4 伯爵令嬢の惑乱
パルタは十六になったばかりの健康的な頬を膨らませて両親に抗議した。
「離れのお客様はどのような御方なのですか? 父様の恩人の御子息でいらっしゃるのでしょう? パルタの大事な父様の恩人の血族ならわたくしにとっても大切な方ですわ。大切な父様を助けて下さった方にわたくしはわたくしの口からお礼申しあげたいのです!」
『シオン・ヴィー』がリプレオール伯爵家の離れに身を寄せて三日が経った。
そのシオンとやらに両親が寄せる思いは並々ならぬものがあるようだ。
例えば料理一つとってもそうだ。
今まで日に三度の料理は料理長の説明が入ったものであるが、シオンが身を寄せてから説明係は副料理長に変わった。料理長はシオンの料理の最後の点検と説明をジン・リプレオールに命じられているのである。
それに麦藁の髪をした女が、離れと本館を行ったり来たりするようになった。
パルタはその女が自分の家の召使だとは気付いていない。召使のお仕着せを着ていないし、その簡素なドレスは何処となく品があったため『顔の残念な下級貴族令嬢』とパルタは見当をつけていた。シオンの妻かと思ったがパルタがシオンの話をするたびに両親は上手にはぐらかすのである。
この狸!
パルタは両親に抱くには少々不敬な感情を抱いてしまった。
それは初めての事であった。
パルタがしたいと言った事で叶えられなかった事は今までなかったからである。
大体幾ら恩人の息子だとはいえ図々しいではないかとパルタは思うのだ。パルタは王家の血を引いた令嬢なのだ。向こうから挨拶の文なり贈り物なりを用意しておくのが当然であろうとシオンの正体を知らぬ少女は思う。
パルタが両親に甘え拗ね駄々をこね、とにかく離れの客人と会わせろと訴え続けてもう一時間以上になる。
ジンは娘を宥めすかし、それも効果が無かった為、初めて彼女に怒って見せたのであるが、その途端パルタのエメラルドの瞳から涙が絶え間なく流れ出したので、もうお手上げといった状態だった。
そんな娘を同性として幾分冷静に見る事が出来るサーヤはどうしたものかと思い悩む様を見せるがパルタの知った事ではない。
トッティは誰にも『主』の話をしていない。
召使部屋の荷物の引き上げは、皆が食事を摂る為に部屋を空ける時に行った。
トッティが主やサリエら騎士達、衣装の仕立てを行った仕立屋、そして伯爵夫妻以外にこの三日口をきいたのはユミエルだけだ。だが、ユミエルにも人形の話しかしていない。
料理長らとは面識があった為、食事の時間は尼僧のように沈黙を守りぬいている。
彼女は夫妻が願った以上の逸材であった。
しかし、上記のトッティの行動を、総て夫のギフトにより把握しているサーヤは爪を噛んだ。これ以上彼の事を隠しておくのは不自然だわ。そう、秘さねばならないのは『シエル』の事であって『シオン』の事ではない。
「ねぇ貴方」
娘に泣かれておろおろしている夫の耳に、サーヤはそっと耳打ちする。その言葉を聞くなり、ジンは元気を取り戻したようだった。
「パルタ」
ジンの呼ぶ声にもパルタは敢えて答えない。
しかし次の父からの言葉にパルタは勝利を確信し頬にえくぼを刻んだ。
「今宵、離れの客人を呼んで皆で食事しようではないか」
すっかり手玉に取られた形のジンであったが、何時の時代も男親は娘には甘いのであった。それが最愛の妻の若い時に瓜二つというのならばなおの事であろう。
◆◆◆
「了解した、と叔父上叔母上に申しあげてくれないかい? ただし君と一緒だ。その条件を変える気は僕にはないよ」
食事に誘われたシエルはそう言いのけてトッティの頭痛を悪化させる。
母性本能などにうっかり釣られた自分が愚かだったのだとトッティは身に染みて思う。
十七の男が十五になったばかりの少女にべったり依存している。
それ自体が嫌なのではない。愛しい男だ。自分の言葉振る舞いで幸不幸が決まるのなら幸せにしたいに決まっている。
だが、今度は酷く嫌な予感がした。何故だろう。その所為か酷く頭痛がする。風邪でも引いたのだろうか。何とかしてシエルに一人でレプリオール家の正餐には出て貰いたい。
しかしシエルはこうのたまう。
「淑女をエスコートせずに行く正餐の席なんて嫌だね」
「ならサリエは如何です?」
良い事を思いついたと言わんばかりにトッティは言った。サリエなら取り敢えず、自分は騎士でありうんたらかんたらと断りを入れるだろうが、最後には引き受けるだろう。そしてシエルにエスコートされるのを最高の喜びとする筈だ。それに彼女は美しい。鳶色の髪に翡翠の瞳の彼女は化粧をすれば化ける女であることが同性であるトッティには解ってしまう。
しかしシエルは一蹴する。
「賭けてもいいよ、サリエを伴った場合、エスコートされるのは『僕』だ。鎖帷子の上に飾り気のない皮の鎧を纏って、招待者への礼儀を無視してしっかりと帯剣して。僕はエスコートするのは好きだがされるのはご免だね」
ぐっと、トッティは詰まった。
確かに。愛情豊かな光を瞳に宿しつつ寡黙かつ主人至上主義のサリエならば、そうするかもしれない。いや、する。きっとする。
ずきずきする頭を抱え、トッティは溜息を吐いた。
彼女は気付いていないが頭痛の原因は二つあった。
一つは幼い頃から仕事に明け暮れてきたのに、今はろくに仕事する事すら出来ないという現実に疲れているのだ。働いている方が身体が快調であるという事などは誰しも覚えた事があるのではなかろうか。
もう一つはシエルが『シオン』ではなく『シエル』である事を知っていることを誰にも気取られることなきよう、そしてレプリオール家の邸内にシエルが匿われていることが万が一にも外に漏れる事の無いよう、常に気を張り詰めているからである。
サリエや他の騎士と話す時もトッティはシエルの事をシオンと呼んだ。彼らもそれを当たり前のことと受け止めている。
疲れた。
まだ三日しか経っていないのに。
大体初日からしてシエルは酷かった。自分に服を見繕えと言った癖に、仕立屋が五人も針子を連れてきたのを見るや否や、自分の服は殆ど既製品で済ませてしまい、新たに仕立てさせたのはたったの二着で、シエルは一応トッティにこれでいいかと尋ねはしたが、殆ど決定事項だった。決して華美ではないし流行のものではないが、質と品は良かった。目利きでないトッティにもそれは解ったので、はいはいと流されていたらいつの間にか自分が採寸されていた。
「君を召使として扱う気は僕にはないよ。戦友として扱うと言っただろう? 戦友なら僕と同格だ」
そしてシエルは仕立屋の掌に山盛りの硬貨を積んだ。銅貨ならお話にならないが銀貨なら三分の一は返さなくてはならない量だった。そしてそれは事もあろうに金貨だった。仕立屋とその針子たちは持ち込んだ布地と格闘する羽目になる。店に戻って仕立てて届けてという手間が面倒だと言ったシエルの言葉に従いその場で縫物を始めたのだ。トッティは「あたしは要りません」と言ったのに。
シヴァリス金貨への欲が仕立屋達に、常の仕事に比べその三倍の速さを可能とした。
そして昨日の夕方出来上がったドレスは六着。針子に命じて縫わせたドレスは悔しい事にトッティの趣味にぴたりとあった。一日と少しでよくこれだけ仕立てられたものだ。横から覗き込みながら注文という嘴を入れるシエルがいるのに本当にご苦労様である。
飾りっ気のあまりない、だがよく見ればとても手の込んだ膝下の品のいいドレス。
だが仕立屋の女主人が直々に縫ったドレスは、成人の十六を迎えていないトッティが着るにはぎりぎりまで丈を長くした豪奢な物であった。蜂蜜色の姫袖のそのドレスはたっぷりとしたレースやフリル、リボン、タックなどがあしらわれ仕立屋としては最高の仕事をしたドレスとなっていた。でも。
あたしが着るには贅沢すぎるわ。
それは本音ではない。
本音は。
きっと道化のように見えるでしょうよ。
自分の容貌にはコンプレックスしか抱いていないトッティには、そのドレスは到底自分には似合わないものだと思えてしまうのだ。
それなのに。
「さぁ、早く叔父上と叔母上に伝言を。戻ってきたら着替えなくてはならないんだから急いで」
訳の解らない事を言うシエルにトッティはドレスの裾を摘み上げて見せた。
「どこも汚れていないと思いますが」
「正式な正餐の招待なんだから君は『あの』ドレスを着るべきだ。コルセットの紐を締めるのはサリエに任せておけば問題ない」
「『あの』、ドレスですか」
トッティの頭痛の原因が三つに増えた。
◆◆◆
正餐が始まる十九時になる十五分前、『シオン・ヴィー』がトッティをエスコートして正餐の間に現れた。
その時のパルタの驚きは筆舌に尽くし難いものがあった。
神の御使いだわ。
シエルを見たパルタが最初に心の中で言葉として組み立てる事が出来たのはそれだった。
シエルは今宵、青硝子の眼鏡をしていない。
柘榴色の瞳をさらしたままである。
トッティに、例のドレスをどうしても着ろというのなら彼も眼鏡を外すべきだとか、全く理由になっていない言葉をぶつけられたシエルだが最初から眼鏡を外して正餐の席に現れるつもりであった。
叔母であるサーヤがこの目を厭わないのは有難い事だ。叔父であるジンが赤い瞳を内心どう思っているのかは知る由がないが大人である事もこれまた有難い事だ。
だが、トッティに聞く限り癇性のパルタ・レプリオールには是非とも嫌われておきたかった。変に気に入られて夜会等の招待をしてくるようになったら厄介だ。万が一自分の顔を見知っている者に見つかっては大変である。自分だけでなくレプリオール家にまで迷惑をかける事になる。
今日も雪が音も無く降っており丁度トッティの脹脛の一番太い所位まで雪が積もっているが富裕なレプリオール家では薪を惜しむことをしない。シエルはほっとした。トッティに無理やり着せたドレスでは寒いのではないかと窓から雪景色を見て思ったものだから。
優しい視線をトッティに向け、その次に彼は招待主たるジンに大仰にお辞儀して見せた。
トッティも普段より裾の長いドレスをつまんでお辞儀する。だが笑顔は引きつっていた。
御主人様も奥様もきっと呆れてらっしゃるに違いないわ。召使がこんな恰好をするなんて身の程知らずな。
トッティは泣きたい気分であった。
シエルに逆らえるなら逆らいたかった。ドレスよりも着慣れた侍女のお仕着せが心の底から恋しい。
しかし彼女は泣かない。控えめな微笑を浮かべつつ、『シエルがエスコートする女性』に出来得る限り相応しくありたいと願い、その思いのまま行動する。
呆れられてもいい。
それはトッティが初めて抱いた感情。
だが、伯爵夫妻がトッティに向けるのは讃嘆の視線であった。
嗚呼トッティ。哀れなトッティ。愚かなトッティ。鏡を、自分が不潔か否か、見苦しくないか否かといった判断基準にしか用いた事の無い馬鹿なトッティ。
初めて覚えた恋は、彼女を驚く程美しく見せていた。
髪の毛こそ麦藁色だがそれもまた秋の実りである麦の穂を思わせて美しい。前髪だけを上げたポンパドールは彼女の麦藁髪のもつ癖の強さを目立たなくさせている。微かに日焼けした肌は健康的で活き活きとして見えた。朱金の瞳は微かに愁いを帯び、それがトッティを大人の女に見せる。何物も彼女の美質を損なう事はなかった。
蜂蜜色のドレスも驚く程手が込んでいるのにちっとも嫌味ではない。そのドレスの見立てもさながら、たった三日間で、まだ蕾ですらなかったトッティを花開かせんとしているシエルの手腕に夫婦は驚きを禁じ得ない。
トッティを見ていないのはパルタだけだ。
パルタだけは吸い付く様にシエルを見ていた。
その次に、シエルはサーヤの手を取った。
押し戴く様に唇をつける。
パルタの胸は否が応にも高鳴った。
父様と母様にお辞儀なさったわ。次はわたくしの番! 父様の恩人の息子と聞いていたからどんな男が出てくるのかと思ったらわたくしと年は殆ど変わらないのではなくて? ああ、わたくしの番よ!! わたくしの手の甲にキスをするの。長手袋なんか嵌めるんじゃなかったわ。見知らぬ男の唾液など手の甲につけたくなかったのだけれども、でも、ああ、あの方ならキスしてくださって構わないわ。わたくし、ちっとも嫌じゃないわ。でもどうして?
パルタは不思議さに胸を支配される。
幼い頃から今まで、父か伯父たる国王しか選ぶに値する男はいないと思っていた。父や伯父とは結婚できないと知った時はこっそりと泣いたものだった。この世界に他に残された男の中に、自分に相応しい男がいるようには思えなかった。皆、萎んだ風船よりみっともなく価値がなかった。
だが彼は……!!
「初めまして。パルタ・レプリオール嬢。シオン・ヴィーです。お見知りおきを」
シエルはそっとパルタの手を取った。
ああ、いよいよだわ!!
感極まる伯爵令嬢の手の甲に、しかしシエルはキスをしなかった。ただ両手で挟み込むようにして、それから放す。
「こんなにも美しい姫君の手の甲に接吻したとあっては、僕は恋のライバル達に命を狙われてしまう事でしょう。それに未婚であられるパルタ嬢の手の甲に長々と唇を押し付けては大切な人である伯爵に睨まれてしまいます」
「あ……」
パルタは手を伸ばしかけ、ぎりぎりのところで淑女の嗜みを思い出した。
淑女たる者、後を追ってはならず。後を追わせるべし。
「シオン、私はそんな心の狭い父親ではないよ」
そう言ってジンは笑うがパルタの手が再び握られることはなかった。
シエルの黒い天鵞絨の上着も真っ白なクラヴァットも、シミ一つない絹のシャツも、紅のサッシュも、そしてさり気なく主張するハンカチーフも、彼を彩るすべてがパルタの目を奪おうとする。
しかし、それらはたかだかモノだと言い聞かせたら何とでもなるだろう。だが、シオンの柘榴の瞳には……どうしてか解らぬ程惹かれる。異性をじろじろと眺め回すのは淑女としては宜しくない。だが見ていたいと魂が訴えるのだ。
その時、漸くパルタの瞳にトッティが映った。
離れと両親の部屋を行き来していた女だ、とパルタは気付く。地味なドレスを着ていた時は少しばかり顔が残念に見えたものだが、馬子にも衣装というべきか、今の彼女は美しかった。
わたくしの方が美しい、だけど。
そう、如何にトッティが美しくなったと言っても恋を知ってまだ三日、酸いも甘いも味わい尽くして大輪の花として開くには未だ時が必要だった。
そう、美しい両親のもとに生まれた、生まれながらの美姫と比べるには未だ時が必要。
だが、同性を睨むように見つめるパルタはふと気づいてしまう。
追いつかれるわ。追い抜かれるわ。その娘は放っておいたらわたくしより、美しくなるわ。
時間となり執事がそれぞれの席へ座るよう促す。料理を一番美味しい時に提供する為。
先刻から良い匂いがしているのに、食いしん坊のパルタが、その事にも気づかなかった。
そしてパルタは、生まれて初めて大好物の子牛のステーキを残したのである。