よう。凛、そこの座布団を二つ並べて敷け」
「はい!」
玄の指示にすぐに動いた凛が、座布団を二つ持って来て轍の前に敷いた。玄は頷くと、轍に子供を下ろすよう促して、座布団の前に腰を下ろす。
「ゆっくりとだぞ」
「はい」
言われるままに、轍が慎重に子供を横たえた。と同時に、大きく振った玄の錫杖からふわりと風が起こり、展開された術が轍ごと子供を包み込む。
どうやら人の子が妖気に当てられぬための処置だと気づき、轍がちらりと父の顔を窺う。
「…怪我、一つ一つはたいしたことないけど、数が…」
「たいしたことないと言うのは、俺たちにしてみればの話だな。人間はこういう傷で命を落とす者もある。子供であればなおの事だ」
「え…」
「毒に対して耐性があまりないんだ。免疫力にしてもそれほど高くなく、傷が発端となって病魔に冒されもする。しかも治癒術や体力付与などの力も持たん」
玄の説明に、轍が痛々しそうに顔を歪める。
改めて見てみれば、子供の顔や手足にはたくさんの傷が刻まれていた。
形振り構わず山を駆けたせいで棘や枝が刺さったままの傷さえあって、それを丁寧に抜きつつ治癒の術を展開した玄の手が、子供の小さな額にそっと触れる。
優しさを感じる手つきを見ていた轍は、父の憂いの表情に眉根を垂れさせたが…
その時、背後に歩み寄って来る誰かの気配を感じ取り、振り返った轍が顔を輝かせた。
「仁!」
仁と呼ばれた彼は笑みで応じると、持って来たたらいと手拭いを子供の傍に置いた。
虹彩の煌めく瞳と白銀の髪をもつ八咫烏の仁。
長く伸ばした髪をゆったりと結った彼は、雌雄同体の妖怪だ。それ故に中性的な美貌を持ち、線の細さと肌の白さも相まって儚げな印象が強い。しかしそれは見せかけに過ぎず、戦闘妖術において彼に敵う者は、集落にはただの一人もいない。
烏天狗の玄と八咫烏の仁。集落は数百年に渡って、「黒銀の双長」との異名を取った二人の許に統治されていた。
現在は景という巨漢の烏天狗を今代の長に命じて隠居していて、緊急時にのみ代理として拝殿で事に当たっている。
本来、代理は景の部下が担うものなのだが、今回は少々事情が複雑で、判断の難しい事態への対処に、先代長二人で拝殿で長の不在を守っていたところだったらしい。
動きやすく改良した赤い着物に黒の下穿き。そして白の羽織を纏う仁は、玄の正面にふわりと座る。そのまま水に浸した手拭いを絞って、意識のない子供の、血に塗れた顔を拭き始めた。
「怪我をした人の子を連れて戻ったと聞いたけど… 今のところ、命に別状はなさそうだね」
「…あとで熱が出るかもしれんがな。しかし、怪我の程度の割には付着した血の量がおかしい」
疑問を口にした玄に、子供の顔、腕や手を拭いていた仁が口を開いた。
「量から言って、顔に付いた血はこの子のものじゃないんだろう。誰かに庇われでもしたか…。玄、この子の気絶の原因だけど、毒や内臓への打撃とか、内の損傷の可能性は?」
最後に足を拭いてやりながら仁が問うと、玄は硬い表情のまま頭を横に振る。
「いや、これは急激な運動と極度の緊張による昏倒だ。轍の報告通りなら、村は絶望的だろう。それを目の当たりにした上に追われて、極限状態に心が持たなかったんだ」
「絶望的!? じゃあ… 轍、この子の他は」
「数十人しかいない小さな村だけど、死体は集められていて、村人の数ほどが確認できた。多分、他に生存者なんて…」
轍の報告に仁が悲しそうに顔を歪め、けれどすぐに表情を改めて轍と凛の二人に笑みを見せた。
「…二人とも、よくこの子を助けた」
「おい、仁…」
「人も妖怪も命あってのものだろ。この子は轍と凛が居合わせて命拾いをした。…これもまたひとつの縁だ」
「確かにそうだが、子供を勝手に連れ戻るなど、村長やこの子の親にも申し訳が立たん」
「解っているだろう、玄。僕たちは間に合わなかった。死者と生者ならば、生者を優先すべきと僕は思う。…戻せば死ぬと分かっている場所に返して来いなんて、まさか言わないだろうね」
「…」
仁の言うとおり、戻して来いなどとは到底言えたものではない。
玄は諦めたようにため息を漏らすと、おそらく拳骨が落ちてくると思って肩を竦めている二人に苦笑を向ける。途端、ちらりと上目遣いに様子を窺っていた轍たちの顔が緩んで、安堵に大きく息を吐いた。
「…だが、こちらも無関係とはいかん。…おい! 景は戻ってないか!」
人間を連れ戻ったことはさておき、現状が物語る深刻さに、玄が側近を見渡して声を張り上げた。
今代の天狗族の御大、景。
集落一の巨体の持ち主で強面、そして玄以上に恵まれた筋骨隆々の体躯。そんな形の景だが、見た目に反して温厚な性格の大男である。
いかつい面持ちとは裏腹に可愛いものが好きで、休みをもらえた日には、小物を作ったり、静かな場所で読書に耽る姿を見ることができた。
その景を探して玄が声を張り上げた直後、「ただいま戻ったところです!」と慌てた様子の声が廊下の向こうから聞こえて、駆け戻って来た景が玄の側に控えた。
七尺を超す巨体。玄の前ではこれでもかというほど身を縮こまらせる景だが、それでも彼の威圧感は抑えきれず、迫力のある姿に轍と凛が僅かに身を引いた。
集落を背負う彼らの意見を交わす場に、自分たちが場違いだと感じたのだ。
「勝手を言うが、この子供を塔に匿いたい。どうやら村は絶望的で、もしかすると唯一の生き残りかもしれん」
景にそう伝えつつ、玄は治癒の術を施し終えた子供の様子を窺った。
塔とは、巨大な椎の木に妖気を混ぜて変形させた、先代長二人の住居のことである。
二人が族長の座を降りた際に景が用意したものなのだが、住居のはずのそこは、玄と仁を慕う住民らの憩いの場と化し、常に妖怪たちがたむろすようになってしまった。
苦肉の策として住居は二階建てに変形させ直し、二階以上を居住区と定めた経緯があるのだが、その後も建て増しを繰り返した結果、塔のような趣きになってしまったのだ。
今では三階建ての上に展望台までも設置され、先代長二人も気に入っているようだ。が、当然ながら、住民らの二階以上への立ち入りは禁止となった。
その塔に人の子を匿うと聞き、景の目が座布団の上に横たわる子供をちらりと見る。
「村の子ですか。…大丈夫でしょう。皆には手出し無用と伝えます」
「すまんな。それからこの塒だが…潮時と捉えたほうが良いかもしれん」
「…轍の報告は見張り連中から聞きました。正直言いますと、急すぎて判断に迷っています」
「そうだろうな。まずは今回の襲撃の全貌を把握し、移動の必要があるかどうかを見る。今の段階から考慮すべきは九条殿の誘致だ。…これを機に再び「理想郷」の一端を担うのも、悪くないと俺は思う」
「九条殿の新たな地は…西の離島でしたね。猫又一族の麗己殿も、すでにあちらと聞きますが…ふぅむ。あ、時間もありませんね。村へ向かいましょう」
意見をまとめた二人が互いに頷き合い、立ち上がった。
その傍らで玄と景の話を背に聞いていた仁は、二人の意向を受けて轍と凛に向き直る。
「二人は塔でこの子の世話だ。意識が戻ってもきっと落ち着かないだろうから、翼は消して、なるべく人間のように接するように」
「そういうのは仁が得意だろ」
仁の指示に、凛が不満そうにそう言って眉根を寄せる。
「玄と僕は、景と村周辺の様子を見てくる。どうやら事態は深刻で、直接見て判断する必要があるからね」
「…判断って、何を」
こちらもまた戸惑ったように言う轍だけれど、こちらを待っている玄に気付いた仁は、慎重に子供を抱き上げる。
そうして轍と凛を振り返り「追々話すから、二人も来なさい」と立ち上がった。