2 忌み子の初恋
「そなたを捨てるつもりはない。そなたを失うのは我が家にとってとてつもない損失だ。今まで通り私達の命令にも従ってもらうよ、ただ彼からの真逆の命令が出たらそちらを優先してほしいんだ。彼は私達の大事な……そう、息子のような存在だから。それから彼の夜伽をする必要はないよ。彼もその辺りは弁えているだろうしね。だから心配する必要はない。ただ彼には守らねばならない様々な秘密があるから仕える者は厳選したいのだよ。とりあえずはそなただ、トッティ。そなたには彼と共に離れで生活してもらう。これは命令だよ」
トッティの身体がカタカタと震えた。
クビを切られた訳でもなければ捨てられたわけでもなく夜伽の相手にとされた訳でもないというのに。
それなのに何故か震えが止まらなかった。
しかしこの震えを気取られてはいけない。
何故あたしなの? 目立たないようにしていたのに何故そんな……息子のような存在だといえる御方の召使にあたしをお選びになるの? どこかであたしは出過ぎた真似でもしてしまったのだろうか。あああ!
でも。
「聞いて、くれるね?」
優しいバリトンが逆らう事を許さないという強さを秘めた時、レプリオール家に仕える者で彼の言葉に逆らえる者など、誰もいないのだ。
「……はい」
一族郎党血脈総てが磔刑に処せられ、その場面を見る事を強要された者のような、とてつもない陰鬱な顔でトッティが答えると、サーヤが席を立ちすっと隣室へと消えた。
「彼の抱える問題がなくなったら、彼は離れを出る。そうなったらそなたにはまた私の言葉を第一に聞いてもらわなくてはならない。一生に沢山の主人に仕えるのは大変だと思うが、君なら出来るとサーヤと相談して決めた。報酬は今までの倍額出してもいい。その代り彼の情報は一切を外様に出さざる事、これも命令だよ」
「はい」
トッティは考える力を失くしたかのごとくただ返事を紡ぐ。いつかはまたレプリオール家のトッティに戻れるのだろうか。いつってどれくらい後の事なのだろう。
その時、隣室の扉がキィと音立てて開いた。
思わずそっちにトッティは目をやる。そして驚いた。
先導するのはサーヤ。だが後ろに続くものはかつて宮廷で散々詩歌を捧げられたサーヤの存在感にけっしてひけをとらない存在。
濡れた白銀の髪に柘榴色の瞳。
その瞳がなんと美しい事かと思う。眉目秀麗とは彼の為にある言葉だろう。年はトッティより二つ三つ上か。白い肌が艶めかしい。パルタの肌にはない色気を感じる蠱惑の花。
そして頭の中で危険を知らせる鐘楼が鳴り響くのをトッティは知らんふりした。
トッティは一目で落ちてしまったのだ。
医者も名湯も治せぬ病、──すなわち恋に。
「シオン・ヴィー。彼に仕えてもらいたい」
それは喜び。
それは至福。
たった今まで一族郎党血脈総てが絶えたような顔をしていたトッティだったが、俄かに頬に血色が戻った。まるで新しい家族をパン屋の一ダース分見つけたように。
あたしのように何のとりえもない小娘が何故選ばれたのか、そんな事はどうでもいいわ。この御方に侍る事を許されるのなら。
ガウン一枚羽織っただけに見えるシオンはトッティに向かって微笑んで見せた。その微笑みがナイフのようにトッティの心臓を突く。トッティを所有する証をシオン・ヴィーは確実に刻み込んだ。
だが、初恋に浮かれていた少女はすぐさま現実に引き戻される。
「離れにはもう火を入れてある。トッティ、一番立派な客間をシオンに。そなたは隣の部屋に控えておれ」
「!」
トッティは度肝を抜かれた。
レプリオール家の離れは王妹サーヤの為に極秘裏に国王が訪ねてきた時に使う、特別の客室であることを彼女は今の今まで忘れていた。その一番立派な客間と言えば国王に饗されても何らおかしくはない威儀を正したものだったし、両隣の部屋は国王の股肱の臣、側近中の側近が使う部屋である。トッティの身分では掃除に入るのも本来許されないのに、そこで寝起きしろと?
しかしトッティは反論を飲み込んだ。
ただ確かめる。
「隣のお部屋、ですね?」
間違いだったと言って欲しいと密かに願っていたがそれは神々には聞き届けてはもらえなかった様だ。
「そう、隣だ。そしてそなたはたった今よりシオンの側近だよ。解ったね」
「はい」
聞き届けてはもらえなかったがそれはそれで仕方ない。いや、むしろ今となればその方が余程に嬉しい。
あたしがこの御方の側近?
どうしてあたしが選ばれたんだろう。
ああでもシオン様。
この方の近くにいられる。シオン様、この方の近く……に?
その時トッティは出かかった言葉を必死で飲み込んだ。
偽名だ。
本当の名前は複雑に絡まり合っていて『視えない』。何よりシオンがシオンである事を望んでいるが故に『視えない』。
この方は一体どれ程の業を背負ってらっしゃるのだろうと、トッティは少し怖くなった。
「よろしくね、トッティ」
清々しい笑みを浮かべシオンが言う。
その笑みに引きずり込まれそうになりながらトッティは思う。たった今恋を自覚したばかりのトッティは思う。
幸せになりたければ、愛してはならない。
だが、何が幸せで何が不幸せなのだ?
この人はこんなにも綺麗で。パルタ様と並ばれても遜色無い位綺麗で。
見つめて頂ける事こそが望外の幸せだと思った。望みすぎては駄目。
「トッティ。シオンを離れへ案内しなさい。シオン、貴方の部下達は離れの一階にて既に暖をとっている筈です。今日はゆっくりお休みなさい。トッティ、そなたも誕生日だというのにすまなかったね。良く休むがいい」
「はい、伯爵様。シオン様、お洋服はどうしましょう? 暖かい館内でも廊下は流石にガウンではお寒いかと」
「構わないよ。荷物を準備する暇がなかったんだ。着の身着のままでここに来た。外に雪が降っているのを知っているかい? 雪でずぶ濡れの道中を考えればこのガウンは十分温かいさ」
歌うようなシオンの声に、トッティは吃驚した。雪の中をいらしたの? 雪の音は雨の音のように五月蠅くないし、この屋敷の壁は十分過ぎるくらい分厚いから雪の音なんて聞こえなくて気付かなかった。それで髪が濡れていらしたのね。さぞお寒い思いをなさったでしょうに何故何でもない事のように言えるんでしょう。やはり高貴な方なのでしょうね。
「急に押しかけた私の為に深き御配慮、有難うございます。レプリオール伯爵と『碧空の瞳の王女』様」
「大昔の名前で呼ばないで頂戴な、シオン。嫁しても王女と言えどわたくしは正式に王位継承権を放棄したのですから最早王女ではありません。レプリオール伯爵夫人と呼ばれるのが一番好きなのですよ」
「ではレプリオール伯爵、レプリオール伯爵夫人、お休みなさいませ」
ふわり、と空気が動いた。白いガウンを羽織っただけのシオンが礼をとったのだ。腰を屈め、限りなく優雅に。
「さぁ行こう、トッティ」
促されるまま、トッティは大慌てで辞去の挨拶をして外へ飛び出した。
背中に感じる苦笑は一体誰に向けてのそれだったのであろう。
廊下は微かにひんやりとしていた。シオンが凍えないうちに火が入れられているという離れに案内せねばとトッティの足は急ぐ。
窓という窓に帳が下りているため雪は見えない。音を立てずに降る雪は積もりやすい。特に北国ヴィラリーカではここ数日の晴天続きの方がおかしかったのだ。
「ねぇトッティ。トッティ・フィルーン」
シオンが自分の名前を呼んでいると思うだけで、トッティはときめいた。胸が破裂しそうだと思いながら何とか返事をする。
「何でございましょう? シオン様」
「君は僕の側近になってくれるんだよね。僕の事を裏切らないとギフトにかけて誓ってもらえるかい?」
ぴしり、と、トッティの表情が固まった。
言うべきか、言わざるべきか。
数瞬、考えて、やがてトッティはシオンの柘榴色の瞳を見上げた。
「あたしはギフトを持っていないんです。所謂『忌み児』と言うやつですわ」
トッティとシオンは立ち止った。
高潔なる人間も矮小なる人間も、皆が皆、等しくその手にしているモノが、何の罪もない彼女にだけ与えられなかったとしたら?
それはどれ程の絶望だろう、と、シオンは思った。
神から与えられし贈り物。
ギフト。
ギフトとは、アリアネーシャに生きる人間が、生まれながらに神より一つだけ授けられる不可思議な力の事である。
そのギフトの種類や力は多岐にわたり、書物に纏めようとした者が何人も挫折した程だ。
例えばジンの持つ『囀りよ、詩に変われ』というギフトは鳥や獣の言葉を人間の言葉として聞き分ける能力であり、サーヤの『黒火蜥蜴の吐息』というギフトはその名の通り火を生み出す。やろうと思ったら周囲一帯を灰に変えるほど強大なギフトであることをトッティは『識って』いるがサーヤは精々暖炉に火をつける時、ろうそくに火を灯す時にしか使わない。
他にもギフトは様々な形で存在する。
癒しの力であったり、先見の力であったり、防御の力であったりと枚挙に暇がない。
強力なギフトや珍しいギフトを持って生まれたものはそれだけで良い仕事に就く事が出来る。反対に何のギフトも持っていないトッティが召使となれたのはレプリオール伯爵の器の大きさといえよう。
黙り込んでしまったシオンにトッティは胸に針を突き立てられたような気分になった。
「あ、の……やはり『忌み児』、で、は、お仕事は務まりませんか? もし召使を変えるのなら今しかないかと」
「いや」
きっぱりとシオンは言い切った。
「君が良いよ。僕には君が良い」
そう言うシオンに「何故あたしが良いのですか?」とトッティは聞きたかった。伯爵夫妻が用意した召使だから唯々諾々と受け入れるという事だろうか。
だがここで話し込んでいたらシオンの身体が冷え切ってしまう。
思いを振り払うように新たな主君を見やると彼のギフトがトッティには『視えた』。『魅惑の声』、すこぶる珍しいギフトだ。ただ、ギフトを『展開』して、その声を聞かせるだけで相手を魅了出来るギフト。
だが、今シオンはギフトを『展開』していない。トッティを縛る力は何処にも無い筈なのに、『忌み児』であっても自分が良いと言ってくれる彼の為なら、彼の思惑はどうであれ死んでも良いと思った。
「トッティは話しにくい事を話してくれたよね。だから僕も君には誠実であろうと思う。もし眠くなかったら離れで僕の話を聞いてくれるかい? 出来れば離れの部屋についてすぐが良い。決心が鈍ると困るから」
そういうシオンの声に、嘘偽りはない。虚偽があればトッティの瞳はそれを捉える。
だからトッティは「解りました」という。
「急ぎましょう、冷え切る前に離れへ」
自分に対して誠実でありたいと言ってくれたシオンに対する嬉しさでトッティの小さな胸は高鳴った。眠い? そんな訳はない。午睡に部屋を貸してくれたユミエルには感謝してもしきれない。
アンジュと着替えは明日の朝起きてすぐ取りに行こうとトッティは決める。今宵は駄目だ。シオンの話を聞くのが一番の優先事項だ。
シオンがそれを望んでいるのはトッティには『視えた』し、彼は第一の主人なのだから。
「寒くありませんか?」
「大丈夫だよ。知っているかい? 王都の教会の書庫の方が寒い。大事な本に火がついてはならぬという事で一切の火を使うことを禁じられている教会の書庫は、海豹の毛皮を着こんでいても寒いんだよ」
そういうシオンの吐く息が白い。
トッティの吐く息も白い。
やはり屋敷中に火が入っているとはいえ廊下は冷える。
離れまではすぐだった。
一階にいたのは五人の騎士だった。その内一人が女であることにトッティは驚く。だが、シオンは紹介してくれなかった。
「明日君達に正式に紹介するよ。この館までは危険は迫っていない筈だ。皆、良く休んでくれ」
そういうとシオンはトッティに自分の部屋への案内を急かす。彼女も慌てて階段に向かう。火がそこかしこにちゃんと灯っていて、少しばかり急な階段の足元もよく見えた。
「こちらにございます」
トッティがシオンを案内したのは三階の客間だった。広いその部屋の中に入ってみるのはトッティにとって初めてであったが場所だけは知っていた。なにせ三階の大半がこの部屋なのだ。両隣の部屋もそれなりに広いのだがこの大部屋に比べると貧相なものだった。
部屋を暖める暖炉は一つではなかった。三つの暖炉が忙しなく炎を爆ぜている。その炎はとても暖かい。
「君の部屋を覗いても良いかな?」
唐突にシオンが言った。よく解らないままに自分が今日まで入った事のない部屋を見せる事に同意する。右隣か左隣かはどちらでも良かった。
シオンは何も考えずに左の部屋を開けた。
寒い、暖炉に火が入っていない。
ついで右隣の部屋もあけた。やはり暖炉には火が入っていなかった。
「やっぱり。僕の事で頭が一杯になっているからね、下の連中は。君を連れてきたのも意外だという顔していたものなぁ。戦いの中に身を置くと彼ら程頼りになる連中はいないんだけど、日常の事となるとさっぱりだ。僕には絶対君のような存在が必要だって一寸考えれば解りそうなものなのにね」
言うとシオンは右隣の部屋にずかずかと踏み込んだ。そしておもむろに火打石をとる。
「君の部屋、こっちでいいかい?」
「え? はい……あの?」
トッティは何が起こっているのか全く解らないといった顔でシオンを見ていた。シオンが火を点けようとするまでは。
「シオン様っ! 高貴な身の方が召使の為にそんなことするものではありません!!」
慌てて部屋に飛び込んでシオンを止めようとするが火打石の御機嫌が良かったらしい。少し打ち鳴らしただけで火がついて火種の藁を燃やし始めた。
「トッティ、薪を持っておいで」
燃える藁を見つめながらシオンが言う。
シオンの言葉に逆らえずトッティは薪を探す。部屋の隅の方に緋色の布がかけられた何かがあったが本館と同じ考えで管理されているのだったらこれが薪のはずだとトッティは布を引き剥がした。
当たり。
薪を藁が燃え尽きる前に暖炉に放り込む。
「あたしの為に火を起こして下さって有難う御座います。でも、これからは自分でやります。あたしは召使なんですから」
そういって暖炉のわきに置いてあった火掻き棒で薪をいじり火の勢いを強くする。使われていない離れの薪という事でしけっていやしないかと心配したがそんな事はなかった。
「側近は大事にする主義なんだよ、僕は」
シオンは笑った。
「それに火を起こす時に女性が誤って手に火膨れでも作ったら大変だろう?」
「──貴族のお姫様なら大変だと思いますがあたしは召使ですので火膨れ位平気です」
淡々というトッティにシオンは片眉だけを器用にあげた。
「女性は花だよ、トッティ。花は美しく咲いてこそだ。でも君は頑固だから多分僕の言う事など聞いてくれないだろうけれどもね」
「あたしはよくラバの様に頑固だと言われますわ」
シオンは笑う。
「頑固か。それは良い。そういう女性は観賞用ではなくて本当に生きているからね」
「先程美しく咲いてこそと仰ったのはどのお口でしょう」
言いながらトッティは駄目だ駄目だと心の中で叫ぶ。『忌み児』である自分に余りに気安く、まるで昔からの友達が──トッティには本当の意味での友達なんていなかったけれども──するように自分に接してくれるから、つい素の自分が出てしまう。
だが、シオンは笑みを浮かべたままだ。
「これから僕は君を女扱いしないぞ。君は戦友になるんだ──もし僕の話を聞いても傍にいてくれるのなら」
ぱちり、と一際大きく火が爆ぜた。この部屋も随分暖かくなってきている。
「お聞きします」
「何から話そう。レプリオール伯爵夫妻……、叔父上と叔母上は君に何の説明もせずに僕に仕えよとか無茶を言ったのを隣の部屋で聞いていたのだけれども、何から聞きたい?」
叔父上と叔母上。それで得心が言ったとトッティは思った。レプリオール家に連なる方なのだ、シオン様は。だから殊更に大事になさるんだろう。そう、トッティは解釈した。
だから尋ねる。
「ご主人様の……伯爵様の弟君か妹君かの血をひいておいでなのですか?」
無邪気なその問いに、シオンは腹を抱えて笑った。
トッティが微かに頬を膨らませる。彼女は馬鹿にされたような気がしたのだ。
だが事実は逆である。
ああ、ジン・レプリオールの弟か妹の血を引く甥であったならばどれ程良かったことか。
そうでないから彼は笑う、自分を嗤う。
漸く笑いの発作が治まり、シオンは言った。
「二人の時はシエルと呼んでほしい。だけれども他者がいるときは必ずシオン、と」
真名を告げるその声は真剣で。
「解りました、シ……シエル様」
トッティのその答えに満足したのだろう、シオン、否、シエルは頷く。鷹揚なその態度は生まれてきてから当たり前の様に人に傅かれて生きてきたからこそ身に付いたもの。
そう、彼は生まれてきて十七年、考える前に余人は跪き礼を取った。三人の兄も、妻を亡くした父も、彼を甘やかしてきた。そうして、『シエル』という人間は出来上がったのだ。
「僕はシエル・ヴィラリーカ。ヴィラリーカの第四王子なんだよ。これでもね」