9 武術1日目 (1)
武術の見学の日がやって来た。母は家で武術の予習を言い出さなかったし、私も教えて欲しいと言わなかった。あれから気功の日があり、惣社さんと顔を合わせたが、武術気功は武術を習っている人だけに教えるため、今まで気功では武術の技を教えなかったし、私の見学が決まってからも教えなかった。
早めに到着したつもりだったのに、道場には既に数名来ていた。広い畳の場所でしかできない稽古をするためらしい。確かに自宅の和室で受け身の稽古をするのは厳しい。それは広さの問題だけではない。道場には柔道畳が敷かれている。柔道畳は、クッション性があるし、畳表が塩化ビニール製で足運びがしやすく、抗菌加工されていて衛生的だ。
「こんにちは」
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶をすると、普通に挨拶が返される。当たり前のようで当たり前ではないらしい。クラスで空手をやっている子から聞いたのだが、返事は「うっす」、語尾にますが付く言葉は「ます」、ですが付く言葉は「です」というルールがあるらしい。例えば、おはようございますは「ます」、お疲れさまですは「です」。いきなり「ます」と言われても意味がわからないし、近くにいても大声で言うそうだ。大声を出されたら怖い。私は大声を出す人が苦手なのだ。祖父の道場には、そのような特殊な言葉のルールがなくて良かった。
道衣に着替えた私は、端で見学しようと思っていたところ、惣社さんに呼ばれた。
「武術は体験しないとわからないから、一緒にやろう」
「気功の見学の時のように、最初は見学して、途中からいくつか体験するかと思っていました」
「あの時は、お客様扱いだったからね。今は、ここの道場生だから気軽に参加してね。うちの道衣を着ている人が見学しているなんて変だよ」
確かに他の人と私の道衣には、「小笠原気功会」という同じ刺繍がある。武術しか参加しない人でも「武術気功」という刺繍は入っていない。見学で目立つより、稽古で溶け込んでいた方が恥ずかしくない。
「わかりました」
「気功に出ていない道場生もいるから、また自己紹介をお願いね」
「はい」
何か話が違う。参加するのは結構だが、今日は建前上は武術の見学だ。自己紹介して参加したら見学とは言わないだろう。しかし、見学というのは、意地を張ってみただけで、私の中でも始めるのは決定事項だから、反論して波風を立てる気はない。自己紹介も前回と同じでいいだろうと素直に受け入れることにした。
「重田さん!」
惣社さんが、離れた場所で準備運動をしていた黒帯の男性を呼んだ。仰向けになって、腕を真横に広げ、片足を真上に上げてから呼吸にあわせて足を横に倒し、逆も同じようにしていた男性だ。どこに何の効果がある運動なのかなと思いながら、凝視しないように、ちらっちらっと見ていた。もちろん、運動が気になるのは、健康おたくの両親のせいだ。
「こちらは重田師範です。気功は時々顔を出すけれど、主に武術の指導をしています」
「重田です。里山辺さんですね。気功の見学の時に顔をあわせた・・」
「はい、里山辺夏渚です」
見学の時に母に妙に丁寧な言葉遣いで接した男性だ。
「父は宗家の父上にお世話になり、私は宗家と里山辺さんのお母様にお世話になっています。武術は奥が深く、上を求めれば際限がないので楽しめると思います。とりわけ、気功武術は、スポーツと違って筋力を使いませんから高齢になっても続けられます。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
重田さんは、母よりも年上に見える。女性に年齢を聞くのは失礼だと言われるが、男性に聞くのも失礼だと思うから年齢は尋ねない。母が年上の重田さんをお世話したとしても不思議ではない。武術は、子供の頃から習う人もいるし、大人になってから習う人もいる。母は宗家の娘だ。子供の頃から習っていても驚かない。
重田さんは、私を里山辺さんと呼んだ。もともと礼儀正しい人で誰に対してでも丁寧語を使う人なのかもしれない。しかし、惣社さんから聞いた「数々の伝説」が忘れられない。黒帯の重田さんは武術歴が長いだろうから、母の伝説を知っているに違いない。そして、被害者の会の一員だろう。
「整列」
号令をかけたのは惣社さんではなく、重田さんだ。惣社さんも重田さんも黒帯だが、黒帯にも段位の違いがある。惣社さんは師範代で黒帯に茶線で、重田さんは師範で黒帯に紫線が入っている。
ちなみに、白、茶、黒帯は、ほとんどの流派で共通しているが、それ以外の色は異なる。例えば、白、橙、青、黄、緑、茶と昇級して黒に昇段する流派もあれば、色の数が少なくなったり、線が入ったりする流派もある。子供の場合、帯の色が変わると、親は喜ぶし、子供はやる気が出るので、子供が多い流派は色が多い方が良いのだろう。小笠原気功会では、白、茶、黒(線入りを含む)のみ。帯だけで安くても1千円あまり、高ければ2万円程度し、桐箱に入れて渡す場合もある。また、文字入れが仮に1文字3百円で、団体名と個人名を入れると・・。さらに昇級・昇段は、帯の買い物ではなく、帯代だけ払えばいいというものではない。手書きの免状も付くし、慈善事業で教えているのではないから、それなりの費用を納めて当然だ。
昇級・昇段すれば、相応の費用を請求するのは誰でも理解できる。だが、お金の問題は無視できない。黒帯で満足する人は、黒帯になったのだからと懐と相談して、2段以上に昇段しない人もいるらしい。実力がないなら昇段しなくてもいい。だが、実力があるのに昇段せず、後輩に段を追い抜かせるのは悩ましい選択だ。帯の色が少ないと、その悩みが減るわけだ。
「宗家に対して、礼」
「よろしくお願いします」
「はじめに、里山辺さん、前へ出てご挨拶を」
「見学の里山辺さん」でも「入会した里山辺さん」でもない。建前上「見学」、実質上「入会」だから、いずれにも解釈できる折衷案なのだろうか。「ご挨拶」と言われる大層な身分ではないが、前に出た。
「はじめまして、里山辺夏渚です。小学2年生です。先月気功を始めて、武術にも来ました。よろしくお願いします」
見学でも入会でもない紹介をされたから、見学でも入会でもない挨拶をした。「武術に来た」なら、見学で来たとも、入会したとも、解釈できる。「よろしくお願いします」も、今日はよろしくとも、今後はよろしくとも解釈できる。我ながら頭が回る小2だと自負した。
「補足しておくと、夏渚は僕の孫だ。今後は特別扱いせずに一緒に稽古に励んでくれ」
祖父がフォローしてくれた。ではない。ではなくはないのだが、重田さんと私が見学か入会か言葉の綾にならないように発言し、言質を取らせなかったのに「今後は」とは。惣社さんは見学だと伝えているはずだ。しかも、気功では特別扱いされなくてもいいが、武術では特別扱いしてくれないと痛い技をかけられる可能性がある。祖父は、空気を読めない人か、空気を読まない人か。見学で終わらせないつもりか。
あとで道場の裏に呼び出して真意を確認しようか。あ、道場の裏は祖父母の家だ。道場の裏へと言えば、遊びに行くという意味になってしまう。私は、おやつが欲しくて遊びに行く子ではない。遊びに行ったらおやつがたまたま出て来て、残すと悪いからいただくという実績は数多あるが。
祖父と違って、空気が読めるから、私は元の位置へ戻った。
「新旧2人1組みになって準備運動を始めて下さい」
重田さんの指示によって、白帯と茶帯で組んで散らばり始める。
「夏渚ちゃんは、こちらへ」
惣社さんと私以外は男性だ。今後は、私が惣社さんを独占する。惣社さんは、私から見ても輝いている。明るく元気で優しいし、いつも清潔感がある。もしかすると惣社さんが目当てで道場に来ている人もいるかもしれない。惣社さんと組めなくなった道場生の皆ごめんね。これで道場生が減っても私の責任ではない。むしろ変な虫がいなくなったことを感謝して欲しい。
武術気功も準備運動からだ。気功と同じように、2人で正座で向き合って、礼をする。武術と言うと筋力トレーニングをイメージする人が多いが、気功武術だから、準備運動は気功と同じように気を通りやすくする運動だそうだ。
「最初に関節技」
「!」
「大丈夫。痛くしないから。見学に来てくれたのに次回から来なくなるような意地悪はしないよ」
「約束ですよ」
「かけないけれど、極め方を覚えて欲しいから、手を出して」
「はい」
「気功の準備運動と同じように、こういう風に持って伸ばす。これが第一の注意点。関節は詰めると傷めるとから、必ず伸ばすこと。気功の方は、極めないから傷める可能性は低いけれど、武術の場合には絶対に守ってね」
「はい」
「第二の注意点は、肘にかけないこと。かけないから、安心して肘に意識を集中して」
「はい」
「こういう風にかけると、肘にかかってきて、これ以上されたら怖いと感じるでしょ?」
「はい」
「これは悪いかけ方。正しくは、伸ばしながら、手首に指をかけて、こう擦る。押さずに擦る。これ以上すると、手首が痛くなるのがわかるよね」
「はい」
「逆も同じように説明するから、逆の手を出して」
「はい」
「伸ばして、伸ばしながら、肘にかけないで、手首に指をかけて擦る。わかった?」
「はい」
「じゃあ、かけてみて」
「はい」
手の大きさが違うから、かける以前に持ちにくい。その様子を見て、惣社さんは、深く持たない持ち方を教えてくれた。惣社さんも、子供の頃からやって来て、同じことを習ったのかもしれない。
関節技をかけると、「もっと伸ばして」、「今、縮めたから、伸ばしながら」、「曲げるではなく、擦るね」、「肘にかかっているよ」などと指導される。気功で1ヶ月半ほど準備運動をしているからできているつもりだったが、武術は本当に別だ。
「もっと極めて」
「はい」
「もっと。痛くするのが嫌なんだよね。痛かったら畳を叩くから。大丈夫だよ。技というのは、できるけれど極めないのと、できなくて極められないのは違うの。夏渚ちゃんが痛くするのが嫌なら、極めなくてもいいけれど、できるけれど極めない方でいて欲しい。そうしないと、いざという時に困るよ」
「はい」
「まだ大丈夫。関節技を何回もかけられると慣れて来るから、夏渚ちゃんが本気でやっても痛くないよ。遠慮しないで」
何度も関節技をかけたが、一度も合格点はもらえなかった。「そう、そのままかけて」と言われても、つい反射的に抜いてしまう。今の私は、できなくて極められない方だ。
「一日で完璧にするのは無理だから、コツだけ覚えておいてね」
そう言われた頃、他の組みは準備運動が終わっていた。
惣社さんを痛くさせたくないが、合格点をもらいたい。
小笠原気功会 師範の重田です。
昔、父が先代宗家を助けた時に、小笠原家に伝わる宝をどうしても受け取って欲しいと懇願され、そのような貴重なものは頂けませんが預かるだけということなら了解しますと受け取りました。現宗家に返そうとしたところ、「父が命の恩人にお礼として渡したものだから受取れない」と拒否されました。娘さん(夏渚さんのお母様)からも「父から受け取るなと聞いている」と拒絶されました。私が生きているうちに小笠原の血統の方に返したいと思っていたところ、里山辺夏渚さんと出会えました。さすがにお宝を小学2年生に渡せませんから、もうしばらくしてからにします。お孫さんに渡すことは宗家に認めて欲しいです。