白篠稲荷神社
仕立てた着物を持ち運ぶ際に考えるのは「雨降るな!」の一言に尽きる。
正絹と水の相性は最悪だ。すぐ縮むし、型崩れを起こしかねない。だから個人的には一番気を張る工程だ。
昨日の雨が嘘のように雲ひとつない空が広がっている。納品に適した天候に、春恵は思わず拳を握りしめた。
滞りなく日常は進んでいく。あっという間に午後になり、そろそろ出かける支度をしなければならなかった。
仕上がった袴を隅から隅まで見て、ほつれやしみがないことを確認する。我ながら今回も納得のいく仕上がりだった。着る者を引き立ててくれるに違いないから、今から試着が楽しみで仕方がない。
風呂敷に包み終わったところで、背後から声をかけられた。
「白篠さんのところへ行くのよね」
新聞を持った希乃が立っていた。声がどこか強張っていて、浮かない表情を浮かべている。
「はい。試着してもらって問題なければ、二時間ほどで帰ります」
「……白篠さんの住所を、その、見させてもらったんだけど」
はっきりしない物言いに首を傾げた。
「今朝、あの辺りで遺体が見つかったのは知ってる?」
「遺体、ですか」
「行方不明だった甘味処の娘さんらしくてね。これを見てちょうだい」
希乃が差し出してきた新聞は号外だった。午前中に外出した際、町の真ん中で配っていたという。一面には『白篠稲荷近くにて遺体発見 行方不明の甘味処娘か』と大きな文字で書かれていた。人為的に付けられた傷が無数にあり、損傷が激しい状態だったという詳細まで載っている。警察は付近の見回りを強化しているとのことだ。
「白篠稲荷って初めて聞きました。あんなところに神社があったんですか」
「私も初めて聞いたのよ。白篠さんと同じ名前だし、住所も近くだし、彼はそこの神職なんじゃないかしら。何か聞いてないの?」
「あまり触れてほしくなさそうだったので……」
どこの神社で神職をしているのか、以前尋ねたことがあった。その時の惣一郎は苦い顔をして、言葉を探す素ぶりを見せたのだ。踏み込むのはよくないと判断し、咄嗟に話題を切り替えた記憶は新しい。
「白篠さんがいるとはいえ、道中一人じゃ危ないから一緒に行きたいのだけど、この後来客があるのよね……」
「大丈夫ですよ。住所を見る限りそこまで山奥ではないですし」
事前に地図を確認して、大きな道沿いの階段を昇った先に家があると分かっている。分かれ道もなく、見晴らしもよい。
「それに警察が見回りしている今の方が、逆に安全かもしれません」
不安が払拭されるわけではないが、警察が近くにいるというだけで安心感は絶大だ。
出発の時間は迫っている。横目で時刻を確認すると、もう出ないと間に合わない時間になっていた。
察した希乃は、自分を納得させるように小さく溜息を吐く。
「何かあればすぐ引き返してくること。帰りは必ず白篠さんに送ってもらいなさい」
結局、最後まで希乃の表情が晴れることはなかった。
心なしかいつもより町がざわついている気がする。
余計な情報を入れないように、春恵は足早に通りを歩いた。ああ言って出てきたものの、全く恐怖を感じないと言えば嘘になる。
町の大通りを越えると、のどかな自然が姿を現した。畦道を抜けてさらに進むと、山へと続く階段が見えてくる。石灯篭が置かれ、見るからにここが神社入口だ。市街での暮らしは数年になるが、こんな場所があるなんて初めて知った。
「……え」
階段の前に立つと、ぞわりと鳥肌が立った。
両脇にある狐の石像のせいだ。向かい合うように、上までずらりと続いている。手入れはよくされているみたいで、苔や土は付着していない。
しかし、目つきは決して優しいものではなかった。階段を上る者の品定めをしているようで、どこか居心地の悪さを感じる。
妙な緊張感に包まれながら、春恵は一歩を踏み出した。
そこからは自分との戦いだった。
日頃の運動不足が祟り、呼吸は徐々にあらくなっていく。階段はとてつもなく長いが、どれだけ辛くとも立ち止まりたいとは思わなかった。
同じ場所に留まる方がよくない気がした。どこにいても狐の視線がまとわりついてくるからだ。
視線を振り払うようにひたすら足を動かす。
ふと、春恵は奇妙なことに気づいた。
さっきから同じ狐の石像を何度も見ている気がするのだ。左側の口元に小さな欠けがある。もうかれこれ三度は目にした。
それにすぐ隣の茂みから、パキパキと音がする。音の重さからして、人間が枝を踏みながら歩いているような気がしてならない。
怪談じみた考えがよぎるが、慌てて首を振った。全てはただの偶然だ。たまたま口元の欠けた石像が何体かあって、ちょっと大きめの狸か何かが歩いている。そう言い聞かせ、ただ上を目指した。
そして、ようやく――鳥居が見えた。
「着いた……」
安堵の息を吐いて、春恵は最後の数段を駆け上がった。最上段に辿り着いた瞬間、全身の力が抜けそうになる。狐の視線からも解放され、心なしか呼吸がしやすく感じる。
少し進んだ先に朱色の鳥居があった。奥には境内が広がっているが、人の気配はひとつもない。
春恵は鳥居の手前で立ち止まると、惣一郎の言葉が脳裏をよぎる。
『私が来るまで境内に入らないこと。誰かに声を掛けられても絶対振り向かず、鳥居の前で待っていてほしい』
なぜそんなことを言ったのだろう。
不思議には思ったが、あの真剣な眼差しを思い出すと、約束は何がなんでも守らなければならない気がした。
風が吹くたびに木々が揺れ、ざわざわと不穏な音を立てる。たくさんの狐に笑われているように聞こえて、春恵は思わず両腕を抱きしめた。
「早く来てください」
風呂敷を抱きしめ、小さく呟く。
木々の隙間から夕焼けの光が差し込んできた。赤く照らされた鳥居は、どこか現実離れした雰囲気を纏っている。別の世界に迷い込んだ心地だ。
春恵は鳥居を見つめた。手水舎の近くにも狐の像がある。春恵のいるところからは一体だけしか見えないが、きっと敷地内の至る所に置かれているのだろう。
狐は神様の使者だという。人の願いを神へ届け、あるいは神意を人へ伝える存在。
けれど、ここで見かける狐は何かが違う。使者などではなく、己がこの場所の主であるかのように、訪れる者を値踏みしている。
目を逸らそうとしたその時。
「どうなさいましたか」
びくりと肩が跳ね上がった。凛とした女性の声に、体が強張る。
振り向いてはいけない。
誰かに声を掛けられても、絶対に振り向いては駄目。
春恵は黙って鳥居を向いたまま、身動きひとつしなかった。
「もうじき日が暮れます。そちらは冷えるでしょう」
声は優しく、穏やかだった。心配してくれているような声音だ。
しかし、春恵は答えなかった。唇を固く結んで、ただ鳥居を見つめ続ける。
「お返事がないということは、何か事情がおありなのですね」
女性は沈黙を気にする様子もなく、一方的に話を続けた。
「この辺りは暗くなるのが早いんです。夜は獣も出ますし、足元も見えません。誰かとの待ち合わせでしたら、中で待つのはいかがでしょう」
ひたすら無視をする。
人を無視するのはこんなにも骨が折れることなのか。
胸の中で罪悪感がじわじわと広がっていく。
「白篠の屋敷は広いので迷われると大変ですから。私が案内させていただきます」
白篠。
惣一郎の姓だ。
ということは、この女性は白篠家の人間なのだろうか。
「どうぞこちらへ」
気配が近づいてくる。横をすり抜けて、境内へと向かおうとしているようだ。
視界の端に、白い着物の裾がちらついた。
本当にすぐ後ろまで来ているのだと思うと、心臓が早鐘を打ち始める。
「さあ、参りましょう」
声がすぐ後ろから聞こえた。
つう、と背中に冷や汗が流れていく。視線は動かさない。絶対に振り向かない。そう言い聞かせながら、ただ鳥居を見つめた。
「……ではこうしましょうか」
次の瞬間。
冷たい何かが、春恵の首筋に触れた。
「っ……!」
反射的に肩をすくめた。首に触れているのは人の手だった。氷みたいに冷たく、全く生気を感じられない。
後ろに立っているのは本当に人間だろうか?
「そう身構えないでください。何にもいたしませんよ――今は」
首筋を撫で、顎を掴まれた。
女性の声は穏やかなままだが、その手には徐々に力がこめられていく。無理やり振り向かせようとしているみたいだ。
「ぃ、やめ……っ」
手を振り解こうとしてもびくともしなかった。なすすべもなく、ついに背後の存在と目が合った。
美しい女性だった。
白い着物に結い上げられた黒髪、白い肌、赤い唇。
こんな状況でなければ見惚れてしまいそうなほどだ。
しかし、目だけは異様だった。琥珀色に光り、わずかに縦に伸びた瞳孔はどこか獣の気配がする。
この色の目を知っている。
「ああ……」
女性は春恵の顔をじっと見つめて、うっとりと微笑んだ。
「やはり。やはりそうですわ」
その笑みには狂気じみたものが宿っていた。
女性は春恵の顎を掴んだまま、夕日にその顔を晒させた。
「惣一郎様の……思い人にそっくり」
囁くような声。
その言葉を最後に、春恵の意識は暗闇へと沈んでいった。




