8 天帝の使者
キス未遂で胸がドキドキしていて頭もひどく混乱していても、突然現れた二人が『映し世』の人間である事はすぐに解った。
何せ絵具をぶちまけたように鮮やかな緑の髪や紅い髪の持ち主達である。そんなにも色鮮やかに髪を染める染粉はこのアリアネーシャには存在しない。つまり本来『現世』の人間の色彩ではないのだ。異界の人間、としか見えない。
そしてその二人はトッティとシエルと目があったと思った瞬間、室内に現れたのである。窓すら開けず、転移してきた二人の異界人。
シエルが咄嗟に枕元の愛剣を抜き払い吠えた。騎士達に聞かせる為だろう。だが。
「『睦言の天幕』」
歌うような美しい声で、女が言った瞬間、そのギフトが展開された事が解った。それはこの部屋と他の空間を切り離すギフト。
そしてトッティには『視えて』しまった。
彼らが信じられない位の年月を生きている事も、人が本来一つずつしか持ちえないギフトを沢山持っている事も。
緑髪の男のギフトもそうだが、紅い髪の女のギフトはとてもではないが数えきれない。
嗚呼。
もし本当に『化け物』という存在がいたらきっとこんな風に美しいに違いない。
「何者ぞ!」
とりあえず『現世』の存在ではない事は解っているのでシエルは声を張り上げる。
立ち上がれずにいるトッティを背中で守りながら。
すると女は床に蹲ったままの男の尻を一発、やたら踵の高い靴で蹴り飛ばし、男から「痛ってぇー!」という唸り声を絞り上げてから優美に一礼した。
四つの王国のどの礼とも違う、胸元で腕を交差させ右足を引き跪く礼はとても敬意が込められたものであると見て取れる。
その衣服は、真紅の光沢のある布地で体の線がくっきり浮かび上がる面妖なものであったが、礼をとっている彼女からは何ら害意を感じない。誘惑するつもりもないようだ。
殺意というものはどのように消そうとしても消えない葉巻の残り香のように身に沁みつく物なのに、女からも尻をさすっている男からも、シエルへもトッティへも殺意が感じられないのである。そして不埒な思いも。
シエルは剣を下した。それが女の丁寧な礼への返答である。
「シエル・ヴィラリーカ殿」
女が銀の睫毛に縁どられた銀色の瞳を開き、シエルをはっきりと見据えながら呼んだ。
「わたくしは天帝の使者、マナ。貴方に王の器があるかどうか見定める為に参りました」
シエルがひゅっと小さく息を吸い込んだ。
トッティが初めて見る、動揺を隠しきれないシエルの姿である。真名を知る天帝の使者。
そして女は再び真っ直ぐに立ち上がると男の襟首をひっつかんで立たせて笑った。
「まぁ突然で吃驚したと思うけど宜しくー」
◆◆◆
トッティの朝は夜明けと共に始まる。
ここ一月、美しい意匠で装飾された部屋で寝起きしていたが、習慣とは恐ろしいもので「もう少し眠っていてもいいのに」というシエルの言葉にトッティは従えなかった。体内時計がセットされているのだろう。
昨日と今日とではまるで違う一日が始まる。
単調だったが五週間前、召使部屋で寝起きしていた頃の事をトッティは『懐かしい、な』、そう思った。
皆が皆、一日の仕事に取り掛かろうとする熱意は凄まじいもので、それはこのレプリオール伯爵家への忠誠の証でもあった。
トッティは第一の主人が変わってからは、かつて伯爵夫妻を一番に考えていた頃と同じだけの、否、それ以上の熱意でシエルに仕えていた。
『忌み児』であるトッティを普通の人間と同じく大事にしてくれるのはシエルもレプリオール伯爵夫妻も変わらない。どれ程感謝していたかしれない。雇い主たる彼らが当たり前の人として接してくれるからトッティはトッティでいられる。
しかし、かつてトッティは朋輩らとは違う意識で仕事をしていた。齢十五の召使として相応しい仕事をした。決して怠けたりしなかった。仕事が出来ぬ召使として伯爵夫妻に覚えられるのは嫌だった。だが、自分が他者より抜きん出る事もトッティは恐れた。目立ってはいけない。地味に地味に。
そう思っていたトッティが自分の生き方を変えたのはシエルの存在が大きい。
何故シエル付きの召使に自分が選ばれたのか、トッティには未だに解らなかったし、『自分が何故』と思う日々も多かったが、シエルの召使として、そして彼の側近として相応しくありたいと思った時に、地味でありたいという考え方を捨てた。
だが、それにしても何故こんな事になってしまったのか、トッティには理解出来ない。
トッティは溜息を吐いた。
この部屋を与えられてからというものの朝起きた瞬間思う事は『何故あたしが』という事であったが今朝もそう思ってしまった。
自分より美しく気が利いて仕事が出来る召使は朋輩達の中に掃いて捨てる程いたものだから。昨日とてつもなく厄介な『とある客人』が来てからは尚の事考えさせられたが余りその事について考えている暇はなかった。
トッティは夜明けを知らせる鐘楼の音で目覚めるサリエに、彼女が眠っている間の状況を説明するという大任を負っているのだった。
四人の騎士達には簡潔に、レプリオール伯爵夫妻には出来得る限り丁寧に昨日の夕刻、事情を話した。シエルとトッティ、マナとラグーシャという目立つ面々であったが色鮮やかな後者は、人目につかないようにギフトを使い姿を隠していた。シエルの姿も隠してくれたなら良いのにと密かにトッティは思ったが、シエルは青硝子の眼鏡をかけてなるべく目立たないようにと本館を訪れ事情を話した。
マナが真実、天帝の使いであることは彼女の印章指輪が物語っていた。月と太陽の意匠の指輪は天帝の放った不可思議な力により、新たに作ることができないのだ。無理に指輪に月と太陽の彫刻を施そうとすると、冗談ではなくその職人は天に召される。金と白金のたった二つしかないと言われている指輪の内、白金の指輪をマナは右手の中指にはめていた。
そしてマナとラグーシャはレプリオール家の客人となった。
離れの二階にある、使者を迎える為の部屋を与えられた。最初、シエルは自分の部屋を明け渡すつもりだったがマナがあっさり断ったのだ。
「あたしゃあんまり派手派手しい部屋は苦手なんだよ」
すっかり普段の言葉遣いに戻ったマナだったがそれで彼女の威厳が損なわれることはなかった。レプリオール伯爵夫妻もその乱暴な言葉遣いに心証を害した様子はない。
ただ、サーヤは尋ねる。
「今までシエルの許にいらっしゃらなかったのは、レイのことをご覧になっていたからですか?」
マナはからからと笑った。
「あれは駄目だね。なまじ外見に自信があった為に醜くなった自分を受け入れられない。人にその異形を晒す事を心から恐れている。あの子に王の器はないよ。水鏡に映るあの子は鏡を見つめてはその鏡を叩き割るという事を繰り返していた。あたしが器量を確かめに行く必要もないさね」
甥の事を嗤われたサーヤは複雑な気分になった。確かにレイはナルシストで困ったものだと思ってはいたが、自分が思うのと他人が思うのとでは全然違う。
微かに眉を寄せた妻を見て、ジンは慌てて言葉を探した。
「では、マナ様。シエル様には資格があると思ってらっしゃるのですか?」
「さぁ、そこのところが解らなかったから此処に来たんじゃないか。シエル・ヴィラリーカ殿は水鏡で覗くだけでは本質を掴みきれなかった。だから実際に会ってみようと思った訳だよ。もしこの子に王の器がなかったなら、女をあてがい器量に恵まれた子供が生まれるまでカタルーシェ王には生きていてもらう。少々理を歪めてでもね」
残酷な事を、平然とマナは言った。
ラグーシャは黙ったままだ。そしてシエルもトッティも何も言えず一瞬だけ沈黙が生まれる。
「王族に生まれたものは駒ですか」
サーヤの問いにマナは頷いた。
「何のために美食を食み、豪華絢爛な衣装を纏い、国で一番柔らかな寝台で眠っていると思っているんだい? ヴィラリーカを護る為。それが為せないというのなら王族たる資格はないんだよ。あんた達はすぐ間違える。王族は護られるものではなく護る為に存在しているんだ。それ位の事を理解してくれなきゃ、千百八十七年もの間、たった一人でこの世界を見守り続けた天帝も浮かばれまいて」
サーヤは言葉を失った。
マナの言っている事と同じ事を兄が言っていたからだ。はき違えてはならないと、何度も何度も繰り返し。
だが、自分たちにも感情がある、心がある、魂がある。それをあっさりと駒と言い切るマナにサーヤは複雑な思いを抱いた。『駒』であるカタルーシェがサーヤに説いた時には感じなかった感情。
所詮他人事。だから何とでも言えるのね。
「休ませてもらってもいいかね? 『映し世』と『現世』を、お荷物を抱えて移動するのは結構大変でね」
お荷物呼ばわりされたラグーシャは柳眉を逆立てたが、伯爵夫妻としては天帝の使いの言葉を受け入れないわけにはいかない。
そして昨日のうちにマナとラグーシャは二階の続き部屋に落ち着いたのであった。
◆◆◆
「だんまり決め込んでいた俺を褒めて欲しいんだけど」
続き部屋に落ち着き、ベッドに腰を掛けるなり扉を開けて飛び込んできたラグーシャにマナは軽い頭痛を覚えた。
ラグーシャには転移能力はない。鍵をかけてしまえば良かったのだと後悔する。
「褒めてくれないなら襲うよ?」
『愚者の王』は出来もしない事を言う。襲うだけなら出来るが彼我の力量の差ははっきりしており、『気紛れ月が守護する夜の愛児』には、あっさり撃退されるのがオチだ。勿論、しっかりと痛い目を見させられた上で。
「別に黙ってろとは言わなかったからね、あたしが褒める必要性が見出せないね」
そう言った月の佳人にラグーシャは噛みつく。琥珀の瞳がいつになく真剣なのは酒を飲んでいない所為か。
「天帝がどうこうとか王の器がどうこうとか俺は聞かされていなかったんだよな。でも黙っていた。喋ったらややこしい事になりそうだったから。ここまで気を遣った俺を褒めてよ。ついでに事情を説明してくれよ。何であんたが天帝の使いなんかやっているのさ? 一体どういう理由な訳? お忍びだとしか聞かされていなかった俺としては大変理解に苦しむんだよね」
「あれこれ詮索しないという条件を付けておけば良かったねぇ。まぁ天帝とは昔馴染みでね、困っているから助けてくれと言われたら手を差し伸べない訳にはいかないだろう?」
「『映し世』の掟を忘れたのかよ。必要に迫られない限り『現世』には干渉しないって。あんた、干渉しまくりじゃん」
琥珀の瞳が剣呑な光を湛えるがマナは意に介さない。そして言い切る。
「良いんだよ。あたしが何者か忘れたのかい? あたしは『気紛れ月が守護する夜の愛児』。それ故『映し世』の掟からも自由。月神に忠実である事を求められているあたしには『映し世』の掟は反映されない」
「……狡い」
ラグーシャはそう言うとラグの上で胡坐をかいた。
「良いよ、もう。俺はあんたに従うだけだから。それより月がうっすらとしか姿を現していない真っ昼間の転移は疲れただろう? 『お荷物』付きだしな」
「随分と殊勝な事を言うねぇ。どういった風の吹き回しだい?」
実際のところマナはたいして疲れてなどいなかった。彼女の力を考えたら別にラグーシャ一人連れて転医するなどお茶の子さいさい、別にやろうと思えば生き一つ乱さず『映し世』の数多の命全て転医させることだとて可能だ。
ただ、サーヤの事を考えて引いた。
サーヤの情報も頭の中に入っている。必要な情報を仕入れずに出向くような真似はマナはしない。
王族であった彼女にとって自分の言葉はとても気に食わなく、苛立たしく、痛い言葉だろう。
解っていていった。綺麗な言葉を使おうと思えば使えるだろうが性格に合わないだけでなく、それでは誰も現実を見据えることが出来ない。
特にシエルという坊やには危機感持ってもらわないといけなかったからねぇ。
王になるかもしれないシエルの気持ちを聞いて引いたのではないのは付け加えておこう。
王になろうというものが、その現実を受け入れられずにいるならばもうどうしようもない。
王は傲慢であってはならない。
施しを受ける乞食よりもさらに謙虚でありながら誇りを守れるもの、そんな矛盾を成立させるだけの器でなければ王と認めるわけには行かない。
マナが忙しく頭を動かしているのも知らず、ラグーシャはその鮮やかな緑の髪をむしゃむしゃとかき乱しながら言った。
「惚れた女には優しいだけ。理由が解らなくても、もういいよ。俺に理解出来るかどうか解らないし」
ラグーシャの後半の言葉は一寸情けない。
だが、マナは優しい笑みを浮かべた。
ラグーシャは続ける。
「俺のギフトやトレジャーで使える物があったらこき使ってくれて良いから。連れてきてもらったんだし礼はしないとな」
「気前の良い事で」
笑みを絶やさずに口にされたマナの言葉にラグーシャは少しだけ唇を噛んだ。
俺に此処まで言わせて落ちない女なんてあんた位のものだよ、全くもう。
「兎に角疲れているんだろうから歌うよ。『展開』、祈りを力に変えて『癒しの歌』を」
胡坐をかいたまま、ラグーシャが歌い始めた。即興歌。高く低く妙なる美声。
その歌を聴きながらマナは心地良いなと思った。ラグーシャの歌を聴くのは久しぶりだ。
「よく眠れそうだ、有難う、ラグーシャ」
ベッドの上から寝息が聞こえるまで、『愚者の王』は歌い続けた。
◆◆◆
「天帝様の使い!?」
起きるなり衝撃的な事を聞かされてサリエは珍しく大きな声を出した。
サリエの部屋での事である。つくりはトッティの部屋と同じだがトッティの部屋が赤を基調に調度類がまとめられているのに対し、サリエの部屋は青が基調になっている。
ベッドから起き上がったサリエに、椅子をベッドの横に置き腰かけたトッティの、落とした爆弾。トッティらしくもなく、椅子を少々乱暴に引きずったが故に出来たラグの乱れも、普段神経質なところがあるサリエなのに、そんな事はどうでも良くなっていた。
ただ、トッティの言葉に、サリエは最初喜色を浮かべていた。
「ではシエ……シオン様の問題は解決されたのか?」
問題の解決……サリエはシエルが次代の王に選ばれたのか否かを問うている。
ここでトッティは少し迷った。
昨日、レプリオール家の書斎で離された会話の総てをかいつまんで説明すべきかどうかである。マナはかなり辛辣な言葉を連ねていた。その言葉が全くの的外れでない事はシエルやサーヤを『視て』いれば良く解った。しかし主人至上主義者であるサリエには少々……いや、大いに気に食わないことばかりかもしれない。なにせマナはシエルが王の器でなければ種馬にするといったも同然なのだから。
だが、サリエは友であり同じ側近であり、共にシエルを護らなくてはならない関係であった。
「あのね、サリエには気に食わない事かもしれないけど、よく聞いてね」
言葉を選ぶのが苦手なトッティ、嘘が吐けない正直者のトッティは出来る限り正確に昨日の夕刻の話をした。
書斎でのマナの暴言に、サリエのあまり感情の出ない顔が明らかに憤怒に染まっていくのを見て、トッティは怖くなる。マナの言っていた事は言葉を選べば正論であるのだが、しかしそれは別にして種馬扱いは酷かった。
「『展開』、『青薔薇の結界』」
呟くような声でサリエはギフトを展開した。
せめて不遜なる者たちが部屋のどこにいるのか感知したかった。部屋の間取りは頭に入っている。何処にいるかわかれば大体の事が解る筈……だったのだが。
だが、階下の続き部屋だけが感知出来ない。
「何故だ? 何故続き部屋だけ『真っ暗』なんだ? 結界内にいる筈なのに……!」
不遜なる天帝の使者に、さてどう対応してやろうかと結界を広げたサリエは息を呑む。その顔が蒼白に染まるのを見てトッティは慌てて声をかけた。
「サリエ?」
サリエは唇を噛み締めていた。ぷつりと血の球が浮くまで。その血を舐めとり、誇り高き女騎士は生まれて初めて敗北という名の苦さを味わった。
「これが力の差か……」
「サリエ! あの人達はあたし達とは違うの! 常識なんて通じやしないわ!! 昔、母さんに教わらなかった? 『映し世』にはギフトを溢れるほど持った美しい化け物が住んでいるんだって。あの人達は化け物なのよ!」
叫んだトッティは、自身の放った『化け物』という言葉に、胸が焼かれるような思いを味わった。
何故? あたし自身も、『忌み児』という名の『化け物』だから?
サリエはゆっくりと首を左右に振った。
「トッティから、例え『映し世』の人間であれ、誰かをけなす言葉は聞きたくない。だから、私は聞かなかった。そう、天帝様のご使者に無礼があってはならない。私ごときのギフトで」
後半は自分に言い聞かせるように紡がれた言葉だったが、トッティはその言葉に己を恥じた。
恥ずかしい言葉だったから、胸が火箸でも押し付けられたみたいに熱かったのかしら。
思い付き、納得してトッティは胸をさする。
「不愉快な思いさせて御免」
素直に謝ったトッティに、まだ敗北の味が舌にこびり付いているにも拘らず、サリエは笑んで見せる。
「何の事だ? 『私は何も聞いていない』」
その儚い笑顔に救われた気分で、トッティも口元に笑みを浮かべて見せた。
不意に、サリエが顔を上げた。
「シオン様が……いらっしゃる」
え? トッティが驚く。間もなく足音が聞こえてきた。大理石の象嵌細工の床を、長靴の音をわざと響かせ存在を誇示した主はサリエの部屋の扉を叩いた。
サリエの顔が真っ赤になるのにも気付かず、トッティは扉の前にすっ飛んで行ってその扉を開ける。
「有難う、トッティも此処にいたんだね、僕の頼んだ仕事は終わったかい?」
サリエに今の状況を知らせるという仕事だったらとっくに終わっている。トッティは黙って頷いた。
「サリエ、身体は大丈夫かい? 話はトッティから聞かされたと思うが少々厄介な予感がする。それで君にギフトを『展開』してもらいたいんだ」
シエルの言葉に毛布を体に巻きつけた女騎士は消えそうな声で言った。
「もう、『展開』しております……」
「声に元気がないな。やはり無理をさせ過ぎたかな。ここ数週間君は殆ど休みを取らなかった事だし」
「いえ……あの……」
サリエは更にか細い声音で言った。
「後でお部屋に参ります故お許しください。夜着しか纏っていない姿で我が君の前に出るのは流石にその……は、恥ずかしいのです」
シエルもトッティもそのあまりに女性らしい言葉に目を見開き、互いに顔を見合わせた。
サリエがそんな事を言うなんて!! と二人が驚いても無理はない。
サリエは普段、鎖帷子こそ脱ぐものの綿着を身に着けよく磨きこまれた皮の鎧を身に纏い愛剣を抱いて眠っている。
トッティの髪が腰まであるのに対し、サリエの髪は顎の下で切りそろえられていて、寝癖がつきやすいと本人はぼやいていたが実際寝癖がついている所を見たことのある人間は誰もいなかった。
何かあれば夜中であろうが明け方であろうが万全の準備の元すぐに飛び出し、シエルが厠に行くだけでも付き添っていた彼女だが、央華陽日だけは無粋な具足を脱ぎ捨てて女性らしい夜着を着ていたのである。
実はトッティの持っていた大きすぎる夜着を解いて丈を伸ばし、チクチクと針仕事に勤しみながら仕立てた『女の子らしい』夜着である。その夜着は『女の子らしい』物から久しく無縁であったサリエにはとても、可愛らしくも愛しく思えた。
しかし身にまとっている姿を見られるとなっては話は別である。いっそ一糸纏わぬ姿をさらけ出した方がマシだとサリエは真剣に思った。
「女性はデリケートな存在≪もの≫だという事を失念していたよ。じゃあ、サリエが着替えた後、二人で来てくれないか? 朝食の席には使者殿達もレプリオール伯爵夫妻も同席するからその前に話しておきたいんだ」
シエルの言葉に二人は「はい」と答える。
シエルは部屋から出ると、来た時同様派手な足音を立てて自室に戻った。
サリエは真っ青な顔色で思った。
──死んでしまいたい。
ああ、最愛の人に! 剣の主人に! 我が君に!! 自分の少女趣味を知られるなんて!!
サリエの頭上には雪雲でもかかっているかの如く、彼女の表情は陰鬱なものであった。
トッティは、少女趣味は悪くないと思う。何と言ってもサリエは女性なのだから。だが『最強の女騎士』の名を欲しいままにしてきたサリエには大き過ぎるダメージであった。
「サリエ、取り敢えず余りシオン様をお待たせするのもなんだし、着替えよう? ね? あたし、外に出ていた方がいい?」
「此処にいてくれ。今の私は自制心が利かないから、正直、自分が何をするか怖くて仕方がない」
ぼそりと呟かれる声音に、トッティは『これは本当にやばいかもしれない』と思った。
しかしサリエの意識の切り替えは早かった。
綿着をきて鎖帷子を着こみ皮鎧をその上から着こむ。愛用の剣を腰に佩き、髪に櫛を入れると表面上はいつものサリエに戻っていた。
ただ頬の血色が悪いのがトッティには心配だった。シエルが室内にいる間は真っ赤だったその頬の色は、反動だろうか。
そう思っていたらサリエは鏡台の引き出しを開けて何も言わず頬に頬紅を刷いた。
これで見た目は完璧に普段通りのサリエに戻っていた。
「ねぇサリエ、いつもその、お化粧しているの?」
ふとした疑問に、サリエは少し疲れた笑みを浮かべる。
「顔色が悪い時は頬紅を入れる。シオン様を心配させたくないからな。ブランディでも飲めば顔色など幾らでも誤魔化せるが、主君に目通り願う時に酒を飲むなど騎士にあるまじき事だし。トッティは化粧をしたいのか? 残念ながら化粧の方法を教えてやれる程顔にあれこれ塗りたくっている訳ではないので相談には乗ってやれんな」
「ううん、違うの」
トッティは枯れ草色の膝丈ドレスのスカート部分を握りしめながら、否、その下の太ももに爪を立てるようにしながらサリエの言葉を聞いていた。
サリエが大丈夫だと言えば大丈夫だと思っていたし、サリエの強さに安心していた。
本当はサリエだとて、恐らくは不安になる事があるのだろう。そしてその不安故に顔色を変える事があるのだろう。顔色の事は疲れもあるかもしれないが、だが、それだけで鏡台に頬紅を常備しておくだろうか。
いつも泰然としているこの年上の女友達に、あたしは甘えすぎていなかった?
トッティは泣きたくなった。御免なさいと言いたかった。
甘えていて御免なさい。
朱金の瞳の縁に涙が盛り上がる。
そんなトッティの顔を見てサリエは小首を傾げた。自分は何かおかしなことを言ったのだろうか? まさか本気で化粧をしたかったのだろうか? などと無防備に考える彼女の顔は十代の少女にも見えた。
その表情のまま、サリエはトッティの目の縁の涙をぬぐってやる
。
「泣くな。我が君がお待ちだ。行こう」