6 武術気功への勧誘 (2)
立ち話も何だからということで、街路樹の脇のベンチに行くことになった。この町は歩道のところどころにベンチがある。登下校で顔をあわせる近所のおじいさんは、私の姿を見ると、「いってらっしゃい」とか「おかえり」とか言ってくれる。そのおじいさんは、本が好きで休館日以外は図書館通いをしている。家から図書館まで徒歩5分なのに、ベンチで休まなければ行けず、ベンチに感謝しているそうだ。高齢になると疲れやすくなるが、外に出ても途中で休めないから外出したくなくなり、外出しないと体力が衰え、また外出から遠ざかるという悪循環に陥るらしい。外出せずに足腰が弱くなれば、病院通いになって保険料が上がり、保険料が上がると国が困る。おじいさんのようにベンチで助かっている人は多いのだろう。
会話は「武術の勧誘」だ。武術を断る理由を考えるなら、最初から会話しないのが良い。会話をしなければ、断る理由を考えなくて良いのだから。さて、どうやって会話を断るか。あれ、武術を断る理由を考えないために、会話を断る理由を考えなければならないのは、問題をすり替えているだけだ。
ところどころにあるベンチなんて、すぐに到着してしまう。しかも、到着前に考えねば、到着前に考えねばと思っているのに、惣社さんは、プレゼントは何を買ったのとか笑顔で尋ねてくる。一度に2つのことは考えられない。チェックメイトだ。
「運動したから喉が渇いちゃった。夏渚ちゃんは何を飲む? おごるよ」
嘘だ。惣社さんは水筒を携帯している。気功の休憩時間に飲んでいるのを何度も目撃している。「何か飲まない?」なら「飲まない」と断れる。喉が渇いたと言われたら、飲むなとは言えないし、私だけ飲まないのは気まずいし、高校生の惣社さんが小学生の私にお金を出させるわけにはいかない。気遣いができる女性とも言えるが、交渉前に緻密に逃げ口をふさいで確実に貸しを作る。見事な手口だ。
「ありがとうございます。栄養があるのがいいです」
「栄養があるの?」
「お母さんがいつも『栄養は食べ物から摂る』と言っているけれど、私は食べ物以外からも摂りたいと思っています」
「しっかりしているね。それなら、いろいろなハーブが混ざったブレンド茶か、栄養ドリンクだけど、ハーブとか炭酸は平気なの?」
炭酸は飲めるが、惣社さんの前でゲップはしたくない。
「ハーブも、炭酸も大丈夫ですが、ブレンド茶でお願いします」
惣社さんがボタンを押すと、点滅しながらピピピピピッと光が動き始めた。これは当たりくじ付きの自動販売機だ。しかし、私は少ない小遣いで飲み物を買わないので大きな顔では言えないが、これは「くじ付き自販機」だと思う。当たったのを見たことがないから、はずれクジばかりで、当たりクジはないと思っているのだ。当たりがあるなら、当たってみな。一度も買ったことがない私が言うのも変だが。
ピッ! ジャジャーン。
「夏渚ちゃん、当たったよ。すごいよ」
当たりには制限時間があるようで、惣社さんは急いで私と同じブレンド茶を押した。
「私、水筒派だから、今日初めて買ったら当たった。この自販機、当たりやすいのかな。でも、これは夏渚ちゃんの分だから、夏渚ちゃんが当たったんだね」
「私も買ったことがありませんが、ここで当たっている人は見たことがありません。あと、香奈絵さんが買ったから、香奈絵さんが当たったと思いますよ」
立て続けに話されると、立て続けに返さなければならない。興奮した惣社さんは新鮮だが、いつものように落ち着いて欲しい。
同じブレンド茶だから、誰の分かは断定できない。でも、私は最初のが自分の分だと思った。惣社さんは自分のことを優先しないと思うから。
「夏渚ちゃんはラッキーだよ。今日、いいことがあるよ」
ラッキーな人は、惣社さんか私か決められないが、私がラッキーなら武術を断れる。惣社さんがラッキーなら武術の勧誘に成功するということだとしたら、私がラッキーの方がいい。ここは私がラッキーということにしておこう。だが、ちょっと待て。私がラッキーなら、ここで運を使い果たしたとも考えられる。不吉だ。
「どうぞ」
ブレンド茶を持ったままの私に惣社さんが声をかけた。
「いただきます」
「それでね。武術は、やった方がいいと思う」
「痛いのは・・」
「そう、嘘を言ってもすぐにわかるから言わない。痛いのもある。準備運動でしている関節技。あれは痛くないよね。でも、武術としては極めなければならない。だから、かけられる人は痛いし、夏渚ちゃんが人を痛がらせるのが嫌だからと手を抜いたら、私はきちんと極めるように指導するよ。ただ、武術には武術のメリットがあるの」
「メリット?」
「気功は楽しい?」
「はい」
「日常生活で役立っている?」
「健康的だとは思いますが、役立っているかと言われたら・・」
気功は、調身(姿勢の調整)、調息(呼吸の鍛練)、調心(心身のリラックス)を通じた養生法・長生法と聞いている。つまり、あくまでも強壮、疾病予防、治療、延命で、体に良くても、生活に役立てるものとは考えていない。
惣社さんは説明を始めた。
今、気功で教えているのは、あくまでも気功だけ。静功は、座位・臥位・立位などで、体の内側を鍛練していて、これが日常生活に関わらないかと言えば、何十年も修行していれば関わるようにできる人がいるかもしれないけれど難しい。マッチやライターなしで火を起こすやり方を聞けばできても、自分で最初からやるのは難しい。武術を学べば、動き方がわかって日常生活で役立つ。道場では、気功、武術、治療を教えていて、治療師として開業している人も武術が治療に役立つからと武術にも参加しているなど。
一生懸命説明しているのはわかるが、私の集中力がなくなってきた。武術の良さはわかったから、そろそろ終わらないかな。
「気功以外に習い事している?」
「いいえ、気功だけです」
「夏渚ちゃんは、今日はブレンド茶が当たったラッキーデーだよ。今日は悪いことがないよ。帰りに偶然会ったのも何かの縁だし、宗家のお孫さんなんだから武術もする運命なんだよ」
「でも・・」
「夏渚ちゃん、見学に来た日に『見てから決めます』と言ったよね。自分の意見をしっかり持って、それを人に言えて、すごいなと思ったんだ。今度も見て決めようよ」
「でも・・」
「痛いのが引っかかるか・・。じゃあ、来ればわかるから、これも正直に言う。武術だから男の人が多い。男の子ではなく、大人の男性ね。その大人の男性が小学生の女の子に痛いことを平気ですると思う? 逆に小学生の女の子が技をかけて、大人の男性が痛がると思う?」
「う~ん」
痛みの問題は、簡単にクリアしてしまった。惣社さんは、痛い技はあるが、大人の男性から痛くされる心配も、痛がらせる心配もないことを話してくれた。でも、何か引っかかる。何だろう、このモヤモヤは。
「次の武術は1週間後だから、その前の気功の時に会うね。でも、来週はごめんね。私の都合が悪いから武術は再来週。知らない人だらけより一緒の方がいいでしょ。再来週見学に来て。他にも困ったことがあったら何でも相談に乗るから」
惣社さんが右手を出し、コクコクと頷いている。既視感だ。前回は、これで入会してしまったのだ。少し強引のような気もするが、入会して後悔したことはない。私も手を出すと、両手で握手された。
「それじゃあ、気をつけて帰ってね」
「ごちそうさまでした」
「お茶は当たって、お金を払ってないからお礼はいらないよ」
「失礼します」
しばらくして、振り返ると、惣社さんが笑顔で手を振ってくれた。あの場所から一歩も動かずに見送っていてくれたのか。私は2度お辞儀をして、手を振り返した。また歩き出してしばらくして振り返ると、まだいて、手を振ってくれた。後姿だったら少し悲しくなるけれど、いつまでも待っていてくれると、照れるし、悪いと思ってしまう。
結局、私が曲がり角を曲がるまで見送ってくれた。惣社さんの好感度がますます上がった。曲がり角がなければどうなっていたことやら。私は人生で初めて曲がり角に感謝した。
痛いのを嫌がっている私に母は武術を勧めなかった。私が始めると言い出したら、どのような顔をするのだろうか。理由を聞かれたら、「大人の男の人は私に痛くするわけないよ」とでも言おうか。「大人の男の人は」? 今、母が暇な時に練習相手になってくれている。私が武術を始めたら、母に痛い技をかけられるの? 武術の日に道衣が入ったバッグを持って外出すれば怪しいし、目を盗んで外出しても道衣を洗濯できない。自分で洗濯すればいい? 道衣が簡単に乾くはずがない。仮にこっそり武術をして、こっそり自分の部屋で道衣を乾燥させられても、小遣いでは月謝が払えない。いくら親戚でも無料で教えたら、道場生に示しがつかない。早速、困ったことができたから、次回、気功の日に相談しよう。武術の話は、まだ家族には秘密だ。
おわかりのように、ラッキーデーなのにミッションはクリアできなかった。ブレンド茶1本で運を使い果たしてしまったとは無念過ぎる。私にブレンド茶2本分くらいの運があれば良かったのに。
小笠原気功会 師範代の惣社です。
夏渚ちゃんの登場回数が1回なのに、私が2回目を書いてもいいのでしょうか。
実は、夏渚ちゃんの入会1日目の休憩中に宗家に呼ばれました。夏渚ちゃんを武術にも参加させる計画で、実行役を頼まれました。宗家はお孫さんにすべてを伝承したいという気持ちがあるのでしょう。夏渚ちゃんのお母さんには見学の日に話が通っており、月謝の追加料金の了解も得ているそうです。とりあえず、気功に慣れた頃を目安にと考えていたら、さきほど偶然見かけて計画を遂行し、見学の約束は確保しました。
夏渚ちゃん、ごめん。ここで謝っても聞こえないけど。大人の男性は夏渚ちゃんに遠慮して痛い技をかけられないのは本当だと思う。でも、それでは夏渚ちゃんのためにならないから、私がかけるよ。本当にごめんね。