8.忘れられない名前を
商人が再び最上階に訪れた時、あの日から七日ほどの時が経過していた。
その足は、浴びるほどのブランデーにふらついて、自分が何処に居るのかも判らないほどの意識の中で、体の覚えていた日常のままに、商人はやって来ていた。
そんな商人に少女はいつも通りに駆け寄った、少女の周りには五匹ほどの蝶が舞っている。
七日前の出来事よりも、長い間の商人のことをを大好きな思い出がある、少女はその程度の事で商人を嫌いになったりしない、そんな事よりも少女は商人居ない七日間が寂しかった、やっと来てくれたと笑みを一層輝かせた。
しかし商人は、抱きしめてはくれなかった、少女の姿に全く気が付かない、目も合わさずに長椅子に倒れ込んだ。
少女は長椅子に走り寄り、商人の体を力の無い細い腕で懸命に揺さぶる、俄かに意識を取り戻した商人は、少女に気が付き、いつも通り抱き寄せた。
少女は、ほっとしてその腕に収まったが次の瞬間には反射的に腕から逃れた、嗅ぎ慣れない酒の臭い、酔った勢いの強い力、唯怖かった。蝶達は逃げる様に遠い空中で少女を見守っている。
拒絶された商人は一瞬、泣いてしまいそうな表情をうかべ、頭を垂れて、眠りに付いた。
商人の眠る長椅子は、紅の布地に金糸の細やかな刺繍の施された一点もの、いつもなら商人と二人で並んで座った、商人の膝に頭を乗せると、商人は頭を撫でてくれた、少女がそのまま眠ってしまうと、ベッドまで運んでくれた、時に運んでほしくて眠ったふりをする少女に商人は笑いをこらえて、愛しい少女を抱き上げた。
その商人は今、長椅子いっぱいに足を伸ばして眠っている、そこに少女は座れない。
立ち尽くし、商人をを見つめる少女、その肩にゆっくりと蝶がとまった。
「・・・ス・・・・・・・。」
商人が長椅子の上で寝返りをうった、少女がその側におずおずと近づいていく。
「・・キプリス・・・・。」
それは商人がどうしても忘れられなかった深い海の底を閉じ込めた様な瞳を持つ、女性の名前、皺の寄り始めた頬に涙が
つたっていく。
そして少女が初めて言葉を耳にした瞬間だった。言葉の意味を少女は理解できない、しかしその言葉を繰り返そうと、言葉を発した事の無い舌を動かし、口を開いた。
零れ出すのは掠れた母音の羅列、決して言葉にはならない、それでも尚、少女は声を出し続けた。
遠巻きに見ていた蝶がそんな少女の目の前でひらひらと舞ってみせる、少女を慰める様に、また踊ろうと誘うように、少女は声を出すのを止め、ゆっくりと蝶に手を伸ばす、あまりにも緩やかな動きに蝶は逃げる事を忘れた。伸ばした手は蝶の翅を掴み、力加減を知らない幼い指は、そのまま蝶を握り潰した。
少女は暫く、動かない蝶を見つめた、潰れた翅は輝きを失い、触覚が折れて無くなっている。手の中で転がし、顔を近づけ、指先で突いてみる、そして最後に蝶を口の中に入れた。
蝶の色はとても鮮やかだった、鮮やかな色を持つものは、大抵毒を含んでいる、その蝶も例外ではない。少女は重くなった体を磨きあげられた床に横たえた。