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ギフト  作者: 古都里
2/17

1 混乱ばかりの誕生日

 トッティの朝は夜明けと共に始まる。

 召使であるトッティは本来なら使用人部屋で朋輩らと楽しくもせわしない一日に備えて気合を入れているところなのだが、ここ一月と少しは美しい意匠で装飾された離れの個室で寝起きしていた。


 懐かしい、な。トッティはそう思う。


 皆が皆、一日の仕事に取り掛かろうとする熱意は凄まじいもので、それはこのレプリオール伯爵家への忠誠の証でもあった。元は商人の出の新興貴族の家柄であるレプリオール家では、召使や侍女達をただの使用人として見ずに人間として評価してくれる。だから皆の仕事への取組み様は、誰しもが驚くものであった。


 トッティだってそうだ。

 『忌み児』であるトッティを普通の人間と同じく大事にしてくれるレプリオール伯爵夫妻にどれ程感謝していたかしれない。雇い主たる彼らがそうであるから、朋輩もトッティが『忌み児』であるという事を忘れて気安くしてくれたのだ。


 しかしトッティは朋輩らとは違う意識で仕事をしていた。齢十五の召使として相応しい仕事をした。決して怠けたりしなかった。仕事が出来ぬ召使として伯爵夫妻に覚えられるのは嫌だった。だが、自分が他者より抜きん出る事もトッティは恐れた。目立ってはいけない。地味に地味に。


 それなのに何故こんなことになってしまったのかトッティには理解できない。仕事は平均点をキープ、美しくもない『麦藁髪のトッティ』が何故選ばれてしまったのだろう?


 トッティは溜息を吐いた。


 この部屋を与えられてからというものの朝起きた瞬間思う事は『何故あたしが』という事だった。

 昨日とてつもなく厄介な『とある客人』が来てからは尚の事考えさせられたが余りその事について考えている暇はなかった。

 

 仕事がある。トッティは召使で主の命は絶対だったからだ。



◆◆◆


 事の発端は五週間前、聖歴千百八十七年の二月四日にまで遡る。


 トッティの十五年目の誕生日という事で、彼女はその日一日の仕事を免除されていた。


 トッティは暇な時間をどう過ごして良いのか、レプリオール家に召し抱えられてからいつも困ったものである。

 暇は嫌い。窓でも磨いている方が気持ちも紛れるというのに。


 ぽっかりと空いた時間に、故郷の母に手紙を書こうかと思った事もあった。伯爵夫妻は召使として雇っている少女達に、読み書き計算の最低限の教育を施す事を忘れなかったのである。トッティが召し抱えられたのは十一の時だったが、それまで教育というものを受けた事がないにも拘らず、一応の読み書きは出来るようになっていた。


 今でもまざまざと思い出す。レプリオール家で迎えた初めての誕生日の事。トッティの母も計算はともかく読み書きは出来たので手紙を書こうと思ったのだ。


 だが、覚えたての文字を綴って、幸せに浸っていた幼いトッティは、不意に思い出してしまった。


 病気がちの母がトッティの事を憎んでいるという事を。


 自分の娘が『忌み児』として生まれたということを、母は許せないでいるのだ。


 それでもトッティは母の事が好きだった。

 だから一番喜ばせる方法を取った。

 去年も一昨年も同じ方法を取ったのだがそうすると珍しく母が手紙をくれるのだ。その手紙欲しさにトッティは町のパブへと急いだ。この国ヴィラリーカのパブは昼間、郵便局や買い物引受けも兼ねているのである。


 伯爵ジン・レプリオールが今朝くれた誕生祝いの一枚のシヴァリス銀貨、それだけを送る為。母親からの愛情は諦めたつもりで諦めきれない。複雑な心境であるが、慣れた。


 そんなトッティがスカートをはためかせて屋敷から出ていく様を、伯爵夫妻が見送っていることなどと彼女がどうして知りえようか。


「あの子は口が固い」


 書斎の窓からトッティを見送った伯爵夫人サーヤ・ヴィラリーカ・レプリオールは言う。彼女の名前に国名が入っているのは彼女が王家の血筋に連なるものだからだ。現在の王カタルーシェ・ヴィラリーカは彼女の兄である。  


 それ故、今少しばかり厄介なことが持ち上がっているのだが血を恨んでも仕方ない。


「そうだな。しかも田舎の母親とは殆ど没交渉だ」


 ジンも豊かに蓄えられた紅茶色の美髯を撫でて答えた。トッティは稼ぎの半分を母親に仕送りし、残りの半分を貯金に充てている。


 それは周知の事実であった。何故そんな事が知れ渡っているかというと他の召使たちで親のあるものは金に手紙を添えるのに、トッティは金だけを送るからだ。どうしても目立つ。昼間のパブに金だけを持ってきてはその送金を願う姿は他の召使いや侍女達と比べ、明らかに異様であった。


 そしてパブでの話題は当然の如く伯爵夫妻に伝わる。


「母親からの手紙も殆ど来ない、あの子にギフトがないという理由だけで稼ぎを仕送る娘を案じもしないような母親に、あの子が自分から手紙を出してこの状況を相談する事はないでしょう。可哀想な子。同じ召使仲間とも距離を置いて。──でも貴方、わたくしはあの子が適任だと思いますわ。離れに移してもさして話題になるようなことはないかと」


 サーヤの言葉にジンは頷いた。

 サーヤに惚れ込んでいるジンはサーヤがもし、太陽が西から上るといってもが肯定するであろうが今回は事が事である。

 伯爵家全体に関わることである。否、ヴィラリーカの未来に関わることである。




 天帝は千百八十七年前にこの世界アリアネーシャに舞い降り、戦乱に狂う世界に平和をもたらした。


 幾つもの小王国に分裂した国を天帝は四つに統合した。曰く北のヴィラリーカ、南のスイ・シュア、東のシシェリアズラ、西のナファレーンへと。


 しかし今、ヴィラリーカに危機が起こっている。下手をすればこの国が天帝の許しなく二つに分かれかねん程の危機が。


「シエルに仕えさせるのはトッティ・フィルーンで宜しゅうございますか? 貴方」

 サーヤの言葉にジンは彼女の白い額に口づける。是という事であろう。


 サーヤがジンの首筋に腕を伸ばした。ジンがサーヤの細い腰を抱き寄せる。

 激しい恋愛の末、何とか結ばれた二人は今もまだ、恋し続けているのだ。

 そして暫し後、抱擁を解いた二人は真面目な顔でお互いを見た。


「シエルも本当に可哀想。もう町についたとの一報がありましたけれども、屋敷には夜も深くなってから参るとか。顔を隠し身分を偽り、そうせざるを得ないあの子が可哀想」


 サーヤの碧い瞳は微かに潤んでいる。優しくて美しい妻はジンの自慢で、そして憂愁に浸る妻のぞっとする美しさより、普段の陽だまりのような笑顔を、早くこの顔に取り戻してもらいたいものだと思う。

「それでも貴女はシエル様を自慢に思うべきだ。あの方の境遇が憐れなものとなったのはあの方の賢明さによるもの。あの方は自分で選び取られたのだよ。この現状を」

「ええ、解っていますわ。天帝様の加護があの子にありますように」

 そういってサーヤは笑った。しかしジンの緑の瞳にはその表情の中に潜む憂いがよく見えた。現状を打破しない限り、妻に本当の笑顔が戻ってくる事はないだろう。そしてそれのなんたる難しい事か。

 自分の肩にのしかかる重みに耐えながら、ジンも微笑む。

「天帝様なら必ずやお応え下さる。我々はその時を待つだけだ」

 ぱさり、とジンは鎖骨のあたりで切りそろえた紅茶色の髪の毛を後ろに払った。その癖が深い思考に沈み込んでいる時の夫の癖であることに気付かぬサーヤではない。

「日付の変わるころにはシエルもこの屋敷についている事でしょう。トッティには、それより少し早い時間にわたくし達の部屋に来るよう申し付けましょう。侍女頭のユミエルに言づけておきます」

 ふわり、とサーヤは夫の身体から身を離した。その温もりと甘い薔薇の香りの香水の匂いが自分から離れた事に微かな寂しさを覚えながら、しかし、ジンは追わない。サーヤは軽く一礼するとジンの書斎から出て行った。

 扉が閉まるなり、ジンは行儀悪くも椅子ではなく机に腰掛ける。

 トッティ・フィルーン。『忌み児のトッティ』。『麦藁髪のトッティ』。

 雇い人を大事にするジンは少し、トッティの事が可哀想に思えた。



◆◆◆

 パブから帰ってくるなりトッティはユミエルに捕まった。三十代後半のこの侍女頭は怒らせると非常に怖いので有名である。トッティは頭の中で自分が何かへまを犯したのではないかと必死に過去を漁った。


 しかしユミエルの顔に浮かんでいるのは怒りではない。トッティには『視える』。

 ユミエル様があたしを……妬んでいる?


 ユミエルから見えるのは嫉妬、羨望……そしてそれを抑え込む強い理性。


 ユミエルは石仮面のような表情のない顔でトッティを自室に促した。個室が持てるのはそれだけユミエルが伯爵家に貢献しているからだ。


 そのユミエルが、『誰も招いた事がない部屋』として有名な個室へと呼ばれた時、トッティの恐怖は否が応にも増した。心臓が口から飛び出してしまいそうだとトッティは思いながら唾を飲み込む。


『お前以外の誰にも頼めないのですよ。トッティ・フィルーンに二十三時に旦那様の書斎に来るよう申し付けて頂戴。でもこの事を誰にも洩らさないようにして頂戴ね。トッティが今夜書斎に来ることを知って良いのはわたくしと旦那様、お前とトッティだけよ』


 そのサーヤの言葉に、侍女頭として長年寵を受けていたユミエルは、己の仕える主たちの寵が、何の取り柄もないトッティに移るのではないかと危惧した。


 いや、取り柄ならある。目立ちたがることも賢しら口を叩くこともないが非常に真面目で勤勉、そして裏表のない性格をしている、将来が楽しみな召使。

 それが侍女頭として采配を振るうユミエルに写るトッティ・フィルーンという召使の美質だった。


 ──何故奥様は私に何も教えて下さらなかったのだろう。何の為にトッティをお召しになるのだろう。トッティに秘密のお仕事を申し付けられるお心算つもりか。それならば何故その役目は私の物ではないの?


 しかしユミエルはその若さで侍女頭を務めるに値する賢明な女性だった。


 トッティはいい召使だ。そしていい娘だ。それが解らぬほどユミエルは馬鹿でも愚かでもなかった。


 ユミエルは深呼吸をして、必死におのれを切り替えた。

 嫉妬を理性で抑え込み、主人の思惑に自らの思いを馳せる事を止め、己を殺し、完全に主人の為に働く事を良しとした。


 トッティを己の部屋へ半ば無理やりに連れ込むとユミエルは後ろ手で鍵をかけた。誰も入っては来られないように。誰にもトッティが召されることを知られないように。


 トッティはそんなユミエルの思惑には全く気付かなかった。びくびくと怯えていた幼い召使いは、ユミエルの部屋の様子に圧倒されていたのである。


 そこは人形の楽園だった。小さな、明らかに素人の手によるものだと解る手製の人形から、職人の誂えた人形まで。


 流石にレプリオール家の一粒種、パルタ・レプリオールが大事にする程の人形はなかったがそれでもトッティには圧巻だった。何せ人形は数えきれない程あるのだ。


「どうしたのです、トッティ?」


 ユミエルの声にはっと我に返るとトッティは慌てて言った。

「申し訳ありません、ユミエル様! お人形が余りに沢山あるので目を奪われました」


 その言葉にユミエルの唇に初めて微笑らしいものが浮かんだ。


「私の家は貧しかったのですよ。幼い頃から周りの子供達が人形遊びをしているのを指をくわえ見ているしか出来なかった。両親はそんな貧しい生活の中であっという間に私一人置いて儚くなって……孤児となった私をご主人様が引き取って下さり、ささやかな労働の対価に吃驚するほどのお給金を頂きました。嬉しかった。最初のお給金では人形が買える程ではなかったけれど私は人形が欲しかった。だから布と綿を買って自分で作ったのです。年と共にお給金が上がって私も貯金するという事を覚えて、町で売られている人形が買えるようになって。でもトッティ、内緒ですよ。鬼も泣いて逃げる侍女頭のユミエルの部屋が人形だらけだなんて解ったら私の威厳は地の底です」


 淡々とユミエルは言う。苦労したともつらかったともいわず、レプリオール家に召し抱えられて人形を手にすることが出来たというくだりは、いっそ幸せそうですらあった。


「くだらない昔話をしてしまいましたね」

 言いながら、ふと思いついたかのようにユミエルは人形を並べてある棚へ向かって歩くと一体の人形を手に取った。


 ──ご主人様方はこのトッティを、私の後釜にすえるお心算つもりなのかもしれないわ。ものになるにはあと十年かかると思っていたけれど、特別な育て方をなさるお心算つもりなのかもしれない。だって今までご主人様と奥様と私の間に、秘密なんか欠片もなかったのですもの。でももし、この子が鍵を握っているならば。


 そんな事を思って手に取った人形の髪は薄い金茶色。トッティの麦藁色より上等な色だが彼女の髪の色に一番近い髪の人形はこの子だ。トッティのような朱金の瞳ではないが琥珀の目の子の人形が漂わせる儚さはトッティに似ていた。

 手持ちの人形の中では高価な部類に入るそれだが、もしトッティがユミエルを継ぐべく教育を受けるならば……せめてそのトッティにはこのユミエルを忘れてほしくない、そんな不思議な感情が浮かび上がり、それをユミエルは若干持て余す。


 嫉妬して妬んで、それだけができる子だったら良かったのに。


 しかしいつまでも物思いにふけってはいられない。ユミエルは小さく息を整えるとトッティに向き直った。


「トッティ、ご主人様と奥様が夜の二十三時に貴女が書斎に来ることをお望みです。誰にも内緒です。漏らすことは許されません」


 トッティはびくっと体を震わせた。

 そんな夜中に何の御用だろう。まさかクビ? なんか変な事しちゃったかしら、ああ、どうしよう! このお屋敷程働きやすい職場はないって、あたし、そう思っているのに!


 トッティの朱金の瞳に涙が盛り上がる。


 そんな彼女を見て、ユミエルは何故夜中のお召しで泣くのだろうかと不思議に思った。


 他の貴族の屋敷でなら、真夜中に呼ばれたなら夜伽を申し付けられたかと泣くかもしれない。

 だが主人であるジン・レプリオールの目に女性として映っているのは妻であるサーヤだけ。それ故、その心配は全くないといっても構わぬのに。


 何故か酷くいじらしく思えた。


「泣いてはなりませんよ、トッティ」

 ユミエルは出来る限り優しく言った。

「召使の就寝時間は二十二時。二十三時ともなればとても眠いでしょうね。でも寝ぼけ眼でご主人様奥様の前に出るのは無礼です。私の部屋で昼寝をなさい。夕食まで。夕食が終わったら私に仕事を命じられたといってこの部屋に戻ってきなさい。書斎に召された事を例え朋輩と言えど洩らしてはなりません」


 そしてユミエルは手にしていた人形を無理やりトッティの小さな胸に押し付けた。


「誕生日おめでとう、トッティ。この子の名前はアンジュというの、可愛がってやってね」

「ユミエル様……!? 頂けません、だってこれはユミエル様の大切なお人形ではありませんか!」


 トッティはそういって人形を返そうとするも、ユミエルは受け付けない。彼女の手は、差し出されたアンジュを受け取ろうとは決してしなかった。そして、彼女の顔に張り付いていた石仮面が遂に割れた。ユミエルは本当に優しく、笑ったのだ。


「貴女が口答えをするところを初めて見ましたよ、トッティ。では、お休みなさい」


 優しい笑顔のままユミエルは踵を返す。かけてあった鍵を開錠し、外に出たかと思うとすぐさまサッシュに挟んであった鍵で外側から施錠した。


 アンジュを抱いたトッティはぽかんとしたままユミエルが出ていくのを見送っていた。

 トッティが初めて抱いた人形のアンジュは既に腕に馴染んでしまっている。そのアンジュに対する愛おしさが、急激にトッティの胸の中で膨らんだ。だがこれは返さねば。


 人形の良し悪しがはっきり解るほどトッティは目利きではない。けれどこの部屋には恐ろしく人形があるのにアンジュは一欠片の埃もかぶっておらず髪のもつれもない。着せられている赤いベロアのドレスはもしかすればユミエルの手作りではなかろうか。


 もうクビ切りの恐怖の事などすっかり忘れてトッティはアンジュを抱いたまま遅まきながら扉へと突進する。ユミエルにアンジュを返す事しか今のトッティにはない。


しかし。


「鍵……」


 トッティは小さくつぶやくと人形を抱いていない方の手の親指の爪をかじった。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。


 トッティは惑い、混乱し、それから。


「えい」

 ぽん、とトッティはユミエルのベッドに身体を投げ出した。

 

 トッティのベッドと材質は同じようである。仕える者達がゆっくり休めるようにと、伯爵夫妻は藁布団ではなく固めの綿布団を彼らに支給してくれていた。幼いトッティが初めて召使部屋のベッドで眠った時は感激したものである。家の藁布団と違って綿布団はとても柔らかく心地よく暖かったから。

 まだ寒い季節である。トッティは厚手の毛布にくるまり布団をしっかりと被った。


 もし二十三時に寝ぼけ眼をしていたらユミエル様は決して許して下さるまい。それなら図太く他人のベッドで午睡を楽しもう。

「なんか凄い誕生日。お休み、アンジュ」

 人形に囁いて、トッティは目を閉じた。



◆◆◆

 トッティは二十三時になる五分前に伯爵夫妻の部屋の前にたどり着いた。

 夕飯の後、断腸の思いでアンジュをユミエルに返そうとしたが、けんもほろろに断わられた。しかし明日の朝まで預かっておいてくれるという。確かに人形を抱いたまま伯爵夫妻の部屋に上がるのは失礼だ。


 アンジュが自分のものになってくれてほっとした面もトッティにはあった。あんな精巧なビスクドール、自分で買うには崖から飛び降りる勇気が必要になるだろう。それなのにアンジュは自分に馴染んでしまったのだ。ユミエルに申し訳ないと思いながらも、アンジュは既に愛しい。


 夕食を食べている間にまたしてもクビ切りの恐怖が襲い掛かってきて、食後ユミエルの部屋で不安を吐露した。昨日のトッティであれば、鬼の侍女頭に不安をぶちまけるなど考えられない事であったが、ユミエルはアンジュを与えてくれた人である。そのユミエルはあっさりとその心配はないと断言した。不安が吹き飛びこそしなかったが、その言葉を心の支えとして、トッティは部屋の扉を叩く勇気を得ることが出来た。


 ノックの音がやけに響いて、トッティの蚤の心臓は哀れなほど震える。


「お入り」

 ノックから間を置かず、すぐに豊かなバリトンの声が響いた。


 ノックの主を確かめずに「お入り」などと言っても良いのだろうかと心の中で密かに雇い主に対する突っ込みを入れつつトッティは扉を開ける。


 まぁ、王妹であるサーヤ様がいらっしゃるこの屋敷で無体な真似を働くものなどいないのでしょうね。それに、伯爵様はとても人望がおありだもの。


 思ってトッティは扉の隙間から体を忍び込ませ一歩、足を踏み入れた。

 途端に目の前に飛び込んできたのは本の山だった。


 暖炉で薪が爆ぜている音がする。暖かい。

 しかし部屋中に並んだ本棚のせいで確かにあるはずの暖炉が見えない。伯爵夫妻の顔も見えない。

 この奥にいらっしゃるのは間違いないだろうけど。


 トッティが伯爵夫妻の書斎に入るのはこれが初めてだった。一介の召使ごときが入るのを許される部屋ではないのである、本当は。


「トッティ、こちらへいらっしゃい」

 今度は高く澄んだソプラノの声がトッティを呼んだ。


「はい」

 踏み出した足が、苔緑の長い毛足の絨毯を踏む。何だかそれがひどく罪深い事のように思えた。だがトッティは足を止めない。召使というものは主人の命が絶対のものなのだ。


 母さんと暮らしていた家より広いお部屋。


 ふと、トッティは昔の事を思い出した。

 決して懐かしくはない。だって今の方が幸せだから。


 暖かい衣服に、暖かい部屋とベッド、温かい料理、温かい伯爵夫妻、そしていつも口汚くトッティを罵っていた母からは時折優しい手紙が来た。仕送りの前後に。


 クビになりませんように。家には戻れません。此処にいたいです。

 縋るような思いで足を進めると、やっと桃花心木マホガニーの机が見えた。そして椅子に座り、顔の前で手を組んだ伯爵とその隣の天鵞絨ビロードの長椅子に座った夫人が目に飛び込んだ。


「トッティに御座います」


 声が震えないかと心配だったが、その心配は杞憂に終わった。


 今日は一応休みを頂いた日なので召使のお仕着せは着ていない。膝下までの簡素なドレスの裾を指でつまみ、ドレープを作り出してトッティは一礼する。


 緊張の所為で胸がドキドキする。伯爵様も奥様も今日はなんだか怖いお顔。でも。


 すっとトッティは息を吸った。

 これはクビではないわ。そうだったらちゃんと『視える』もの。でもだとしたらなんなのかしら? 感情が複雑に入り組んでいて『よく視えない』。


「お誕生日おめでとう、トッティ」

 サーヤが柔らかく微笑んだ。

「あ、有難うございます」

 トッティは舌を噛みそうになりながら礼を述べる。

「ご免なさいね、お誕生日だというのに真夜中に呼び出したりして。眠くはない?」

 サーヤの碧い眼は心底心配そうにトッティを見つめている。だからトッティは早く安心して貰いたい一心で言う。

「侍女頭様が午睡をとるようお部屋を貸して下さったので目はしっかり冴えています」

「まぁ、それは良かった。ユミエルも気が利く事ね」

 サーヤが再び笑顔を浮かべた。しかしその笑顔の裏に憔悴が『視える』のは何故だろう?


「さて」

 ジンが唐突に口を開いた。

 組んでいた手を握り締め机の上に置いて、ジンは言う。


「今日そなたを呼んだは他でもない。そなたに秘密裏に仕えて欲しい御方がいるのだよ」


「え?」


 トッティは思わず間抜けな声を上げる。

 まさかまさかまさか!

 伯爵様のご友人か誰かの夜伽をするの!? このあたしが!?


 自慢にならない事だがトッティは美しくはない。

 麦藁髪と言われる位に髪の毛は編み込んでもばさばさと自己主張しながらはねるし、顔の造作だって並以下だ。

 珍しいと言われる朱金の瞳は、確かに余り見かけはしないけれども、美しさには全く貢献していない。

 肌が白いくらいだろうか、自慢出来るところは。しかし召使であるトッティは、貴族の姫君の様に屋外に出るときには手袋にストールに日傘といったように完全防御しているわけではないので微かに日焼けしてはいるのだ。


 色が抜けるように白くて、薔薇色の頬にさくらんぼの唇、エメラルドの緑の瞳、癖のないつやつやとした金の髪の持ち主に、心の底からトッティは憧れていた。そしてそんな人物はつい身近にいるのである。


 『ヴィラリーカの貴石』パルタ・リプレオール。


 この、結婚して十七年にもなろうというのに新婚気分が抜けきらない伯爵夫妻の、目に入れても痛くないただ一人の愛娘である。


「これは命令だよ、トッティ。彼はついさっきこの屋敷にたどり着いたばかりでね、予定より少し早かったんだが。まぁいい。これからは彼に忠誠を誓い、彼の命令を第一に考えて行動してほしい。いいね、これはめい……」


「待って下さい! そんな、ご主人様はあたしをお捨てになるのですか!? 夜伽に差し出されるのは召使だから仕方ありません。あたしよりもっと美人で気の利いた事の言えるの方が良いとは思いますけれど! でも! 逆らいません! けどその御方に忠誠を誓うだなんて! あたしの忠誠は常にご主人様と奥様、そしてパルタ様にありますものを!!」


 一息に喋りきるトッティを見ながらジンとサーヤは誤解があったようだと考えた。


「見上げた忠誠心だね、トッティ」

 バリトンの声がトッティの耳を優しく撫でる。未だ来ぬ春の風のように優しい声。

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