1、序
ある国のとある郊外、時刻は夕方を少し過ぎた夜との狭間。
長い長い商談を済ませた一人の商人が、その郊外の一角を移動している、その商人の行き先は自らの家、それは帰宅であり今日という一日が間もなく終わるのだという安息のひととき。
馬車に開いた小窓、そこに掛けられたの布を閉め切り、外の世界を遮断した商人は小さく息を吐いた。
色の濃いブラウンの髪は癖無く額を緩く隠し、眉間に皺を寄せた面立ちは40代の中年にしては若く見える、近付いて見れば目元には小さな皺が刻まれており、若者とは言い難いのだが、彼の纏う空気や仕草に何処か若さが感じられた。気だるげに目を伏せ、組んだ足に頬杖を付く、顎に添えられた指には財力を誇示する高値の指輪が嵌っている、それは何処か幼さにも似た若さ。
やがて御者が手綱を引いた。心地よいリズムに揺られていた商人の体に浮く様な力が掛かり、軽く傾いた。商人は馬車を降り、貴族が目にすれば嫌味を囁きたくなるような広さと美しさを誇る邸宅へ。
その建物こそ、彼の商人としての権力、地位、努力の象徴だった。
さらに夕食などを済ませ、彼が足を向けるのは、その邸宅の一室に隠された彼の安らぎ、寝室の隣の書斎、その奥から二番目の南の書棚の裏、そこにある階段を登り切った先の扉を開く。
そこは、在るはずの無い最上階、外観からこの空間の存在の確認は難しく、中で働く使用人達もたった一人を除いて、それを知る者は居ない。
区切る事無く一間としてとられた部屋は、小さな劇場ホールほどの広さ、窓は全て重々しい鎖と南京錠で固められ、壁伝いに立ち並ぶ無数の燭台が時折ゆらめくオレンジの光をなげる。
商人は硬い靴の音を響かせながらその部屋の一角に置かれたベッドへと近寄る、そこにはその体には大きすぎるほどの毛布に、体をうずめた少女が無防備でやすらかな寝顔をさらしていた。
日の光を浴びたことの無い肌が大理石の様になめらかに、陶器の様に優しく蝋燭の光を受ける、流れる様な金髪は、ゆるく波打ちながら少女のか細い肩を守るように隠している。
商人は少女の頬をそっとなでた、長い睫毛がぴくりとふるえ、ゆっくりと瞼が押し上げられると、そこには澄みきった深い海の底の様な、透き通る青い瞳が現れる、その瞳に商人の姿が映りこんだ瞬間、少女は瞬く間に眠気を忘れて笑みを浮かべ、人形の様な細く白い腕を伸ばして商人の肩に抱きついた。
半日ぶりの再会、
少女こそが商人の安らぎの全て、
ここは少女と商人だけの世界、
商人の持ち物の中で最も安く、
商人の持ち物の中で最も大切なもの、
少女は金貨一枚で買い取られた赤子。