序章・かくして幕は開ける
「おや、これは麗しのマナ。月の綺麗な夜に貴女と出会えるは、はてさてこれは運命の調べ。遂に『気紛れ月が守護する夜の愛児』たる貴女がこの身に嫁してくれようというのか、千の酒樽を開けても祝うには足りぬ」
滑稽な台詞回しで長身の女に礼を取るのはこれまた長身の男。年の頃は二十歳かそこらにしか見えぬ愚者の中の愚者。
短く切りそろえられた新緑の髪は月明かりに照らされ、闇の中でも鮮やかに見える。そしてその琥珀の瞳は、しなやかな獣のような貪欲さと無欲さを共に湛えている。
麗人と言っても良い。だがその容貌を持ってすら追いつけぬ更なる美の化身たる女、マナと呼ばれしその女は、微かに笑った。
「ふざけんじゃないよ、『愚者の王』ラグーシャ。また酔っているね。酒臭いったらありゃしない。近寄ったらその尻蹴っ飛ばすよ」
マナは美しく波打つ銀髪を掻き上げながら心底鬱陶しそうに言う。本当はそこまで鬱陶しい訳でもないのだが彼はすぐ調子に乗るのだ。だからこれ位きつめに言っておかないと駄目なのだとマナは思っている。
青年──『愚者の王』ラグーシャはその琥珀の瞳を大きく見開いた。
掻き上げられたマナの髪が絵具でもぶちまけたかのような深紅に変わっていくのを見て。
ラグーシャにとってマナ──それは真名ではないが──の総てが神聖なるものだった。
美しくも残酷な夜の女王。月が守護する『映し世』の華。
腰まであるうねる髪も、長い銀の睫毛に覆われたその瞳も、月神の祝福の証である銀。
その髪の毛一本ですら愛おしいのにその髪の色を染め変えてどうするというのか。
人の年齢で言えばマナはラグーシャに比べ五つほど年を重ねているが、その実は彼の倍以上生きている佳人の、その意図が解らない。
「道化の真似事でもすると仰せか。月の恵みたる銀の髪を染め変えるなど」
ラグーシャの酔いはこの時点で既に冷めていた。酒樽を三つもあけての酒宴の末に、酔って火照った体を冷まそうと一人になった瞬間、マナがその場に現れたのは何たる幸運かと思ったが、今は不機嫌とも怒りとも不快ともいえぬ不思議な感情に支配されている。
ラグーシャはたとえマナ自身の手によるものであろうとも、その美が損なわれるのは嫌だった。彼は彼の総てをかけてマナを愛していたのだ。乞われるのなら命などくれてやっても構わないと思うほどに。
そんな心に悩まされるラグーシャを見てマナはくすりと笑った。
マナの耳には、ラグーシャの語る恋は酔っ払いの戯言にしか聞こえなかった。それ故いつでも彼女は彼には残酷だった。
「──『銀』だとね、まだ『あの人』に似過ぎているんだよ。『現世』でそれはまずいからねぇ」
月の光を湛えた銀色の瞳をラグーシャに向けてマナは言う。
『あの人』の名が出てラグーシャは一気に子供の様になってしまった。
マナ。マナ。美しいマナ。
貴女の心にはいつも『あの人』がいる。
俺を見てほしいのに。俺だけのものになってほしいのに。
「この色も似合うだろう? 飴玉を取り上げられた子供のような顔をするんじゃないよ」
深紅に染まった髪を風になびかせながら言うマナにラグーシャは噛み付く。
「俺はいつまでたっても子供なのか!? 確かに初めてあんたに出会ったときは十二の餓鬼だったけど!! もう五百年以上前の話じゃないか。今は大人だ!」
勿体ぶっていた口調が普段のラグーシャのそれに戻るとマナは再び笑った。口元を歪め、皮肉を含んだ表情は、しかし、どこか面白がっている。
「まだまだ餓鬼だよ。あんたはあたしの半分も生きていない。『映し世』で『愚者の王』の称号を得ようともね」
きりきりとラグーシャは歯を食いしばる。
出来る事なら先に生まれたかった。餓鬼と呼ばれる度にそう思った。だが年齢ばかりは神々の領域だ。『映し世』に住まう者達にもそれは変えられない。例え月神の加護受けしマナでさえ過去は変えられない筈、である。
おやおや、小僧が破裂しそうな風船みたいになっているねぇ。
そう思いマナは目を眇めた。
ラグーシャの事が憎い訳ではない。彼をこの『映し世』に連れてきて教育したのは彼女なのだから。だが、百年を経ずして彼はマナを口説き始めた。それが鬱陶しいだけだ。
あたしには色恋程縁遠いものはないんだけれどもねぇ。
それはマナが遥か昔、愛しい片翼と違う世界に生きることを決めてからずっと思ってきた事だった。
『映し世』は『現世』に住まう人間に『鏡の向こうの世界』や『影の世界』、『月の向こうの世界』などと呼ばれる、近くても人の力では絶対に来ることの叶わぬ世界の事を言う。
選ばれたものだけが導かれ此処で暮らす事を許される、『現世』に限りなく近い世界。
「それよりラグーシャ、あんた、こんなところで何をしているのさ。酒臭いところを見るとまたしこたま飲み遊んでいたんだろう? 違うかい?」
ラグーシャは嘘を吐くつもりはなかったが本当の事を言ってまたマナに呆れられるのも嫌で質問を質問で返した。
「あんたこそこんなところで一人でなにしてんのさ!? 誰も代わりがいないマナ、月が初めて選んだ愛児が!」
「そういう馬鹿な事を言う奴がいないところへお忍びに行こうと思ったのさ」
マナは嘘を吐かない。
嘘を一つ吐けばその嘘を守るために幾つもの嘘を重ねていかなくてはならなくなる。
だからマナは嘘が嫌いだ。
ラグーシャはそれを知る故、驚き唖然とし、そして次にマナの右腕にしがみ付いた。
「こら! 蹴っ飛ばすって言っただろうが!」
「『現世』に行くんだったら連れて行ってくれよ! 俺もう五百年以上帰ってないんだぜ」
振りほどこうとするマナにラグーシャは真剣に懇願する。最近マナがしょっちゅういなくなる事は『映し世』中で話題になっていた。だがまさか『現世』に行っていたなど……!
だがそれはあり得ることだ。『現世』にはマナの『あの人』がいるという。ラグーシャも一度としてあったことのない『あの人』が。
「もう、すごい馬鹿力だね、全く」
「振りほどきたいのならギフトでもトレジャーでも好きなだけ使うといい! 俺は絶対惚れた女の腕を放す気はないけれどもな!」
マナは肩をすくめた。
ラグーシャは本気らしい。
マナにはラグーシャの焦燥が解らない。
マナが『現世』に逢瀬に通っているのだと固く信じている子供の焦りなど解ろう筈もない。年を重ねていても、否、重ねているからこそ解らぬ真もある。
「んもう!! 解ったから放しな!」
そういうとマナはすらりとした長い脚でラグーシャの向う脛を蹴っ飛ばした。
「いっ……!」
呻くラグーシャにマナは指を突きつける。その指の先、形の良い爪を彩る色も銀だ。
「約束が二つ。あたしの言う事には絶対服従! 酒は飲まない!! 守れるというなら今回だけは連れて行ってやってもいいよ。でも行ってどうすんのさ。あんたの家族なんてとっくに転生していると思うよ」
「……いいんだよ」
己の血脈になど興味はない。
そこにマナが行くなら、自分も行くだけだ。
自分は彼女と共に在るべき存在なのだから。