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ギフト  作者: 古都里
10/17

9 シエルの覚悟

◆◆◆


 シエルは部屋の橋の机の椅子に腰かけると、鞍太りした長靴に包まれている足を行儀悪くも机の真上に置き、足首を重ねるように足を組んでいた。


 こんこんとノックの音が響く。


「入っておいで」


 言いながらも、シエルは自分の声が刺々しくならないように細心の注意を払わねばならなかった。

 入室を許された二人の側近は、一人は召使の礼を、一人は騎士の礼を取る。


「こっちへおいで、そこの長椅子にお座り」


 トッティとサリエは示された長椅子に座ると落ち着かない思いでシエルを見た。


 二人とも不安であった。

 天帝の使者。

 無礼で不埒で不遜な天帝の使者。


 彼女と連れの男がもたらした衝撃は思ったより大きかったようだ。


 ただ無心に彼に仕える者としてシエルに向き合うと、シエルに無性にすがりたくなる自分達をトッティもサリエも感じていた。


 召使も騎士も、主人の命令を最上として動くモノだ。それは変わらない。死ねと言われたら死ぬ。生きろと言われたら生きる。そんなものだ。

 だから命じて欲しい。

 自分たちは手足だ。手足は反乱を起こさない。自分達で考えない。ただただ主人の意のままに動くものだ。


 そんな思いが見事に二人の表情に出ていて、シエルは悲しくなった。


 この二人は側近だ。大事な大事な側近だ。

 だが遂に戦友にはなってくれなかった。


 しかしそれなら、側近として扱い、使えば良いだけの話だ。とても悲しいけれど。


「サリエ、『青薔薇の結界』を『展開』しているといったね。使者殿とお連れの方はどうしているか解るかい?」


 その質問につい先程覚えた敗北感を再び感じさせられたサリエは、しかし、隠し立てすることなく言った。


「私の結界にも限界はあります。続き部屋の中身だけがどうしても解りません。その他の場所に私の知らない気配がない事からお二方は続き部屋にいらっしゃるのだと判断します」


「そうか」


 シエルは、この答えを予想していた。

 昨日、あの二人が部屋に転移してきた時、『睦言の天幕』という聞いた事のないギフトでこの部屋は切り取られた空間になった。控えていた騎士達がどう頑張っても踏み込めなかったのだ、サリエの感知能力を上回っていても不思議はない。


 サリエが俯く。

 私のギフトではお役に立てない。


「僕は……昨日の話を聞いたとき種馬になるのは御免だと思った」


 天帝の使者は、第三王子、レイでは駄目だと言った。そしてシエルの本質が解らぬから確かめに来たと。王の器でないのならそれだけの器量の子供を、女をあてがい孕ませるといった趣旨の事も言われた。


 酷く屈辱だったけれど、もしかすればあの言葉はわざとかもしれない。自分が為すべき事から逃げ出さず、正面から現実を見据える為に。

 

 抜群の効果だが、劇薬だとシエルは苦笑しそうになる。感謝すべきなのかもしれないと思いつつ。


「玉座になんか上りたくはなかったけれども、兄上が駄目なら僕が務めを果たすしかない。種馬にならないためにもね」


「シオン様!」


 叫んだサリエの声はたった今俯いていた女とは別人のようだった。


 誇らしさ。歓喜。希望。


 そんな感情がないまぜになった声音だった。


 シエルは今度こそ苦笑する。


 何故、皆は自分のように、本を読み溺れるか、剣と乗馬を嗜むか、自ら馬を育てることに喜びを見出すかしかしない男に、国王になって欲しいなどと本気で思うのだろう?


 それでも、現実を真正面から見つめた自分は、その道を歩いて見せると決めたのだけれども。


 トッティは何も言わなかった。


 シエルの気性はある程度解っている。

 自分の能力を冷静に見定め、それ以下に見られるのもそれ以上に見られるのも嫌う天真爛漫なようでいて潔癖な第四王子。


 央華曜日には二人きりになる為、色んな話をしてくれたシエル。それは主に本から得た知識だった。その知識は多岐に渡り時折シエル独特の理解が混ぜられており、その話を聞くのは楽しかった。


 そしてシエルは何度も何度も彼女に言った。

『僕は王の器ではない』と。


 だがトッティには『視える』のだ。昨日までは『視えなかった』シエルの姿が。知らない動物の毛皮で縁取られた真紅のマントを羽織り頭に王冠を戴くシエルの姿が間違いなく『視える』。一度『視えた』ものは変わらない、それがトッティの不思議な目の力であった。


 シエルは王になる。種馬ではなく王に。


 使者様とお連れのお方に一つだけ感謝しなくてはならないわ。


 それはシエルとのキスが未遂で済んだ事。


 もしキスしていたら、あたしはシエル様にはまりきって狂ってしまったかもしれない。


 不意にサリエが立ち上がってトッティは吃驚して身を縮こまらせた。

 サリエの唇から洩れたのは怨嗟の声。


「あんの小娘……!」


 発言を許されていないというのにサリエが思わず口走ってしまったのは、それだけ相手の事を腹立たしく思っていたからであろう。

 サリエの『青薔薇の結界』に何かがひっかかったのだと、トッティとシエルは直感する。


「サリエ、一体なんだ?」


 厄介事はもう沢山だと思いながらシエルが問うた瞬間、光が爆ぜ、凄まじい爆音が周囲を支配した──!!


 例えてみるなれば、雷が間近に落ちたような音。だが、雷というものはこんなにも眩しいものなのだろうか。


 トッティは目を固く瞑る。光で焼かれてしまった。視力が戻るには暫くかかるかもしれない。耳も聞こえづらい。自分の声が、「シオン様!」と主を呼ぶ声がひどく遠く聞こえる。


 しかし目と耳の異常は直ぐに回復した。

 視力と聴力を奪われた時間をその部屋の誰もが長い長い時間と感じていたが実際は五分も経っていない。


 歌が聞こえたのだ。最初は遠くから、しかし段々と近づいてくる。


 ラグーシャの『癒しの歌』が、三人を襲った異常から救った。


 歌が止まったかと思うとノックの音が聞こえたのでシエルは組んでいた足を慌ててひっこめどうぞ、と言った。トッティが扉に向かって飛んでいく。開け放つとひどく不機嫌な顔をしたマナと、にこにこ笑っているラグーシャがいた。


 ああ、話は済んでいないのに。


「シエル殿にお詫びに参った。こら、ラグーシャ、笑うな! 元はと言えばお前の所為なんだからな!! いや、あたしの所為かい? いやいや、ラグーシャ、やはりお前が悪い!」


 マナが笑うラグーシャの襟首をひっ捕まえてぺこりと頭を下げる。


「すまなかった」


「はーい、すみませんでしたー」


 ラグーシャはあくまでふざけきっており、マナは彼から『心からの悔悛』を引き摺りだす事を諦めた様だ。


 どうか座ってくれ、と、シエルはトッティたちが座っている長椅子の向かいの長椅子を示した。どちらもシエルの座している机の真ん前にある椅子で、マナたちに勧めた椅子の方が部屋の奥の方角にある。扉の方に召使であるトッティが座るのはすぐに扉を開けに行けるよう準備するためだ。


 長身の男女は遠慮なく座り、それぞれ礼を言う。

 そしておもむろにラグーシャが口を開いた。


「でもさー、王子さん、俺、悪い事はしてないんだぜ。『絡新婦じょろうぐもの巣』っていう結界にちっぽけな悪意が引っ掛かったの。『絡新婦の巣』は使い勝手が悪い能力で、その人間の感情に反応するだけで、そいつが誰だかとはちっとも解らないんだけどな。でもちっぽけでも悪意は悪意に違いないから放置しておいたらいけないなーって思って『吃驚玉びっくりだま』で驚かせようとしたんだけれどもさ、このトレジャー使うの久しぶりでね、力加減間違えちまったの。そこだけ謝るわ。で、凄い光と爆音になっちゃったワケ。王子さんの騎士さん達にもちゃんと『癒しの歌』聞かせて視力聴力回復させた後、裏庭にイケないがいるから確保しておいてねって頼んでおいたよ」


「それは……有難い。お二人が謝られる事ではない。むしろ礼を言わねば。ついに此処にまで暗殺者が来たと思うと余り落ち着いてもいられないが。ところで、トレジャーとは?」


 シエルが聞き慣れない言葉の意味を問うとマナは大仰に頭を押さえた。しかしラグーシャは何とも思わなかったらしい。ぺらぺらと喋りだす。『現世』の人間の理解を超えた話を。


「基本的にその人間の根幹を象徴する力で、生まれながらに与えられた物がギフト。これは知っているよな? で、トレジャーってやつは主に『映し世』で神や精霊と契約したり、その力を持っている人間からもらったり交換したりして手に入れた後付けの力で能力自体はギフトと変わらないんだけど、『映し世』ではトレジャーって名前で呼んで区別しているんだ。ギフトは祖神様からの尊い贈り物でその人間の本質、魂そのものだから一応の差別化ってやつ。俺も結構トレジャー持っている方だけれどもマナには負けるわ。マナは幾つ持っていたかその数を忘れたっていうんだから」


 取り敢えずギフトとトレジャーが似て非なるものである事は解った。


「ご説明有難う、ラグーシャ殿」


 幾つギフトと同等の力を持っているのか、その数を忘れてしまっているというマナという女はヴィラリーカの軍隊が総力を結集しても勝てないのではと、シエルはその背に生温かい汗が伝うのを止められない。玉座に上る覚悟をした、次代の王としてヴィラリーカを護るのはシエルだからだ。


「殿とか要らねーから。そういう呼ばれ方は慣れていないんだ。他人の名に反応している気になるから普通にラグーシャって呼んでくれないかな? 良かったら」


「あ、あたしもマナでいい。後、その子達に語りかけるのと同じ言葉遣いをお願いするね、その方が気持ち良い」


 ラグーシャとマナの言葉に、シエルは立ち上がるとぺこりと頭を下げた。


「ラグーシャ、マナ、危険を察知してくれて有難う」


「王になるかもしれない者が軽々しく頭を下げちゃだめだよ、シエル」


 マナはついでに自分の台詞からもシエルへの尊称を無くしていう。

 しかしその方がシエルにも心地よかった。


 案外良い人達なのかもしれない、とシエルが思った瞬間。


「あの、シオン様、ラグーシャ様がおっしゃられたイケない娘なのですが、……非常に申しあげにくいのですが……」


「何だい、サリエ。歯切れが悪いね」


 シエルが言うとラグーシャも嘴を挟んできた。


「ねーちゃん、知り合いなのか? それから様もやめてくれない?」


「──パルタ様ではないかと」


 シエルとトッティが、サリエの言葉『あんの小娘……!』を理解した瞬間だった。


「え? パルタって此処の屋敷のお嬢ちゃん? あの一寸気の毒な娘?」


「ラグーシャ!!」


 慌ててマナが止めたが、遅かった。


「気の毒な娘ってパルタ様がですか?」


 トッティの声は低かった。シエルが少し怖いと思う位に。


 シエルに仕えるようになって約五週間。

 しかしそれ以前、トッティはレプリオール家に血も肉も捧げよとばかりに仕えていたのだ。目立たない尽くし方であったが朋輩達に忠誠心の大きさが一欠片でも劣るなどという事はあり得ない。


 そのレプリオール家の娘を事もあろうに気の毒だと?


「いや、だってさ、普通人間って時間が経てば経つ程美しくなるものだろう? 寝かしておいた酒が美味くなるみたいにさ。でもあの娘は今が盛りなんだもん。気の毒にもなるよ。その代り昨日見たあの娘は神がかってるみたいに綺麗だったけど。でもまだ十六だろ? これから色んな喜びと苦難が待ち受けているのにそれらが美として反映されることはないんだものなー」


 このままでは、という言葉をつけるのをラグーシャは忘れた。

 もし何か、そう、生まれ変わる位のきっかけがあれば、更なる美しさを得る可能性はある。

 ただ、生まれ変わるほどのきっかけなど、普通に生きてそうそう得られるものではないから、ラグーシャはその言葉を綺麗さっぱり忘れてしまったのだ。


 ところが、呑気な『愚者の王』はマナから向けられた冷たい視線に『何事?!』と身を竦ませた。


「昨日見た?」


 マナが声にきつさを滲ませた。


「いつ? あんた、あたしが寝てから飲んでたんじゃないだろうね」


 酒のことを言われていたのかという事でラグーシャの身体と心の緊張は解けた。

 何故ならそれに関しては完全に潔癖だからだ。


「おささは一滴も頂いておりません、神かけて。なぁマナ、あんたとの約束を破ったりはしないよ。他の女なら兎も角あんたは『マナ』なんだぜ? 見かけたのは厨房にお菓子を貰いに行った時。朝あんたが甘いものないと起きられないのを忘れるラグーシャさんだと思ってんの? 実際今朝しっかりケーキ食べたでしょうが。その時、かまどと格闘している美人さんがいたから名前を確かめたらご令嬢だったと」


「……その髪の毛の色で行ったのかい?」


 マナの問いかけにラグーシャはぶるぶると首を振った。新緑の髪が枯れ木色に染まる。


「いや、この色に染めたよ。流石に『現世』では目立つだろうし」


 シエルは果てしなく胃が痛くなるのを感じていた。穴が開きそうだ。


 天帝の使者が来た時にまたパルタが活発に行動を始めるとは。パルタを鎖で杭に縛り付けてやりたいとシエルは半ば本気で思った。


 シエルだとて何故パルタが気に障るのかが解らないのだ。最初は夜会等に誘われたら厄介だと思い嫌ってくれたらと思った。しかし今は積極的にパルタが嫌いだ。多分粘着質だからだろう。そして自分の想いは報われて当然と思っている傲慢さが癇に障るのだ。


 その時、扉を叩く音がした。


「誰だい?」


 シエルが問うか否かの間にトッティが扉に向かって全力で走った。


「ラヴィンです」


 その言葉に、シエルは顎をしゃくった。開けてやれとのジェスチャーに、トッティは扉を開ける。


「有難う、トッティ。我が君にご報告です。離れの裏庭で包みを持ったパルタ嬢が倒れていたので保護しましたが、意識が戻りませんでした。我が君に先にご報告するのが筋だと思ったのですが、この屋敷の御令嬢ですし、レプリオール伯爵が駆けていらしたので彼女の身柄を伯爵に引き渡しました。それと、朝食の席に伯爵夫妻は御一緒出来なくなったと伝えるように、と、申し付けられました」


 うむ、とシエルは頷いた。ラグーシャが保護を頼んだのが誰だろうと気になっていたのだがラヴィンだったのかと納得しながら。


「それでいい。我々は客人でパルタ嬢はここの御令嬢なのだからね。伯爵もさぞ心配だろう。ラグーシャ、ちゃんとパルタ嬢の意識は戻るんだろうね?」


「ああ、一晩位かかるかもしれないけど。でっかい『吃驚玉』だったものなぁ。それとも俺、『癒しの歌』歌ってこようか?」


「いや、それには及ばない。ちゃんと目覚めると請け負ってくれたのだから信じるよ」


 ラグーシャにシエルは笑ってみせるが、少しばかり暗い心があったのは言うまでもない。


 曰く、これ以上面倒事を増やすな。

 ついでに今日はパルタにもう煩わされずに済む。


「それに伯爵夫妻がいないのなら年が近い者同士もっと打ち解けて話せるだろう? 尤もあなた方の生きてきた年数で言うなら伯爵夫妻など赤子のようなものだろうが『映し世』の住人は精神年齢に近い外見を纏うのだと聞いた。それなら我々の年は非常に近い」


「間違い発見!!」


 シエルの言葉にラグーシャが言った。

 玩具を発見した子供の顔、まさに今のラグーシャはそんな顔をしている。悪意がゼロで、心から楽しそうで、でも厄介、そんな子供の顔は、ラグーシャによく似合う。


「馬鹿……」



 マナが小声で呟いた。


 嗚呼、やっぱりラグーシャは馬鹿だよ。なんていっても『愚者の王』だもんね。殴り倒して気絶させてでも連れてくるんじゃなかったよ。何を喜んで『映し世』の秘密をバラまいているんだい? 月の持つ性質とはいえ己の気紛れが恨めしい。


「間違いとは?」


 馬鹿正直にシエルも問う。


「『映し世』にはさ、中身が婆さんのつるぺた幼女とかうようよいるぜ。トレジャーの力と自分がこうありたいと思う姿との釣り合いが取れた外見年齢を『映し世』の人間は纏うんだ。反対にトレジャーの力が足りなくて中身がまだ子供なのに老人という可哀想な奴らもたまにいるし」


「そうなのか。あの本は間違えていたのだね。ご教授有難う、ラグーシャ。ところでマナの具合が悪そうなのだが」


「え? マナ!?」


 シエルの言葉に途端に慌てふためいたラグーシャは鼻に強烈な一撃を食らい長椅子の上でひっくり返った。


 サリエが目を見張る。


 完璧に的確な一撃だった。相手が予想していないとはいえ何ら手加減なく鼻っ柱に拳を叩きこむのは誰しも躊躇するものだが、マナの一撃には躊躇い等なかった。


 サリエの背にぞくりとする快感が這い上がった。それは久しく忘れていた快感である。


 もし機会があったらギフトや、それにトレジャーとやらも使わず、あのマナという女と手合せ願いたい。


 それはサリエの戦士としての欲求。


「お前が余りに阿呆すぎて頭が痛いんだよ、この薄ら馬鹿の××××!!」


 最後の一言は余りに下品過ぎて、シエルもサリエもラヴィンもどういっていいのか解らなかった。トッティだけが意味が解らずに、ただその怒号の激しさに目を見張っている。


 この怒り方、母さんともサーヤ様とも違う。

 馬鹿で馬鹿で馬鹿で可愛い奴と思っていながら不器用すぎて手が出てしまう。憎悪も冷たい怒りもない。呆れと愛おしさがあるのみだ。


 それは不思議な怒り方だった。

 本当はそんなに怒っていない。

 習慣のように彼に対してはこのようにふるまってしまうのだろう。


「~~~~!!」


 ラグーシャが鼻を押さえたまま唸っている。


 開けた扉の近くに跪きながらトッティはマナを見た。


 サーヤ様の時みたいに『視えたら』良いのに。


 そう思いもするがそれが叶わぬ事もトッティには解ってしまう。マナを『視る』だけの力を『今の』自分は持っていない。


「シオン様、わたくしめはそろそろ警護の任に戻りたく思います」


 この気まずい空気の中そう言ってのけたラヴィンは勇者だとシエルは思った。有難い。お蔭で自分も喋る事が出来る。


「よく頼む。任せたぞ」


「は!」


 ラヴィンが辞去の挨拶をした途端、時計の鐘がなった。鐘のなる時計はこの部屋にしかないのだが、これが案外便利である。時間の経過を忘れやすい性格の主には。


「朝食の時間だな。もうすぐ料理が運ばれてくる。あちらの窓際のテーブルへ」


 トッティは跳ねるように部屋の反対側に駆けていくと大きな箪笥からリネンを取り出す。幾種類もある見事なリネンの内、トッティはすぐさま一枚を選び出した。


 それはヴィラリーカでは輸入一筋の高級品、葡萄が茂っている果樹園を、白い布地に光沢のある白い糸で縫い取った物であった。


 葡萄は一房に沢山の実がなる。

 それ故子宝を望む者達、また商いや大事な会談が上手くいくように望む者達が好んで使う意匠であった。

 この一房に生る実のようにたくさんの希望が生りますように。


 トッティは一房どころか幾房も連なる果樹園のリネンを選んだのだから、すこぶる強欲だ。だが、リネン一つにしろ願い事を懸けたくなる位、彼女はシエルの将来の幸せを祈っていたのである。

そのリネンを持って、トッティは部屋の端までかけると大きな大きなテーブルにそのリネンを広げ、この会食が上手くいくように願った。


 でもシエル様がいくら側近だとおっしゃってくださっても召使風情が同席していいのかしら?

 思ったがすぐに腹が鳴り、マナが笑った。


「健康的じゃないか、お嬢ちゃん」


「でも朝起きてすぐケーキが食べられる程ではありません、お姐さん」


 ああ、言わなくても良い事を言ってしまったと口にした瞬間に青ざめるトッティに、しかし、全員が笑って見せた。


 シエルの微笑、サリエの苦笑、それだけならトッティも納得出来るのだが、どうもマナに想いを寄せているらしいラグーシャが鼻を押さえながら笑っているのも、肝心の、朝からしっかりケーキを食べたマナの柔らかな笑みも理解出来ない。


 そんなマナは笑ったままトッティに話しかける。


「あんた、面白い子だねぇ。どうせ正直すぎて嘘吐けなくて世渡りが下手で、でも可愛がられるタイプだろう」


「多分、概ね当たっています。主人には可愛がって頂いておりますし」


 またしてもとてつもなく正直にトッティは答えていた。


「だって嘘を一つ吐けばその嘘を守るために幾つもの嘘を重ねていかなくてはならなくなるじゃありませんか。そんな無駄な事はしたくありませんから」


 おや、と、マナは片眉を器用にあげた。ラグーシャが驚いたように息を呑む。トッティの言葉はマナの口癖だ。


 マナの月の瞳がじっくりとトッティを観察した。その瞳が朱金の瞳を捉え、そして。


 マナは誰にも知られないように息を呑んだ。


「あたしと同じ考えの持ち主なんだねぇ、あんた。気に入ったよ。それによく見たら小さな頃のあたしの姉さんに……そっくり」


 ある言葉を隠しながらそれを呑みこむように、マナは囁く。


 え? とラグーシャが声を上げる。


「あんた、姉貴いたの? 嘘?」


「……いるよ。あたしの愛しい片翼。大事な『あの人』」


 うっとりとした顔でマナは言った。視線をトッティに固定したまま。


「『あの人』って、姉貴!? 男じゃなかったのかよ!!」


 ラグーシャの素っ頓狂な言葉に対する返答として、マナは彼の頭に拳骨を食らわせた。


 それを見たサリエは思う。

 拳めり込ませる勢いで殴った!


 敵ではなく味方をこうも見事に攻撃出来るという意味でサリエはマナを尊敬した。手加減出来ないのと出来るのにしないのとは違う。


 サリエの結界内に料理人達が踏み入る。それらを感じながらサリエは少しラグーシャのトレジャー『絡新婦の巣』が羨ましくなった。サリエの結界では誰が侵入したかという事は解るがその人間の感情の機微までは解らない。二つの力が合わされば完璧なのに。


「マナ、そんなにトッティは貴女のお姉さんに似ているのかい?」


 シエルの問いにマナは頷いた。


「実際今まで気付かなかった自分が信じられないよ。小麦の穂の髪も、朱金の瞳も小さな頃の姉さんそっくり。一応仕事だからね、貴方にばかり注目していたという訳さ、シエ……シオン」


 言い換えたのは料理人たちが部屋の扉を形ばかり叩き、さっさと入ってきたからだ。


 熱い料理は熱いうちに。

 最高の味を提供するのが仕事と考えているレプリオール家の料理人の料理は確かに素晴らしいのだが、いかんせん堅苦しい王宮で育ったシエルには彼らが奔放に見える面がある。


 弾かれた様にトッティが動き出そうとするのをシエルが制した。


「リネンの準備だけで良いっていつも言っているだろう? カトラリーの準備などは料理人に任せておけば良い。全く、君は動いていないと落ち着かない子猫みたいだな」


 細い手首を握りしめながら、シエルは言う。


「解りました、解りましたから離して下さい」


 頬を染めたトッティの懇願にシエルは名残惜しそうにその手を解放した。


 捻れば折れそうな手首だった。


 シエルにとってトッティは特別だった。


 それは自分と同じ『忌み児』と呼ばれる存在だからかもしれないし、嘘を吐くことができないという不器用でありながらもこの上なく尊い美質の所為かも知れないし、幾ら櫛を通してもつんつくと跳ねる麦藁髪の所為かも知れないし、ほんの時折だが何もかも見透かしているような光を湛える朱金の瞳の所為かも知れなかった。


 恋かどうか知らなかった。

 ただ彼女が欲しかった。

 傍にいて笑っていて欲しかった。


 だが、それはもう無理だという事がシエルには解ってしまった。


 シエルは玉座に上がるから。


 兄であるレイが玉座につくと信じて疑わなかった頃が懐かしかった。暗殺者への対策を講じるたびにこれだけの人間がレイを持ち上げるのであれば自分にとっては相変わらず玉座は遠いものであると思わざるを得なかった。


 そしてそれで良かった。


 天帝の宣旨が下り、レイが玉座についたなら自分はまた元の気儘な生活に戻れるものだと信じて疑わなかったのに。


 勿論レイが玉座についても、子供を生すまでは自分の王位継承権は一位という事になり王太子と呼ばれる事になるだろうから少しばかり窮屈だろうけれど。そう思っていたのに。

 父上はまだ御壮健でいらっしゃるのに、次の王位の件でこんなに揉めて。


 そして天帝の使者はレイが玉座につく事を否定した。


 ならば自分が父の跡を継がなくてはならないだろう。天帝はそう宣旨を下さるだろう。種馬にされる可能性も無い訳ではないが。


 だが、未来に王位が控えている以上、シエルはトッティを手に入れられない。


 この想いは遊びでは済まないだろうから。


 テーブルの上に展開される料理を見ながらシエルはこっそり溜息を吐いた。

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