5.誰かに似ている
白い石壁には規則正しい彫刻、其の建物を取り囲む様に並ぶ石柱は幾千もの時を刻んだ樹木の様に、建物を支え、守っている。
宮殿、其れを外から建物として認識するのは難しい、見上げても見渡しても、高く広く伸びた石壁と石柱、人間の小さな視点からは壁が広がるばかりで壁に沿って一回りするにも馬車が必要な建物。
其の日、其の時刻、宮殿の正面には幾台もの馬車が集まっていた。
馬車からは色鮮やかに着飾った人々が降り立ち、大きく開け放たれた扉に吸い込まれていく。
商人は、馬車の小窓から其の様子を眺めていた。様子を窺うにせよ、速やかに馬車を降りた方が良い、まだまだここへの客人は現れる。馬車の止まる場所を空けなければ邪魔になってしまう。既に止まる場所を探す馬車が見えた、商人は大きく息を吸い込み、意を決して扉を開いた。
商人は夜会が嫌いだった、最上階の外に在るもの全てをを嫌っていた、貴族達に愛想良く話し掛け、流行事の話題に相槌を打つ。
其の日は朝から予定が詰まっていた為、疲れもあってか相手が何を言っているのか殆ど聞こえていなかった。其れに気付く事無く、上機嫌で熱弁を振るい、シャンパンを傾ける貴族。しかし商人の肩越しに何かを見つけて声を低くした、”田舎者が現れた”。
貴族の視線を追うと其処には、真新しいというのに何処かズレを感じる紫の上着を着込んだ若者。
慎みも遠慮も無く子栗鼠の様にきょろきょろと夜会会場を見回している、如何にも余所者で、周りの遠巻きからの視線に全く気付いていない。
―――似ている。
商人は無意識に口元を覆った。
何処かの誰かに、
思い出したく無い誰かに良く似た青年。
商人は顔を顰めた。
熱弁を振るっていた貴族は、場違いだ、昔ならこんな事は許されない、と低くも、聞こえても構わないといった声音で商人に囁き続ける。壁沿いに固まった貴族達も似た様な事を囁き合っている。
若者の目には何が映っているのだろうか、其の瞳は自信や希望に満ちている、貴族達の囁きは届いていない。
商人は目を逸らし、シャンパンを煽った、夜会会場の熱気や酌み交わす酒に、ほろ酔い気分だった頭が急激に酔いを醒ましていく、煽ったシャンパンも意味を成さない。
商人は気分が悪くなったと貴族に伝え、早退する事にした。貴族は、きっと田舎者の空気の所為だろうと皮肉を交えながらも笑って商人を送り出した。
商人が出入り口の扉へ向かうと、先程入ってきた若者と必然的に擦れ違う形になる、あまり近付きたくなかったが、酔いの醒めた頭は本当に気分が悪く成り掛けていた。深く息を吸い込み、歩みを速めて通り過ぎ様とした。
しかし其の時、目の端に光る物が映った、そして次の瞬間には、若者の体がバランスを崩した。
商人の立っていた場所からは、傾いていく若者の姿が、其の表情まで良く見えた、不意に起きた出来事に何が起きたのか分からないといった表情で、目を見開き、体を支える為、掴まる物はないかと反射的に手を宙に彷徨わすが、彼の周りには何も無い。
若者の体は、鈍い音を立てて、磨き抜かれた床に倒れ込んだ。
犇いていた囁きの中に、嘲笑が細波の様に広がった。群集という一つの生き物と成り、若者を見下ろす。
商人は、眩暈がした。若者から目を背け、会場を後にする、馬車に乗り込んで窓の布を閉め切り、自分の体を抱き締める様に肩に手をあてた。
先程までの喧騒から漸く解放され、自分独りの静かな個室、やがて軽い鞭の音と馬の蹄が石畳を蹴る規則正しい音が聞こえてくる。商人は額の汗を拭った、拭ってしまってから自分が素手で汗を拭っていた事に気が付き、慌ててハンカチを取り出した、素手で汗を拭くなど田舎者のする事。
”田舎者”其処まで考えて商人は汗を拭く手を止めた、取り出したハンカチは染み一つ無い、きっちりとアイロンが掛けられて皺も無い、清潔感に溢れた白いハンカチ。
商人は青みがかった顔色のまま、口元を吊り上げた、同じだった商人もあの若者と同じ田舎者、少年時代には、汗を拭くためだけの布切れなど、見た事も無かった。
そんな田舎者を貴族達は、先程の若者と同じ方法で歓迎した、若者が倒れる前に、商人の目の端に映ったのは、磨き上げられた銀、杖の先端。
偶然では在り得ない、悪意を持って若者の足元に差し出され、其の足を絡め取った瞬間。田舎者を転ばせるために。
倒れた若者の姿が蘇る、差し出された杖の意図を漸く悟り、動けなくなった姿に、商人の過去が重なった。
地に伏す田舎者、大理石の床に映り込む呆然と見開かれた目、顔を覆う様に無様に乱れたブラウンの髪、其れは若き日の商人。
初めて夜会に出席を許された日、会場の建物の美しさに胸が躍った、吊るされたシャンデリア、階段の手摺に施された彫刻、漂う香水の香りと上品な笑い声。
憧れた、其の世界に辿り着こうとどれだけの者を踏み台にしただろう。
しかし、倒れ込み、伏して初めて、床に付いた無数の傷や醜い汚れを見付けた、頭上から降って来る嘲笑は確かに上品で、大口を開けて笑う者など一人も居ない、しかし凍り付く様な蔑みの込められた笑い声。
商人は立ち上がる事が出来なかった、誰にも顔を見られる事無く消えてしまいたかった。
―――立てますか。
それでもあの日、商人を助け起こした手は・・・・。
馬車が大きく揺れ、商人は、はっと我に返った。邸宅に到着した、早く少女に会いたかった。