第8話 バレンタインデー大戦争
この日、2月14日は男子にとって一年で最も張り切るべき一日である。だが、貴島浩輔と日暮蓮は、また違う意味でこの日を迎えた。
「羽山にチョコ? どうして俺が」
「りんに渡すもの? もちろんチョコじゃないよね」
バレンタインデーは男女かまわず好きな人にチョコを渡すのが主流のこの時代。男子もそこそこの値のつくチョコを片手に好きな女子の元へと行くのが普段の光景だった。だが、二人の場合は少し違う。
「本人に渡せよ。俺は便利屋でもなんでもないんだぜ?」
「りんにチョコ渡すのは僕一人で充分だから。ほら、そのチョコは早く捨てて」
貴島は迷惑そうな顔で群がる男子を追い払う。日暮はりんの元へ行こうとする男子を片っ端から捕まえて恐喝していた。貴島の元へは、りんにチョコを渡してほしいという男子が集まっている。日暮に信頼されている貴島なら、あの恐ろしい番犬の目をかいくぐってりんへチョコを渡せるだろうという作戦だ。
だが、その作戦はことごとく失敗している。
「はぁ……あんたらしつこいんだよ。俺に頼るより本人に渡した方が早いと思うけど」
「まぁ、貴島は見逃しても僕が見逃さないから」
笑顔で言われた方が怖かった。日暮がりんに好意を抱いているのは、近頃の彼の行動を見ていれば一目で分かる。人前でも「りんが好き」と公言し始めたのだから。その度に貴島から「無駄な努力だぞ」と忠告されるのだが、日暮はおかまいなしだ。
「……ねぇ、日暮」
教室で本を読んでいたりんが顔をあげた。すると、廊下にいた日暮は瞳を輝かせてりんの元へ飛び込んでいく。
「なんであんたが私へのチョコ制限してんの。甘いものの収穫日なんだから、邪魔しないでよ」
「へっ……?」
予想もしなかった言葉に、日暮は固まっている。
「日暮、だから散々言っただろ。羽山に気持ち伝えても無駄だって」
貴島は同情の眼差しを日暮に向ける。
「羽山はな、毎年一番チョコ貰うけど、告白の返事はおろかホワイトデーに何も返さないそりゃー冷たい女なんだよ」
「貴島、その言い方は失礼だよ。私が作ったチョコ食べたら皆お腹壊しちゃうから、あえて何も返してないんだよ」
二人のやり取りを聞いていた日暮は、ショック状態から少し回復する。
「つまり、相手が心配だから何も返さないってこと?」
「少し違うかな。面倒くさいのと、別にその人が好きじゃないから」
相変わらずはっきりと物を言う小娘である。
「じゃ、ホワイトデーにりんから何かしら返事を貰えた人はりんと付き合ってもいいよって事?」
多分、いやクラス中の男子の視線がりんへ集まった。
「う〜ん、そうなるかなぁ」
その瞬間、戦争は始まったのである。
「あ、移動教室か。貴島、行こ」
「おー」
貴島は理科の教科書を片手にりんの後に続く。移動教室の時や放課後は、貴島と一緒にいるのが普通の光景になってしまったので、もうこれには慣れた。だが、貴島も男である。密かにチョコを狙っているのではないかと、男子の誰もが疑った。
「貴島……僕より先にチョコ貰うなんて許さないからなぁ……ちょっと待って、りーちゃーん!」
日暮がドタバタと教室を出ていった。残された男子は視線をりんのロッカーへ向ける。女子はそれをおもしろくない顔で眺めていた。
「なにあれー、当然みたいに貴島と行っちゃうとかさー」
「ほんっと、お姫様気取ってるよねぇ」
ありがちな事である。だが、りんは自分がどう思われていようがあまり気にしない人だ。
それが解っているクラスメイトの女子は、ニヤリと口角をあげる。
その後、油性ペンを持った女子が行動にでた。
「……はぁ」
移動教室から帰ってきたりんは、自分の机を見てため息を一つついた。
さすがにこうハッキリと虐められては、心も傷つく。
「……調子にのるなって言われても、ねぇ……」
机の隅に、そう書かれている。授業中は教科書で隠れるような場所だ。わざとこの場所に書いたんだろう。
しかも油性ペン、かよ。
擦っても落ちない。りんはチラリと後ろを振り返った。クスクスと笑っている女子のグループが視界にはいる。
「……はぁ」
だからバレンタインデーは嫌いだった。なぜかこの日を境に、女子達の態度が悪くなる。
しばらくは貴島や日暮とは距離をとったほうがいいんだろう。
「羽山、次美術だよな」
「りーちゃん、行こー!」
笑顔でりんを誘う日暮。りんは、それを丁重に断り、貴島の前をスルーした。
変だと思った貴島は、りんの机を見る。そこに書かれている文字を見て、りんの気持ちを察した。
なんだかんだ一緒に過ごしているうちに、りんの性格はわかっているつもりだ。日暮にもそれとなく事情を伝え、納得させる。
教室の端でキーキー騒いでいる女子達を見ると、誰もが不満そうな顔をしていた。
「……日暮、行こうぜ」
「んー」
不満そうな顔をしている輩がここにも一人いた。だがそれは無視して、引きずる様に美術室へ向かった。
「……日暮、今、羽山と一緒にいないほうがいいぞ」
「んなのさっきの落書きで解ってる。でも、女子ってどうしてこうも恐ろしいんだろうね」
「さぁな」
美術の内容は、二人組でお互いの顔をスケッチするというものだった。
チラリとりんの方を伺うと、その辺にいる女子の顔を描いてる。その女子はまだ気づいていないようだったが、さっさと描き終えたりんは居眠りをし始めた。
「せんせー、羽山さん寝てますよー?」
授業中も何かと騒がしい女子が手を挙げて言う。普段は自分がよだれを垂らして爆睡してるって言うのに。
「あら。羽山さん、起きなさい。なんで寝てるの? もう描き終わったの? あら……そうなの?」
こくこくと頷くりん。先生はそれでいいのか、それからりんを注意する事は無かった。
だが、ここでさっきの女子が行動に出る。提出したりんの絵に何か描き足しているようだ。
「日暮、行ってこいよ。目が怖いぜ」
「りょーかいっ」
日暮が立ち上がり、描き足している女子の元へ近寄っている。日暮に気づかずにイタズラを続ける女子。日暮は笑顔で「なにやってるのー?」とわざと問いかけた。女子は急いで絵を隠しているが、もう遅い。
「あ、せんせー。この人、羽山さんの絵に落書きしてまーす!」
わざと大声で言った。女子は慌てて「そんなわけないでしょッ」と怒鳴っている。
「これ酷いなぁ……なんでわざと鼻毛描き足してるの? モデルの人に失礼じゃん」
日暮も意地悪だ。わざとそんなこと公言しなくてもいいのに。
りんの方を見ると、なんとこの騒ぎにも気にせず爆睡している。
「……原田さん。放課後、職員室に来なさい」
美術の先生、ナイス。心の中でグッジョブサインを先生に送った。
そして波乱の美術が終わった後、りんはさっさと美術室を出ていった。それに気づかない女子達が、悪口を言い出す。
本人がいないのだから、いくら大声で言っても先生の耳にはいるだけだ。
ここまでくると意地なのか、女子は「死ねッ」とか「ブスッ」とか暴言を吐きまくる。その辺の男子より口が悪いな。
「貴島、もしかしてヤバかったかな」
「やり過ぎだ」
日暮は反省の意を込め、しょんぼりとしている。
だが、心配なのはりんだ。今のことで、女子達に余計に火をつけてしまった。
放課後、りんに無視された貴島は一人信号待ちをしていた。
「……貴島、おい。ここ、ここ」
いよいよ幻聴が聞こえてきたか。無視していると、背中をぽんと叩かれた。
「うおっ、羽山? なんでここにいんだよ」
「もちろん神社行く為に決まってんでしょ。いつもの事じゃん」
ケロリとした態度のりん。貴島は目をそらし、呟く。
「今日のこと、俺はけっこう気にしてるんだけど」
「あー。確かに、美術の時は思わず笑いそうになったよ」
起きてたのか。しかも人事のように笑っていやがる。
「さすがだな」
「? でもさ、あんな事で一々落ち込んでたら、きりがないでしょ」
そう言って笑うりん。
「日暮は? いつもならストーカーみたいにどこかにいんのに」
「今日は用事があるんだと」
「へー」
いま一瞬だけ日暮に同情した。本人には決して言わないでおこう。
「行こ。風の宮さん達待ってるよ」
りんが一歩前に出て、貴島の腕を掴んだ。そのまま引っ張る様に歩く。
横に並ぼうとすると、なぜかりんは足早になった。
「……羽山?」
「なぁに?」
「……いや、なんでもねぇや」
必死に涙をためている姿を見て、今はそっとしておくのが一番だと判断した。
そして、本殿についたらお菊に事情を説明してやろうとも思った。
やっぱり羽山は、16歳の高校1年生なんだと、このとき改めて自覚した。
「姉さん、ちょいと聞いて下さいよ。大京の奴、こんなに太っちまったんですよ?」
「うっわー。確かに一回り大きくなったよ。狸サイズだね」
「おい、二人して失礼だねぇ。おいらは全然太ってないやい。お菊の方が最近太ったんじゃないのかい。甘いもの食い過ぎだよ」
いつもよりテンションは低い。でも、ちゃんと笑っていた。
「しっつれいな猫だねぇ! 女子にはそういう事言わないもんだよ」
「お菊は女子に見えないよ。乱暴だし、全然おとなしくないし」
「まっ! 今度から煮干あげないよ!」
「それは勘弁しておくれよぉ……」
異変にいち早く気づいた風の宮は、煙管を懐にしまってりんを見つめていた。
そして、お菊と大京がじゃれ合いはじめると、こう言った。
「りん、無理に笑わんでいい。泣きたいのなら泣け。ほれ、来い」
「……はい?」
ドンと来い、と風の宮はあぐらのまま両腕を広げてりんを待っている。
お菊は何も言わずに、大京は「大胆だねぇ」とつぶやいていつものようにケケケケッと笑った。貴島も思わず口をポカンと開けて硬直している。自分もここまで大胆になれる日がくるのだろうか。いや、来ない方がいいのかもしれない。
「あの、急に泣きたいなら泣けって言われましても……」
「わしを誰だと思うておる。人の子の気持ちくらい、もうわかるようになったわい」
風の宮は両腕を広げたまま言う。りんは潤いはじめた目で貴島を睨んだ。
「俺は何も言ってないぞ」
「わしが察したのだ。さぁりん、恥ずかしがらず、さっさと来い」
みんなの様子がおかしいのは本殿に入ってすぐわかった。
気遣ってくれているんだろう。でも、さすがに風の宮に抱きついて泣く勇気は持ち合わせてない。
「……貴島ぁ」
「だから俺は何も言ってないって」
嘘はついてないようだ。
視界が霞み始めた。人前で涙を流すなんて、何年ぶりだろう。家族ですらここ最近涙を見せた事は無い。
「姉さん、失礼しやす」
「ぇ……わっ!」
後ろから思い切り背中を押され、自然と風の宮の腕の中へ飛び込む形になってしまった。
「捕まえたわ。ほれ、わしも誰も見ておらん、泣け」
「…………」
風の宮は放すつもりは無いのか、腕に力を込める。
いっそ声をあげて泣いてしまおうか。いやでも、貴島も大京もお菊も、なにより風の宮がこんなに近くにいる。
声を殺して泣くりんの頭を、風の宮はぽんぽんと撫でる。
「……っ、きっ、貴島っ、泣いたこと、日暮には、いわないでよっ」
「はいはい」
顔をそらして答える貴島。それを確認したりんは、ぷつんと何かが切れた。
「ふぇっ……くそぉ、何が調子に乗るなだばかぁ! そっちこそ調子にのるなってのっ……勝手に落書きしやがってぇええっ」
「おー、暴れるな。支えきれん」
「ばかばかばかばかぁっ……!!」
今日の、いや、きっと今まで隠していた涙を一度に流したりんが泣き止むには、まだ少し時間がかかった。
そして、気掛かりになる言葉が一つ。
「……どこにいんのよぉ……ばかっ」
りんが泣き疲れて眠る寸前、つぶやいた言葉。
誰かを捜していることを知らなかった風の宮達は、いっせいに目を丸くした。
でも、誰を捜しているかなんて聞く暇もなく、りんは眠ってしまった。
バレンタイン、それは男の子にとって特別な日。
密かにそれを調べておいた風の宮の、作戦勝ちであった。
はい。いままでふざけてすみません。著者、深雪です。これからストーリーは本編へと突入していきます。
これからもご声援よろしくお願いします。