3 暖炉の前で
ぴちぴちと鳥の啼く声でトッティは目覚めた。頭の下には客室の羽毛の枕ではなく、一見ペンしか持てない位に華奢に見え、その実獣の様にしなやかな筋肉に覆われた腕があった。
ちょっと待って、え? この状況は……? あれ? ええ?
毛布と布団をかぶっている事にもトッティは驚いた。暖炉の火はとうに消えている。この分厚くて暖かい毛布と羽毛たっぷりの布団がなかったなら凍え死んでいたかもしれないと、トッティは怖くなった。
凍え死んでいたかもと思ったことも怖かったし今の状態も叫びだしたいくらい怖くて堪らないのだが、悲鳴を飲み込んで自分が寄り添っていた相手を見やる。
「シエル様……?」
身体を起こしてトッティは声をかけた。
お風邪でも召されていたらどうしよう!
不安に思った瞬間のこと。
ぱちり、と、シエルの柘榴色の瞳が瞬いた。
「おはよう、トッティ」
声は枯れてもいなければ鼻声でもなかった。
その事に安堵しつつもトッティは何故自分が事もあろうにこの国の第四王子の腕枕で眠っていたのか理解出来ない。衣服に乱れはなく体のどこも痛くない。シエルの告白を聞きながら体を任せたわけではない事がトッティにも漸く納得出来、こっそりと溜息を吐く。しかし今度は不敬を問われるのが怖い。
ヴィラリーカの第四王子。
その言葉は絶対に嘘ではない。
単純にトッティには『視える』だけではなく、それ以前の問題だ。
この世界、アリアネーシャに国は四つ、王家も四つ。
王は天帝に承認されるものであり、王族もまた特別な庇護下にある。
この世界の言霊は、いや、理は、王族であるという『詐称』を許さない。
王族でないものは、どんな存在であれど王族を名乗る事は出来ないのだ。
だから、言霊に命を奪われることなく当たり前のように名乗ったシエルはヴィラリーカの王族であるとしか言えない。
昨夜話を聞きながら、愛しては駄目だと思った理由がトッティには理解できた。
シエルは自分を愛さない。
百万分の一の可能性にかけてみても、ただの召使にシエルは先程述べた戦友として以外の価値を見出さないであろう。仮にトッティ自身がどれ程美しかったとしても。
血筋というものを王族はとても大切にする。
サーヤと新興貴族であるジンの婚姻の際ですら揉めに揉めたのだ。サーヤが『この恋が叶わぬというのなら命など要りませぬ』と宣言し、王城の天守から飛び降りようとしなければ婚姻は叶わなかったであろう。サーヤの本気に周囲は敗北を喫したのだ。
そうでなければ今のレプリオール伯爵夫人はいない。
貴血を守ってきたヴィラリーカ王家。
それに、本気でなくても良い、ただ思い出をと望んでもシエルがただの遊びで女を選ぶ男ではない事もトッティには解ってしまった。だから彼女は気紛れすら期待できないのだ。
そしてその戦友としての立場、それすらも危うい。
トッティに何ら価値がないとシエルが思った瞬間、戦友や側近といった言葉は表面上の言葉だけになってしまう。
何も『視えなければ』戯れ位は望めたのだろうか。
考えるだけ詮無い事であるけれど。
でも、愛は見返りを求めるものではないと奥様は仰っていたわ。初めてあの瞳を見た時、あたしは囚われてしまっていたけれども、でも王子様だとは知らなくとも、相応の身分の方である事は解っていた筈よ。なら、辛くともシエル様の愛を期待せずにただ彼を愛そう。
しかし昨夜は奇跡が起きたのだろうか。あたしがシエル様の腕枕で眠っていたなんて。
昨夜の記憶を一生懸命掘り返して、トッティは思い出す。
ぱちぱちと爆ぜる暖炉の前のラグに直座りして二人は互いを見つめ合っていた。
まさか王子様だなんて。トッティの短い生涯でこれ程までに驚いた事はない。
しかもそれは絶対的な真実なのだ。この世界の理を考えても疑う余地はないのにトッティの朱金の瞳は駄目押しのように真実だという事を『視せて』『識らせて』くる。
しかしそんな事はどうでもいい。
トッティの恋する人、王子の身分を明かしたシエル、しかしその柘榴色の瞳は何処までも優しくトッティを見つめたのだ。そして彼は問う。
「トッティ、第四王子というとどういうイメージがある?」
「白馬に乗った王子様?」
トッティはとっさにそう答えていた。彼女はその年齢にしては理想が子供っぽ過ぎるところがあり朋輩の笑いの種になっていた。また子供っぽい事を言ってシエルにも呆れられると頬を真っ赤に染めたトッティの前で何処か遠い所を見るようにシエルは言葉を紡ぐ。
「白馬も鹿毛も斑も、馬は沢山持っていたね。お金はあるから馬を育てて王立競馬場にて競わせるんだ。勝つ事もあれば負ける事もある。勝てばとんでもない大金が転がり込むから全部本代にした。僕は所謂本の虫と言う奴だったんだ。父上は咎めたりなさらなかった。嫡子と言っても第四王子は王位には余りに遠いからと自由にさせてくださったよ。ところで王家を襲った恐るべき災厄の話を、トッティ、君は知っているかい?」
トッティは首を左右に振った。
レプリオール家はヴィラリーカでも南の方の領地を所有している。レプリオール領サヴァンカはまだ雪害の少ない土地で、王都がある北のユーカラルとは随分離れていた。
それでも公務の合間を抜け出し妹が可愛くて仕方のない国王カタルーシェは時折このサヴァンカを訪れたものだった。
ジンとサーヤは伯爵家の務めを果たす為にしょっちゅうユーカラルを訪れてはいたがカタルーシェには妹と語る時間が余りにも少なく思えたのだという。
それでもカタルーシェは一日滞在出来たら良い方だった。公務は片付けても片付けてもうず高く山積し、すぐに王都へと戻らねばならなかった。王都とサヴァンカは早馬で片道四日と離れている。その距離故に、ユーカラルの流行や事件は、時として人々の伝聞よりカタルーシェが伝える方が早くサヴァンカに届くという事もままあった。
「それはお聞きしても宜しい事でしょうか?」
問いながらトッティの身体に予感のようなものが走った。
聞いたら逃れられない。
災厄から逃れる為にシエルはこの地に来たのであろうか。
しかし彼はこうも言った。『着の身着のままで』。災厄から逃れる為に馬を急かすとしても着替えや最低限の持ち物の準備位出来た筈だ。普通の状況ならば。
そして供はたったの五人。
王族の供としては少なすぎる。
少なくとも王であるカタルーシェの供の数は結構な数だった。それとも階下にいる者が総てではないのであろうか。王ではなく王子であれば王と同じと物数ではないのは理解できるのだが、やはり五人という数を思うと『たった』という言葉を思い浮かべてしまう。
しかしその五人は皆体重と同じだけの黄金と同じ価値があるだろう。トッティの目にははっきりと『視えた』。
彼らが素晴らしいギフトに祝福され、そしてそれに慢心せずに鍛錬を重ねた、強く、忠誠心厚い騎士達だと。
何か変だ。
そう思ったがトッティは延々疑問を抱き続けなくて済んだ。
シエルがあっさりと答えをくれたからだ。
「体中に膿を持った腫物が出来る病が王家を襲ってね、父上はご無事だった。しかし、僕以外の王子、兄上達はすべてこの病にかかり、第一王子と第二王子は儚くなられた。第三王子であるすぐ上の兄上は命を取り留められたものの腫物の痕でお顔もお身体も醜く変形なされた」
トッティは息を呑む。
第一王子と第二王子の死は噂にすらなっていない。幾らサヴァンカとユーカラルの間に距離があろうとそんな重大事なら噂は千里を駆ける筈だ。
つまり、秘匿されているのだろう。
それは恐らく王家の最重要機密だ。
伯爵夫妻が自分に何の説明もしなかった事も、シエルの事を外様に漏らす事ならずと固く命じられたのも、それなら納得出来る。
「さて、僕に急に玉座が近づいてきたという訳さ。繰り返すが第三王子、レイ兄上のお顔もお身体もそれは酷く病の跡を残していた。それよりは見た目がそのままの僕を担ぎ出そうとする一派が現れた。レイ兄上は僕に王位を継いでくれと頼まれたけれども、僕は嫌だった。そういうのにね、僕は向いていないんだよ。けれどレイ兄上にも僕にもどうしようもない貴族達の動きがあった。兄上を持ち上げる者と僕を担ぐ者達とが暫し対立を見せるようになってね、僕はまずいと感じたんだけど、どう動いていいのか解らなかった。馬鹿だよね。でも、それ位今まで玉座は遠かったんだ。そうこうしている内にレイ兄上を玉座に押す者達に──命をとられかけた」
びくん、と、トッティの身体がはねた。
この方にとって玉座などどうでもいいのに、そう『視える』のに!
シエルは何処か他人事のように語り続ける。一見、いや、一聴、少し面白げにすら聞こえる口調は彼の抱える苦悩故なのだろう。
「暗殺者の集団三十人を返り討ちにしてくれたのが階下の五人という訳さ。彼らの中に女性が混じっていただろう? 彼女も僕が女扱いしない戦友だよ。サリエといってね、明日から左隣の部屋を彼女に詰めさせていいかな? ああ見えて怖い女でね、暗殺者集団三十人の内十七人を叩き切ったのがそのサリエなんだ。彼女も僕の側近だ、仲良くしてくれると嬉しい」
「解りました」
澱みなく、トッティは答えた。
声が震えなかったのは何故だろう。
トッティにとって今まで全く馴染みのない世界の事を聞かされているのに、何故かそれを受け止めている自分がいるのが不思議だ。
シエルの言葉を頭の中で反芻しながらサリエという女騎士を思い浮かべる。
女の身でありながら騎士であるという事は珍しいことだ、皮鎧を着こんだその女騎士の面影は、何の苦労もなく思い出せた。
サリエは夜闇の中で見ただけだが独特の美貌を持っていた。パルタが誰にでも愛される薔薇だとしたらサリエは野の花だ。力強い生命力、だが気を付けてみないとその美質は見落とされてしまうだろう。そんな危うい美質は、しかし温室の中で育った薔薇より強いのかもしれない。
十七人もの暗殺者を切り伏せた側近。
自分などより余程役に立つ。自分にできるのは召使としての仕事だけだ、と、ふと恐ろしい事に気づいてトッティは言葉を失った。
明日からのお食事はどうすれば良いのかしら? 配膳所から運ぶ? 何と言って? それにお洋服。このままガウン姿のままで良い訳がないわ。まさに着の身着のままでこのサヴァンカに訪れられたのであれば服を仕立てさせねば。だけど、シエル様の秘密が漏れぬように、どうやって?
シエルはトッティの顔が蒼白になっている事に気づかず、何でもない事のように言った。
「父上に文を書いて、ヴィラリーカの次代の王を天帝に定めていただくことにした。答えが出るまで安全な場所に隠れていようと叔母上とレプリオール伯爵を頼ったんだ」
その時、扉を叩く音がした。トッティが応えを返す前にシエルが言葉を発する。
「誰だい?」
「サリエに御座います」
つい先程噂にした女性が扉を叩いた事にトッティは驚いた。まさに噂をすれば影だ。
「用件は?」
「たった今レプリオール伯爵夫人から文が届きました。『シオン様』とフィルーン嬢あてでございます」
「承ります」
トッティは慌ててラグから立ち上がった。扉に向かい、それを押し開けると廊下の明かりに照らされた鳶色の髪の女騎士が彼女を認め、白檀の文箱を持って跪いた。彼女の手はトッティにその文箱を差し出していたが、その瞳は主人たるシエルだけを見ていた。
「確かに受け取りまして御座います」
トッティはそう言うと文箱を頭上より微かに高く持ち上げ左足を一歩引いて一礼した。サーヤへの礼を示したのだ。
「サリエ、下がっていいよ。トッティ、私にも見せておくれ」
呆気なく追い払われたサリエであったが、トッティは彼女の瞳に深い愛情を見た。『視た』のではなく同じ思いを持つ故に自然に見えてしまったのだ。シエルに向かって伸びる愛情を。
貴女も可哀想な人。
勘違いならいいのにと思うが、とても分かりやすい、分かりやすすぎる愛情がサリエの瞳に湛えられていた。
誰もが気付くのではなかろうか。その、『誰も』の中には思いを寄せられているシエルも例外ではなくいるだろう。
トッティはそう思った。
サリエは一礼するとその場を去った。
冷気が入ってくるので、トッティはすぐさま扉を閉め、シエルの足元に戻ってくる。そして跪くと彼女はシエルに文箱を渡した。そのまま、彼女は立ち上がる。さっきまでは何故平気だったのだろう。仮にも王子様と同じラグに腰掛けるなどと。
しかしシエルはトッティのそんな戸惑いを見抜いてしまう。ぽんぽんと自分の隣部分を叩いて言った。
「お座り、トッティ。一緒に読もう」
言いながらシエルの白くて骨ばった手は桜色の組紐を解いていく。トッティはほんの少しだけ喜びを感じ、そしていたたまれなさを共に感じながらも、シエルが叩いた場所に腰掛けた。
だってこれは命令。あたしには逆らえない。
召使の身で王子様に逆らえるはずがないじゃない。
手紙には『レプリオール伯爵の恩人の子、シオン・ヴィー』の明日の、否、日付は恐らくとうに変わっているだろうから今日のスケジュールが、事細かに書き記されていた。
朝、九時に軽食を饗する為に、料理人がシエルとトッティの分の食事を運んでくるという事だった。それだけではない。昼の十二時には午餐の準備を、夜の十九時には正餐の準備を、それぞれ料理長がするとの事であった。シエルとトッティ二人分である。
そして十四時には仕立屋が離れを訪れるだろうので『シオン・ヴィー』として恥ずかしくない衣服を整えるようにとあった。
トッティは手紙を何度も読み返す。
あたしの仕事は何処?
あたしの『召使』としての役割は何処にあるの!?
食事の事も、衣服の事も、取り敢えずは心配なくなった。だが、料理の配膳まで料理長や料理人がしてくれると書いてあるのだ。これではトッティがシエルに仕える意味が何処にあるというのか。
瞳を潤ませたトッティの、その涙の理由を聞き、麦藁髪をシエルはそっと撫でた。
「君の意味はちゃんとあるよ。僕が弱音を吐ける場所を叔父上叔母上は与えて下さったのだと思う。皆が心配するからね、いつも笑ってなければならなかったんだけれども、不思議だね、君の朱金の瞳を見ていると総て見透かされているようで何も演技する必要がないような気がするんだ。供の者達は信頼出来るけれども、既に天帝の勅命が、僕が王位を継ぐものだと下されたかのごとく扱うから、少し疲れる。甘える事が出来ない。甘えようとしたら厳しくいなされてしまうし、僕にも見栄があるからね、そうそう弱音も吐けない。でも君は不思議だね。会ったばかりだというのに側近として仕えて欲しいと真剣に思うよ。とりあえず我が側近殿の最初の仕事は明日、服を見繕ってくれる事かな」
ころん、とシエルはラグの上に転がった。その王族とも思えぬ不作法さにトッティは吃驚するが、窘めない。窘めるのは階下の騎士達や他に仕える者達の役目だ。
あたしは、あたしだけはこの方を甘やかせて差し上げなくては。
「笑うかもしれないけれどもトッティ、僕は怖いんだ。僕は王の器などではない」
思い出した。トッティは総て思い出した。
弱音を吐く王子が愛しくて彼女は不遜にも許しも得ずにシエルに触れたのだ。その銀の髪をかきあげながら囁いたのだ。
「天帝様なら真実を見抜かれましょう。その責を負う力に欠けた者を王に選んだりなさいません。選ばれたなら、それはシエル様が王に相応しいという事です」
何故そんなことが言えたのであろう。ただ口にした時は気休めではなく確信として言葉にしていた。
その言葉を聞いた時、シエルは十五になったばかりの彼女に庇護欲を掻き立てさせるような幼い表情をしたのである。
シエルはトッティの指が髪を梳くに任せ、目を閉じた。
命をとられかけて、そのままにサヴァンカに身を隠すことを決めてから彼の心はどれ程張りつめていたことであろう。
召使の仕事も出来ないあたしにそれでも意味があると言って下さった王子様。
慰めている内に自然とトッティはシエルの腕の中に納まっていたのだった。
性的な意味合いが全くないその抱擁は、母親とそれに甘える子供のようなもので。
しかし、トッティは満足だった。
あたしは今、確実にシエル様を護って差し上げている。
この護り方は剣を振りかざす事の様に解りやすい方法ではないけれども。
途中で暖炉の火が消えて寒くなったトッティは腕を伸ばし毛布と布団を寝台から引き摺り下ろした。シエルは既に眠っておりそして彼の腕に拘束されたトッティが動ける範囲は限られていたが、体の上に乗せた寝具を器用に足で蹴りながら身体の上に沿うようにそれらを整えた。そうだ、全部思い出した。
「どうしたんだい? トッティ」
シエルの言葉にトッティは過去に飛ばしていた心を慌てて今に引き戻した。
「いえ、誠に申し訳ありません、シエル様。御前で心を飛ばしていた事、そして昨夜の振る舞い。いつの間にか、その……シエル様の腕を枕にしていただなんて」
「僕は、嬉しかったよ」
シエルは言った。
「僕は、嬉しかった」
シエルは更に言葉を重ねる。そうする事でトッティの心に自分の思いをしみこませようとでもするかのように。
トッティは幸せだった。
柘榴の瞳に嘘偽りはなく、心から彼女にその言葉を投げかけているのが解って。
その時、俄然階下が賑やかになった。
料理人達が料理を運んできたのだ。
慌てて二人はシエルにあてがわれた部屋に向かい、料理人達を待ち受けた。
シエルは机の上に置いてあった青い硝子の眼鏡をかける。視力が弱かったのかと問えばシエルはまた母性本能をくすぐる眼差しでトッティを見た。
「僕もある意味『忌み児』なのだよ。この赤い目が禍々しいと言われてね」
青い硝子は、柘榴の瞳を紫色に見せた。