7.記憶という悪夢
ヘレナが夕食を片付け、最上階に戻った時、二人の姿は長椅子にあった。
少女について廻っていた蝶は、長椅子の肘掛にとまり、少女は商人の膝を枕に丸くなり、商人は長椅子の背に体を預けて目を閉じている。
普段、商人は寝室と最上階を違えたりはしなかった、少女をしっかりとベッドに寝かせた後、きっちりと寝室に戻り、ナイトガウンに着替え、ホットミルクを飲んでナイトキャップを被る。処構わず眠ってしまうなど、とても上品とは言えない。
しかし其の日、商人はとても疲れていたらしい。ヘレナは少しだけ顔を顰めたが、安らかな二人の寝顔に苦笑して、二人に毛布を掛けた。
商人は夢をみていた。
始めは、連想ゲームや言葉遊びの様な、意味の無い想いや言葉の羅列が只広がっていた。
揺れる炎、
炎は蝋燭に灯された、
蝋燭は融ける様に形を変え、
紅い柄の付いたペンに、
ペンを浸したインク瓶が倒れ、
辺りが黒に染まっていく、
黒は広がるうちに赤へと色を変え、
変えた先には鼠が息絶えている、
鼠は何処か流行からずれた上着を着込み、
震えだす、
気が付くと商人自身が鼠と成り、
床に倒れ伏していた、
込み上げる恐怖、絶望、
叫びだしそうになる、
其の時、
鈴を転がす様な暖かい笑い声を聞いた、
舞い降りる青い蝶、
差し伸べられた手、
顔を上げると、
青く深海の様に深く美しい瞳が、、、
その瞳を幸せで満たしたいと思った。
その瞳に涙が浮かぶなら、この手ですくいたかった。
しかしその瞳に幸せを満たすのも、涙をすくうのも、商人ではなかった。
やがて夢は、過去の再現を始めた、蘇る記憶。
其の日商人は晴れやかに顔を上げ、背筋を伸ばして颯爽と歩いていた、髪をかきあげる風が心地良い、青い瞳の君に逢う為、商人の足は更に速まった。
商人の商う商社が成功した、敵対していた貴族の事業家を潰し、彼は新たな事業家として確実に認められた、最早隠れる様に花を贈る田舎者ではない。
彼女の両親には身分が違うとずっと煙たがられていた、躾には厳しく、あらゆる迷信を信じ、下流社会の人間をとても嫌っており、娘である彼女でさえ窮屈な思いをしているようだった。彼女の両親が求めるのは金持ちの上流貴族。其処に貴方の意思は無いのかと青い瞳に問い掛けた時、彼女は黙って微笑んだが、其の微笑みは何処か儚く、泣いてしまいそうだった。
もう彼女にあんな顔はさせない、商人は手の中の小さな包みを愛しげに撫でた、貴族でなくともここまで上り詰めた自分を決して否定させない、商人は彼女の家の扉を叩いた。
彼女の両親は疲れた様に商人を見たが否定はしなかった商人は勝ったのだ、身分に、迷信に、偏見に勝利した。
勝利の高揚感の中、商人は彼女の前に傅き、持っていた包みを解いて蓋を開け、差し出した。中には深い青の石をはめ込んだ指輪が輝いている、想いを伝える為にずっと考えてきた言葉を添えて。
しかし、彼女は何も言わなかった、商人が顔を上げると瞳はおびえて震えていた、あんなに涙をすくう事のできる存在になりたいと願ってきたのに、彼女の瞳を潤ませる涙は商人が齎したもの・・・・・伸ばした手は払いのけられ、空を掴んだ。
―ナゼ。
目を覚ますとそこは誰も知らない最上階、商人は息を吐き、額の汗を拭う、広い空間の一角に置かれた長椅子で眠ってしまったらしい。
部屋の中に点々と置かれた家具達はそれぞれにひとつの空間を作り出し、壁の無い部屋が集まっている様。
ヘレナが掛けたのだろう、毛布が体を包んでいた。
片膝には、少女が小さな頭を乗せ、丸くなっていた、微かに聞こえる寝息。肘掛には、蝶が少女に寄り添い、光る翅を休めている。
ここに在る全てが自分のモノであるのだと言い聞かせる様に、商人は少女の透き通る様な白い頬をなぞった、震える指、拭いきれない不安と恐怖、夢現の頭がゆらりと視界を歪ませた、眺めていた少女の姿が一瞬歪んで見えた。
絶えられなくなり、弾かれた様に少女の体をかき抱いた。少女の体が蜃気楼の様に消えてしまう気がした、だから強く、もっと強く・・・もう何処にも逃げてしまわぬ様に。
突然の事に目を覚ました少女は体を押しつぶす様な強い力に驚き、身を捩る。
少女にしてみれば唯苦しかっただけ、しかし商人は拒絶されている様な絶望に駆られ、さらに腕に力を込める。肩が砕かれてしまいそうなその力に、少女は悲鳴をあげた。
悲鳴に驚き、商人は腕の力を緩めた、少女は商人の膝から転がり落ち、靴音の良く響く冷たい床に叩きつけられた、痛む肩を抱え、荒い息をする少女に、商人は慌てて手を差し伸べる。
しかしその差し伸べられた手に、少女はびくりと体を震わせて身を縮め、瞳に怯えを映した。
―嫌っ!!
再び蘇る遠い記憶、頭の中で響く声、目の前で蹲る少女の瞳と、あの日恋焦がれた女性の瞳が重なる。
時が止まってしまった様に、動けなくなった・・・・・。
商人を助ける様なタイミングで、扉が静かに開いた、ヘレナが朝の食事を運んできたのだ。
商人は、はっと我に返った、今日も大きな商談が待っている、商人は立ち上がり、逃げる様に部屋を出た。
今の商人にとって少女は、最も愛おしく、最も恐ろしい・・・否、最も愛おしく、恐ろしい記憶を映す鏡。
青い瞳の女性を忘れるため、逃れる為に作られた最上階、
選りすぐりの調度品、
雇われたヘレナ、
放たれた蝶、
買い取られた少女。
それは愛しさの全て、しかしそれは剥がすことのできないトランプの表と裏の様に、同時に恐ろしさの全て。
残された少女の側に、気遣う様に蝶が寄り添った。