初冬の夜、金木犀の香に。
ビールが無くなった。
冷蔵庫最上段の味噌の奥に横たわっている、銀色の缶を取り出す。軽薄なアルミに触れた指先は、その中身が芯まで冷え切っていることを伝えてくれた。
指先の主は、カラカラに乾ききった中身とはいえ俺はまだここまで冷え切ってはいまい、などと心中で苦笑しながら、贈り主である実家の母の顔を思い浮かべていた。
洗濯機からは、今日という一日の汗と垢と思い出が振り絞られ、渦巻き、分子にまで分解され、低い重低音を伴って漏れ出している。
アルミ缶のプルタブをおもむろに引く。プシュッ、絶頂にも似た圧縮炭酸ガスの噴出は、周囲1メートルではあったが、そんな台所の倦怠を瞬時に振り払った。
湯飲みに焼酎を注いだ。
ツーフィンガーと言えばウイスキーであろうが。すらりと綺麗な指をしていますね、ピアノでも弾かれているのですか、などと言われたのは一体いつのことだったろう。無為に重ねた日々を浅黒い罅と皺として刻み込んだ二本の指をそっと撫でた。
アルミ缶の中身はノンアルコールビールだった。
缶を傾けそっと湯飲みへと注ぎ込む。細められた瞼の隙間から投げ掛けられた憂鬱と希望が細かな泡を織り成し、薄茶色の表面で弾けては消えてゆく。
突如、甲高いブザーが空間を切り裂いた。それは水流と化学によって清め正された衣類たちが、この世界に再生されることを望む声だった。
小石と土がむき出しの庭。小さな体操服が混ざった色とりどりの洗濯物を抱え物干し竿に向かう母の背中が、透き通った陽光と、なぜか金木犀の香りとともに立ち上る。
ああ、母はすでに脚を悪くし、父は眼を患った。幼きあの日は、もう戻らない。
急速に滲んだ視線の先には、
湯飲みに入った麦焼酎のノンアルコールビール割り。
ビールのようで、ビールではない紛い物に我が身を重ねながら酔い耽った、初冬の夜だった。