第一話「英雄、あるいは悪魔の卵たち」
世界は、乱れのない、完璧な球形でなければならない。
つるつるとした表面が、美しい平和を照り返すような、そんな世界でなければならない。
もしも乱れが生じれば、世界の自浄作用によって、乱れはヤスリで削られるようになくなってしまう。そぎ落とされてしまう。
そぎ落とされた乱れは、風に吹かれて、散り散りに飛んでゆく。
世界からいなくなってしまう。
けれど――
ときおり、宙に舞うクズが、寄り添うときがある。
寄り添って、手を取り合って、歩んでゆこうとすることがある。
死にたくないから。生きたいから。
ただそれだけの、けれども一歩を踏み出すには十分な理由で、クズたちは明日を目指す。
――これは、そんな、世界からそぎ落とされたクズたちのお話。
■
命の危機、というものを生まれてこの方感じたことがない。
そもそも、死ぬということがどういうことなのか、ぼくにはよくわからないのだ。
人は生まれると、やがて年老いて、死んでゆく。
これは自然の摂理、世の常識とかいうやつで、誰にとっても平等だろう。
けれども、死というのはそれだけじゃない。
たとえば、事故死。
たとえば、病死。
たとえば、他殺。
たとえば、自殺。
命が途切れる、という事態を引き起こすパターンというのは数余りあるわけで、要するに、ぼくらの世界には死に直結する危険が満ちている、らしい。
らしい、というのは、ぼくにはそれがどう「危険」なのかわからないからだ。
まあ、それがどういう意味なのかは後々説明するとして――
まずは、この目の前で繰り広げられている飢えた獣どもの醜い争いを、どうにかしなきゃならないだろう。
ひとりは、灼熱の赤――燃え滾るような紅の髪を振り乱す、肉感的な美女。
豊満な体のラインを強調するタイトなシャツ一枚に、下半身もまたぴったりとしたデニムをはいているだけ、というシンプルな格好なのに、それがかえって彼女の野生的な魅力を引き立てている。
舌なめずりをして、鋭い凶器を手に、いままさに、獲物に飛びかかろうとしていた。
もうひとりは、氷像の青――凍てつくような蒼の長髪を背に流す、愛らしい童女。
一国の姫様もかくやというほどの豪華なホワイトドレスを、嫌味なく優雅に身にまとっている。雪の妖精のようにかわいげな頬をぷっくりと膨らませて、軽やかなステップを踏む様は、幻想的でさえあった。
その手には、銀の皿。美味しそうなローストビーフを死守しようと、美女の魔の手から懸命に逃げ回っていた。
紅の美女――名はシャルフが、腕をぐんと突き出した。
蒼の童女――名はコーダが、さっと皿を引いて、フォークの一撃をかわす。
まさに紙一重の攻防。食欲に理性をぶち壊された人間が、ここまで醜い争いを繰り広げるなんて、ぼくにはどうしても信じられない。
「チッ、ちょこまかと逃げやがって! そいつはあたしンだ、寄越しやがれッ!」
ふたたびフォークが宙を貫く。その一閃は、なにものをも貫く威力を秘めていた。
キザなレトリックなんかじゃない、シャルフの手に握られたときの食器は、あらゆる刃物にも勝る殺傷力を引き出されるのだ。
その証拠に、フォークが突き立てられたテーブルには、歯の本数分の穴がものの見事に開いていた。銃弾を撃ち込んだかのような、凄惨な傷口。これはもう貫通とは呼べない。ただの破壊だ。
その一方で――
「あなたはそれ以上食べると太っちゃうでしょ? 育ち盛りのわたしにこそ必要なのっ」
コーダはひらりと回転して、優雅に凶刃を避けた。
シャルフの振るう凶器のすさまじい威力を前にして、あまりにも落ち着き払った態度。猫じゃらしで戯れる幼子のように、皿をひらひらと回しながら、コーダは妖精の舞を踊る。
彼女もまた、危険というものを感じてはいない。ただしそれはぼくの感覚とは違って、ただシャルフにだけは負けない、という信念が恐怖の発生を押しとどめているのだ。
絶対の自尊心、ハンパな度胸じゃない。
そんな爆弾級のパワーとメンタルをもつ二人が、ここ、アンビエント強制収容所の第二食堂を戦場としていた。
「てめーはそれ以上デカくならねーだろうが! 現実を知りやが――れッ!」
「わわっと。失礼ねー、ちゃんと栄養をとればナイスバディになるもん」
「いいや、ならねーよ。あんたにゃ無理だね」
「その無理を通して道理を蹴っ飛ばすのが今風のレディーなのよ。無粋ね」
「あーそうですかい、穴でも掘ってろ、クソガキ!」
「ひらり。ふふん、あなたこそ、もっと痩せたらどう? 昨日よりも動きが悪いわよぅ」
食堂が、ますます混沌と化してゆく。
他の利用者たちは、もうこの二人の日常的ないさかいにも慣れきった様子だ。自分たちの食事に被害が出ないように、トレイをもってそそくさと退避している。
君子危うきに近寄らず。
虎穴に入るのは、いつだってぼくの役割というわけだ。
まだ虎のほうが可愛らしいよ、まったく。
「あーあー、もしもし先輩がた」と、ぼくは声を張り上げる。「そろそろ落ち着いてくださーい、食事の時間が終わってしまいますよー」
「うるせぇ、ジーン! 黙ってろ!」とシャルフ。
「ねぇジーン、この猫ちゃん、どうにかしてくれない?」とコーダ。
「誰が猫だ、猫かぶってンのはてめーだろうが!」
「かぶってないもん」
「かぶってるね、かぶりまくりだ。猫と狸と狐が、頭の上で同棲してやがる」
「動物園じゃないもーん」
不毛な言い争いを続けながら、戦闘の舞台はついに廊下へ。
アンビエントの職員たちは逃げ出し、他の収監者たちはやれやれまたか、といった様子で遠巻きから眺めるだけだ。
「あー……ちょっと、そっちはまずいですって!」
喚いたところで、止まるはずもなし。
ふたりの戦いは、まさにトルネード。
辺りに破壊を振りまきながら、自由気ままにふらふらとさまよい続ける自然の猛威。
間に入ろうものなら、そのエネルギーにたちまちばらばらにされてしまうだろう。
食欲というのは、生理的な欲求、つまりは動物としての本能に根ざすものだ。
社会的な人間の理性的な欲望とは違う。
これは、彼女たちにとっての生存競争なのだ。
生きるための戦いに口や手を出すのは、それこそ無粋というものじゃないだろうか。
そう、止めるべきじゃない。
彼女たちは、生きるために戦っている。
ぼくは間違っていた、これは醜い争いなんかじゃない。
食べ物を求めて争う、美しい姿。野生の姿。
おお、狼のごとき貪婪な眼光のシャルフを見よ。
鷲のごとき老獪な双眸のコーダを見よ。
なんて素晴らしいんだ、彼女たちはいま、生きている!
「……いやいやいや」
さすがに、いまの自己弁護はない。
この先輩二人の監督は、ぼくの仕事でもある。止めなきゃならない。
けどなぁ、無理だよ。
いま突っ込んだら、確実にフォークの餌食になるし。
前に、鉄板をぶち抜いていたところを見たことがあるし。
絶対、痛いし。
こうなれば、もう選択肢はひとつしかない。
逃げよう。とんずらしよう。
ぼくは何も見ていない。何も知らない。
こんな下らない醜態なんて、存在しない。
そもそも、あのローストビーフ、ぼくのだけど。
でも、そんな事実もなかったことにしよう。
そうと決まれば、善は急げだ。
踵を返して、自分の居室に戻ればそれで終わり――
の、はずだった。
風が、ぼくの隣を、吹き抜けていった。
黒い風だ。
目にも留まらぬ速さで、風はシャルフとコーダの間に突っ込んでいった。
「いだっ」
「あうっ」
鈍い音が、二度、鳴り響く。
ふたりは、頭を抱えてうずくまっていた。
黒い風の正体は、漆黒の毛並みの狼だ。
人間の子供よりも大きな、芸術的な造詣の黒狼。
コーダの手から離れた銀の皿を口でキャッチすると、宙を回転して見事な着地を決める。
そして、シャルフとコーダの前で姿勢を正し、
「またあなたたちですか」
と、流暢な言葉を発した。
艶やかな淑女の声だ。
「べ、ベス……!」とシャルフ。「こ、これにはワケがあってだな」
「わたし悪くないもん!」とコーダ。「ジーンがくれるって言ったのよ、わたしに。それを、この暴力女が無理やり横取ろうとして――」
「問答無用です」
ベスは、口を動かすことなくぴしゃりと言った。
いつも疑問に思うのだけれど、この声はどこから出ているのだろう。
「いかなる理由があれども、アンビエント内において争いは禁じられています。あなたがたには、罰則が課せられますので、そのつもりで」
「そんな、わたしのせいじゃないもんっ!」
「あたしひとりに罪を押し付けるな! そもそも、ジーンからまだ許可もらってなかったろうが!」
「ちょうだいって聞いたらいいって言ってくれたもんっ、わたしの頭の中に直接言ってくれたもん!」
いや、ぼくテレパシーなんて使えないんですけど。
「言い訳は聞きたくありません」
ベスはさすがに聡明だった。人間ふたりよりも、高貴な理性を持つ気高い狼だった。
紫水晶のようなふたつの瞳が、じっとシャルフとコーダをにらみ付けている。
「シャルフ、コーダ、これからすぐに所長室へ向かうように」
「……へいへい」
「……はぁい」
ふたりは恨めしげな視線を交し合いながら、うなだれた。
一件落着。
このアンビエント唯一の良心とも呼ばれるベスにかかれば、猛獣二頭もあっという間に頭を垂れる。さすが、所長の片腕だ。
「それから、ジーン」と、ベスはぼくを見上げて言った。「あなたも所長室へ」
「えっ」
「フェルマータ所長のご指名です。ふたりについて行きなさい」
「…………」
「返答は?」
「……はい」
「よろしい」満足そうに、鼻を鳴らす。
なんということだ。完全に貧乏くじを引いてしまったらしい。
所長と顔を合わせるのは、最悪な罰を受けるときと最悪な報せがあるときだけだ。
でも、どうしてぼくが。何もしていないのに。
いや、何もしなかったことを咎められるのか。
だって、ぼく、無力だし。こんな怪物級のふたりをどう止めろというのだろう。
シャルフとコーダを見ると、ぼくを指差して、お互い声を殺して笑っていた。
こういうときだけ仲のいい人たちだ。
あとで覚えていてくださいよ、クソ先輩たち。