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「その骨数えは無駄だ」と言った侯爵令息が、園遊会を救った傘職人へ跪き、癖ごと妻に望むまで

作者: 冬野 しほ
掲載日:2026/09/03

「その骨数えは無駄だ」


 十九本目を叩いたところで言われた。


 私は木槌を止め、式典用大傘の石突きを北へ向け直した。傘布の目印の縫い目を手前に置き、そこから時計回り。せっかく十九まで来たのに、話しかけられた以上は仕方がない。


「一本、二本……二十四本」


「なぜ最初から数え直した」


「途中で話しかけられましたので」


「私が悪いと?」


「十九本分ほどは」


 フェリクス様の眉間に縦線が一本増えた。そちらは数え直さなくても明瞭である。


 私は親骨を一本ずつ木槌の柄で叩いた。乾いた音が二十四回、工房の梁へ上がっていく。割れ、歪み、留め金の緩み。目で見える傷より、指先へ返る震えのほうが正直だ。


「園遊会まで六日しかない。いちいち数えていては張り替えが遅れる」


「数えずに張って、当日に折れればもっと遅れます」


「折れないように直すのが職人だろう」


「ですから数えています」


 会話が一周した。傘なら畳めるが、この男の理屈には留め金がない。


 フェリクス様は白手袋を握り潰していた。侯爵家の園遊会を任された者の手袋としては、すでに式典へ出せない有様だ。


 奥で鉋をかけていたハロルドが、顔も上げずに言った。


「納期が怖い男ほど、声だけは偉くなる」


「怖がってなどいない」


「ほう。なら、その手袋は絞れば水でも出るのか」


 フェリクス様は返さず、私を見た。


「とにかく急げ。その確認に時間をかけすぎるな」


 胸の奥へ、木槌では確かめられない鈍い音が落ちた。


 私は返事の代わりに石突きの向きを定め、目印の縫い目へ指を戻した。


「一、二、三——」


「また最初からか!」


「今も話しかけました」


 六日前の午後、工房には二十四本の骨と、修理の難しい見栄が一本転がっていた。



    *    *    *



 園遊会の前日、大傘は庭の中央へ仮設された。


 四人がかりで柱を立て、六方向へ張り綱を取る。私は脚立へ上がり、石突きの向きを定め、傘布の目印から時計回りに親骨を叩いた。


「一、二、三、四——」


「職人さん、こちらの綱でよろしいですか?」


 使用人に問われた。


「はい。そちらを杭へ二重に——一、二、三」


「なぜ戻った?」


 下からフェリクス様が問う。


「話しかけられましたので」


「私は確認しただけだ」


「確認されましたので」


 本日一本目の折れた骨は、傘ではなくフェリクス様の余裕だった。こちらも交換材が要りそうである。


 七番を叩く。硬く、短い音。十九番も同じ。修理前に取り替えた二本だけは樫で、残り二十二本のトネリコより重く、風を受けたときのしなりが小さい。


 二十四番の留め金は正常。指で押しても浮かず、軸との噛み合わせにも隙間はない。


 すべて覚えた。番号でなら、目を閉じても位置へ手が届く。


「一、二、三——」


 招待客の下見に来ていた婦人たちが、こちらを奇妙そうに眺めていた。脚立の下でフェリクス様の顎が上がる。幼い頃から知っている。あれは格好をつけたいときの角度だ。


「その骨数えは無駄だ」


 二度目は、皆に聞こえる声だった。


「客の前ではやめろ。みっともない」


 留め金を押さえた指が止まった。


 職人として遅いだけではないらしい。彼の隣へ立つ女としても、これは隠すべき癖なのだ。侯爵令息の幼馴染が傘の骨を数えている。なるほど、優雅な園遊会には似合わない。花の名でも数えていれば、もう少しましだっただろうか。いや、私は七輪目あたりで花弁の付き方が気になり、結局、裏返して調べる。だめだ。品がない。


 フェリクス様は潰れた手袋を背へ隠した。


 私は目印へ指を戻した。


 一から二十四まで、今度は誰も遮らせなかった。



    *    *    *



 当日の大傘は、腹立たしいほど見事だった。


 白と淡金の布が陽光を透かし、二十四本の親骨が均等な影を芝へ落としている。大人なら二十人、子どもなら走り回る分まで含めて九人は休める広さだ。実際、菓子を握った子どもが四人、追う侍女が一人、その下を占領していた。


 私は工具袋を抱えて会場の端に立った。万一に備えて木槌、目打ち、細縄、革手袋、金鋏、小型の鋸。それから昼食のパン。最後の品は傘を直さないが、職人を直す。重要備品である。


「もう工房へ戻っていい」


 フェリクス様が言った。


「撤収まで確認します」


「客に見られるぞ」


「昨日すでに見られました」


「そういう意味ではない。工具袋を抱えて立つ必要は——いや、今日は風がある。残れ」


「帰れと残れが同じ息に入っておりますが」


「侯爵家の責任だ」


 はいはい、責任。フェリクス様がこの三日で工房へ七回来たのも責任。納品済みの傘布を二度撫でたのも責任。私の昼食がパン一つだと知って肉包みを置いていったのも、きっと侯爵家の広大な責任領域に含まれるのだろう。


 私が受け取れるのは仕事の代金だけだ。そこを数え間違えてはいけない。


「なら、残ります」


「私の目の届くところにいろ」


「傘からも目を離せません」


「両方見ろ」


 侯爵家の要求水準は高い。


 昼を過ぎたころ、庭木が一斉に白っぽくなった。葉の裏だ。西から東へ流れていた風が、北へねじれている。


 大傘の張り綱が一本、低く唸った。


 私はパンを工具袋へ押し込み、大傘へ走った。


「子どもたちを出して!」


 侍女が二人を抱えた。残る二人が遊びだと思って笑う。


 最初の突風が庭を殴った。


 淡金の布が膨れ、六本の張り綱が弓のように張る。大傘の片側が芝から浮いた。中央柱が傾き、侍女と四人の子どもが白い布の下へ消えた。



    *    *    *



「ノラ!」


 フェリクス様の声を背中で聞き、私は持ち上がった傘布の隙間へ滑り込んだ。


 膝が芝を削る。工具袋が腰へ当たる。頭上で骨が軋み、白い布が息をする獣の腹のように膨らんだ。


「柱から離れて! 子どもを低く伏せさせて!」


 侍女が一人を胸へ抱き、もう一人の頭を押さえた。残る二人は中央柱へしがみついている。泣き声は風に裂かれ、口の形だけが見えた。


 私は一本目の親骨へ手を伸ばした。


 石突きの向きは設置時から半回転している。風で柱がねじれたのだ。目印の縫い目を探す。布が頬を打つ。指先へ太い縫い目が触れた。


 ここだ。


「一本、二本……二十四本」


 木槌を出す余裕はない。一本ずつ手の甲で叩き、返る力を拾う。


 一番、張っている。二番、三番。四番は布に引かれて上向き。五番、六番。


 七番。硬い。しなりは小さいが、折れてはいない。樫は無事。


 八、九、十。風が大傘を持ち上げた。私の肩が骨へ押しつけられる。重い。痛い。だが数は逃げない。


 十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八。


 十九番。こちらも樫。正常。骨ではない。


 二十、二十一、二十二、二十三。


 二十四番に触れた瞬間、金属が指先を噛んだ。


 昨日は隙間一つなかった留め金が、軸から半分浮いている。今の突風で外れかけたのだ。ここだけ布の力を骨へ渡せず、隣の二十三番と一番へ荷重が寄っている。


 もう一度、傘全体が傾いた。


「ノラ、返事をしろ!」


「フェリクス様、入らないで!」


 言ったのに入ってきた。尊大な男は命令を聞かない。泥だらけで這ってくる姿には尊大さの残骸すらないので、今日の見栄は完全に折れたと判定してよさそうだった。


「何をすればいい」


「庭師を六人。十九番、七番、二十四番側の張り綱へ二人ずつ。刃物を持たせてください」


「庭師、六人! 張り綱へ二人ずつ! 剪定刀を持て!」


 即座に復唱した。平時にもこの聞き分けがあれば、私は十九本を数え直さずに済んだのに。


 庭師たちは張り綱を伝い、低い姿勢で十九番、七番、二十四番側の傘縁へたどり着き、それぞれ結び紐へ剪定刀を当てた。


「子どもは?」


「四人ともいます。侍女も。けがはまだ分かりません」


「先に出せないのか」


「今動かせば傘が裏返ります。骨が折れれば、布ごとこちらへ落ちる」


 フェリクス様の喉が動いた。それ以上は問わなかった。


 私は傘の内側から、番号の位置を指で示した。七番と十九番は互いに反対側。樫の二本はトネリコと同じにはしならない。そこで布の張りが止まり、風を抱え込んでいる。


「十九番を切って。七番はまだです。二十四番は、私が合図するまで触らないで!」


「十九番を切る! 七番は待て! 二十四番は合図まで触るな!」


「十九番、承知!」


「七番、待機!」


「二十四番、待機!」


 庭師たちの声が風を渡った。


「十九番、切ります!」


「切って!」


 剪定刀が結び紐へ入る。


 一度では切れない。濡れた紐が潰れ、二度目で弾けた。十九番側の傘布が親骨から外れ、ばたばたと旗のように暴れる。抱え込まれていた風が、裂け目ではなく、作った逃げ道から噴き出した。


 傘の西側が落ちる。


「支えろ!」


 庭師二人が張り綱へ体重をかけた。


 私は中央柱を両腕で抱えた。掌が滑る。侍女が子どもたちを芝へ伏せ、自分の背で覆った。


 まだだ。十九番側だけを開けたまま七番を切れば、風は一方向へ抜けて傘を回す。次の風向きを待つ。


 布が一度しぼむ。


 庭木の枝が止まった。


 来る。


「七番、切って!」


「七番、切る!」


「承知!」


 刀が入り、七番側の結び紐が切れた。


 反対側にも風の出口ができる。大傘が激しく上下したが、回転はしない。樫の骨二本だけが布から解放され、重い腕のように垂れた。


「子どもを十九番側へ! 一人ずつ、這わせて!」


 フェリクス様が最初の子を抱えた。腕の下へ差し入れ、頭を自分の胸へ押しつけ、傘の外へ渡す。


「一人!」


 庭師が受け取った。


 侍女が二人目を押し出す。靴が泥へ取られた。私が襟をつかみ、フェリクス様が腰を抱える。


「二人!」


 三人目。四人目。


「四人、全員!」


「侍女も!」


 侍女が這い出す。だが私とフェリクス様はまだ内側だ。二十四番の留め金は半ば外れ、風を受けるたび金属が軸を削っている。このまま二人で離れれば、次の突風で二十四番から一番まで連続して跳ね上がる。


「ノラ、出ろ」


「二十四番を外して、傘を向こうへ畳みます」


「私がやる」


「何番か分かりますか」


「分からない」


「では私がやります」


「私に命じろ」


 ずいぶん高価な手足である。だが今は借りる。


「二十四番側の張り綱を、合図で切らせてください。フェリクス様は留め金を押さえて。外れた瞬間、右へ倒す。子どもたちの反対側です」


「右へ倒す」


「先に左へ逃げないでください。傘がついてきます」


「お前を置いて逃げると思うか」


 その返事は、今は数えない。


 私は二十四番へ身体を寄せた。浮いた留め金の隙間へ目打ちを差し込み、革手袋を巻いて握る。金属が軋む。


「二十四番、用意!」


「二十四番、用意!」


「用意!」


 フェリクス様の手が私の手ごと留め金を押さえた。泥で滑る掌。力は震えていたが、逃げなかった。


 風が十九番と七番の開口から抜ける。


 布が一瞬だけ軽くなった。


「今! 二十四番を切って!」


「切れ!」


 結び紐が切れた。


「押して!」


 二人で留め金を外す。二十四番の親骨が跳ね、傘布が右へ流れた。中央柱を肩で押す。庭師たちが反対側の張り綱を引く。


 大傘は子どもたちのいない芝へ傾き、二十四本の骨を順に重ねながら、巨大な花が閉じるように横倒しになった。


 私はフェリクス様と一緒に泥へ転がった。


 白い布が一度だけ膨らみ、それきり地面へ伏した。


「人数!」


「子ども四人!」


「侍女一人!」


「ノラ様とフェリクス様!」


 庭師たちが互いの顔を見た。


 誰からともなく、声が上がった。


「二十四本、全部だ」


「二十四本、全部!」


「全部だ!」


 胸の底に溜めていた息が抜けた。してやったり、と笑いたかった。二度も無駄と言われた骨数えが、今日はずいぶん働いたではないか。職人としては満点をつけたい。恋する女としての採点は、まだ答案が返ってきていないけれど。


 フェリクス様が立ち上がった。


 泥にまみれた上着を払うこともせず、私の前へ戻ってくる。その途中で、泣きじゃくる子どもの頭を撫で、侍女へ医師を呼ぶよう命じた。


 そして招待客たちが取り囲む芝の中央で、片膝をついた。


「フェリクス様?」


 笑いかけた客が一人いた。だが彼が泥のついた手袋を外した途端、その口も閉じた。


 フェリクス様は私ではなく、まず群衆へ顔を向けた。


「『その骨数えは無駄だ』——私は二度、そう言った。違った。今日ここにいる全員を助けたのは、ノラが一度も捨てなかった骨数えだ」


 風に乱れた声だった。それでも、庭の端まで届いた。


「彼女は二十四本すべての状態を覚え、昨日にはなかった異常を見つけ、切るべき場所と順番を決めた。私は彼女の指示を繰り返しただけだ。彼女の仕事を笑う資格は、私にも、ここにいる誰にもない」


 誰も動かなかった。


 ハロルドだけが工具袋を拾い上げ、口を閉じて抱えた。私が今、道具を数え始めないように守ってくれているらしい。


 フェリクス様は膝をついたまま私を見上げた。


「ノラ。私はお前を傷つけた」


 言葉が喉へ引っかかった。


「式典を失敗させるのが怖かった。自分が役目に足りないと知られるのが怖くて、私はお前の確かな手順を遅さと呼んだ。だが、それは理由であって、許しを求める材料ではない。私の恐れを、お前の欠点にして押しつけた」


 握り潰された白手袋が、泥の上に落ちた。


「すまなかった」


 頬を温かいものが伝った。拭えば済む。けれど、手が動かなかった。


「無駄だと言われるたび、あなたの隣に立つ私まで要らないのだと思いました」


 声が震えた。数へ逃げようにも、今だけは一本目が見つからない。


「職人として遅くて、女としてみっともなくて。骨を数えなければ、あなたに恥をかかせずに済むのかもしれないと。だから——」


 息を吸う。胸が痛い。今度は木の痛みではない。それでも言わなければ、彼が訂正した言葉の下に、私の傷だけが取り残される。


「あなたが工房へ来るたび、うれしかった。話しかけられて一本へ戻るのも、本当は少しだけうれしかったんです。なのに同じ口で無駄だと言われると、私は仕事を選べばあなたに選ばれず、あなたを選べば私でなくなる気がしました」


 フェリクス様の顔から、最後の虚勢が消えた。


「ノラ」


「はい」


「私は、工房へ納期を確かめに行っていたのではない」


 やはり侯爵家の責任ではなかったらしい。


 けれど今は笑えなかった。


「お前に会いたかった。木屑を髪につけ、私が何を言っても骨から目を離さず、それでも帰り際には必ず見送るお前に。七回では足りなかった。だが、会いたいと言えば断られるのが怖くて、仕事を口実にした。その臆病まで尊大さで飾って、お前を傷つけた」


 彼は泥の上へ両膝をついた。


「格好など、もう犬にでも食わせる」


 侯爵令息の口から落ちるには、ずいぶん庶民的な餌だった。


 けれど彼の差し出した掌は震え、爪の間まで泥が入り、留め金を押さえたところが赤く腫れていた。その手は、私の命令を一つも違えなかった。


「直した君では意味がない」


 フェリクス様の声が掠れた。


「一本目から数え直す君を、私の妻に望む」


 呼吸が止まった。


「仕事ができるからだけではない。できないふりをしない君がいい。誰に笑われても確かめる手を抜かず、私が邪魔をしても一へ戻り、今日、誰より先に傘の下へ飛び込んだ君がいい。欠けたところを直してから来てほしいのではない。私が欠点だと決めつけたものを、一度も捨てなかった君でなければ意味がない」


 差し出された手のひらへ、頬から落ちた雫が一つ当たった。


「私が望むのは、最初から、ノラ一人だ」


 胸の内側で、傷ついた言葉が一本ずつ抜けていく。


 無駄。


 遅い。


 みっともない。


 空いた場所へ、彼の言葉が入った。


 一へ戻る私。


 捨てなかった私。


 妻に望まれる私。


 私は濡れた頬を袖で拭い、彼の掌へ手を重ねた。


「骨数えはやめません」


「やめさせない」


「途中で話しかけられたら、一へ戻ります」


「私が話しかけた者を止める」


「フェリクス様ご自身が話しかけた場合は」


 彼は初めて、困ったように笑った。


「二十四本が終わるまで待つ」


「長いですよ」


「七回工房へ通った男だ。待てる」


 私は彼の手を握った。


「では、お受けします」


 周囲から一斉に息が漏れた。庭師たちが帽子を投げ、子どもが泥のついた手を叩く。ハロルドは工具箱を抱えたまま鼻を鳴らした。


「最初からそう言やあ、傘一本ぶっ壊さずに済んだものを」


 私もそう思う。


 けれど、壊れたから分かった骨もある。


 結婚に必要な手続きは侯爵家が恐ろしい速さで進め、工房には祝いの注文が増えた。私は筆頭職人のまま傘を作り、フェリクス様は納期確認という名の私用をやめ、堂々と毎日やって来るようになった。来訪回数だけは増えたので、改善と呼べるかは微妙である。


 ある日、私は新しい大傘を広げ、石突きの向きを定めた。


 目印の縫い目から時計回りに、親骨を叩く。


「一本、二本……二十四本」


 十七本目へ手を伸ばしたとき、工房へ入ってきた客が口を開いた。


「すみませ——」


「話しかけるな。今、ノラが十七本目を数えている」


 フェリクス様が客と私の間へ立った。


 客は口を閉じた。ハロルドが肩を震わせる。


 侯爵令息は、とうとう工房の静けさまで買い占める気らしい。

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