2 1日目 (1)
水曜日
下校すると、母からリュックサックを持って道場へ行くように言われた。先週土曜に入会したのに、もう道衣ができたようだ。道衣は、武道具店に在庫があっても、団体名や個人名の刺繍で時間がかかるものだ。特に帯は、裏に刺繍跡が出ない高価で厚い帯だと時間がかかる。
道場には、宗家こと祖父と、見学の時に案内をしてくれた惣社さんがいた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「早かったな。まだ、他に来ていないから、ちょうどいい。道衣の着方を教えてやって」
「はい。じゃあ、ついて来て」
左手に大きな袋を持った惣社さんが更衣室に案内してくれた。
「道衣は、上・下、袴、帯、足袋の5点、ロッカーは空いているところを自由に使ってね」
「はい」
「上・下は、ひもを結ぶだけだから自分で着られるよね。袴は教えるから」
「はい」
女同士なのに惣社さんは着替えの時に視線を外していてくれた。
「着ました」
「うん、大丈夫だね。袴は、これが付いている方が後ろ」
すぐに覚えなくていいけれどと前置きして、袴の5つの折り目は、儒教の五倫五常を意味することを教えてくれた。本来、着る時に思い出すようにとのこと。実際に思い出す人はいないだろう。
五倫とは道徳
・父子の親 父と子は親愛で結ばれる
・君臣の義 君主と臣下は慈しみの心で結ばれる
・夫婦の別 夫には夫、妻には妻の役割がある
・長幼の序 年少者は年長者を敬って従う
・朋友の信 友は信頼で結ばれる
五常とは徳目
・仁 人を思いやる
・義 利欲にとらわれず、なすべきことをなす
・礼 仁を行動に移す
・智 道理を知って正しい判断をする
・信 誠実である
1つも覚えられない。1度聞いて暗記できる小学2年生がいたら会ってみたい。大人でも覚えられないだろう。しかも、覚えるハードルを上げるものが続く。
「はい、足を通して。あとは、ゆっくりするから見ていてね」
惣社さんが私の前に屈むと、シャンプーのシトラス系の香りがする。この匂いいいな、何を使っているのだろう思っていると、この長い紐を、ここを回して、ここで交差させて、ここを通して・・と。マジックテープではいけないのだろうか。1兎を追っても捕まえられない私が、2兎を追うこと、つまり、五倫五常と着付けの暗記ができるはずがない。黒帯の人は、改めて、すごいと思った。
帯も結んでもらったし、後は足袋だけだなと思っていたところ、紐をほどかれた。
「今度は、自分でやってみる? すぐに復習しないと忘れるからね」
忘れる以前に覚えてない。さっきも思ったとおり、1度で暗記できる小2はいないよ。結局、もう一度、お願いした。そして、着付けが終わる頃に、二度と紐をほどかれないように祈り、両手は無意識のうちに紐の結び目の上にあった。
「もうほどかないよ。ふふふ」
見透かされたように笑われた。
「足袋は、この小鉤を入れるだけだよ」
「袴も、小鉤で着られたらいいのに」
「それだと楽だね。動いている時に脱げるかもしれないけど」
思ったことが口に出て、聞かれて、真面目に回答されてしまった。
更衣室から出ると、体をほぐしておくようにと言われた。自分の道衣姿を自分で見たいと思った私は鏡の前に来た。紺袴も、紺足袋もなかなかいい。帯は、白いけど、すぐに黒帯になるからね。
ほぐすと言えば、前屈とアキレス腱。あれ? 観察されている。ほぐせと言われて、ほぐしているのに何か間違えたかなと思ったら指摘された。
「学校で、そういう風に習っている?」
「はい」
「昔は、それで良かったけれど、今は、反動をつけると筋が縮まって逆効果だから、伸ばした状態で止めるのが正しいやり方だと言われているよ」
「そうなんですか」
「あと、ストレッチには、ゆったりした静的ストレッチ、体をならす動的ストレッチがあって、運動前は動的ストレッチの方がいいと言われている」
そうこう話していると、道場生が来始めた。
「こんにちは」
「こんにちは」
大人の女性が多い。耳に入って来る会話によれば、夕食が早い家では、夕食を作ってから来て、夕食が遅い家では、帰宅してから作るらしい。
「おや、可愛い子がいるね」
「宗家のお孫さんですよ」
「里山辺夏渚です。よろしくお願いします」
「私は近所でラーメン屋をしている沼田。夏渚ちゃんはお孫さんだから始めたのかな?」
ラーメン屋? 近所にラーメン屋は1軒しかない。世間は狭過ぎる。グローブのプレゼントを貰いに行きたかったけれど、父に断られ、母に道衣がいいだろうと、道場に連れて来られたなどと言えない。一連の経緯を知る者は、ここにはいない。私は母に連れて来られた事実だけを伝えた。
「もしかして噂の宗家のお孫さん?」
おじさんがやって来た。高校生の惣社さん、ラーメン屋の若奥さん、小2の私の会話におじさんが入って来るとは・・と思ったら、大学生だそうだ。だが、それは仕方がない。小学生にとっては中学生でも大人に見えるし、大学生は大人みたいなものだ。大学生が大人でも、おじさんというのは飛躍し過ぎかもしれないが、無精髭と少し出たお腹は、大学生のイメージから大きく外れる。
他にも自己紹介をした。中学生の息子がいる女性。部活をしていないし、エスカレーターで高校受験がないから、ここに来るように誘ったが、「一緒にやれるか!」と断られたらしい。20歳サバを読んでも通用しそうな60代の元看護師の女性。具体的な年齢は聞かないでという20代のフリーター女性など。だが、名前を覚えきれない。転校生が来たら、その子の名前を覚えるのは簡単でも、自分が転校したら、クラスの子全員の名前を覚えるのが困難なのと同じだ。そもそもここでは名前を覚えなくても大丈夫。道衣に名前が刺繍されているのだから。
もうそろそろ始まるかな。早く始まるといいなと思っていたら、惣社さんから声をかけられた。
「夏渚ちゃん、『整列』をかけたら、神棚に向かって右から黒帯、茶帯、白帯の順で正座するから、一番左側に座ってね。『礼』の時には両手の人差し指と親指で三角を作って、額がそこに来るように頭を下げてね。あと、自己紹介をしてもらうから、何を言うか考えておいて」
「えっ? あ、はい、わかりました」
なんか最後に変なことを言われた。永遠に始まらないで欲しい。
小笠原気功会 師範代の惣社です。
宗家のお孫さんの夏渚ちゃんが入会しました。夏渚ちゃんは礼儀正しくおとなしい子です。
夏渚ちゃんのお母さんには、お世話になりました。今度は私が夏渚ちゃんを育てます。