幼馴染と忠告
白篠惣一郎について分かったことがある。
年齢は春恵の二つ上であること。
白篠稲荷神社というところで神職をしていること。
姉と妹がいること。
雨の日は癖毛がくるんくるんになること。
どんな主菜でも必ずいなり寿司を一皿頼むこと。
四度も昼食を共にすれば、自然と見えてきてしまう。
惣一郎は何かと橘屋を訪れるようになった。偶然通りかかった、袴の制作状況を見に来たなど、理由はまちまちだ。彼が来る度に女将や希乃は春恵を呼び、今では彼を見ただけで「春恵ちゃん、来たわよ」と言われる。日常の一部に彼が溶け込みつつある。敬語もいつの間にか消え、自然体で接してくれるようになった。
「いい感じの男がいるらしいな」
今、目の前にいるのは瑛二だった。惣一郎は予定があって、明日橘屋に来ると聞いている。
いつもの蕎麦屋で定食を食べ終えて、お茶を飲んでいた。一息ついたところで突拍子もないことを言われ、危うく吹き出しそうになる。
「ど、どこでそれを」
「希乃さんだ」
「世間話するくらい仲良かったっけ?」
「それなりに。この間店に行った時に言われたんだ」
「なんて?」
「春恵なら今デート中だと」
「ただの食事だから」
あらぬ誤解を生みそうだ。春恵はすかさず訂正したが、彼の表情は変わらない。
「白篠惣一郎だっけか。どんな男なんだ?」
「興味持つなんて珍しいね」
「まあな」
店員を呼んでお茶のおかわりを頼んだ。腕組みをした彼はじっと春恵を見つめてくる。
「神職をしているんだとか」
「神職?なんでお前と接点があるんだ?」
彼の眉がわずかに動いた。興味を引いたようだ。
「ちょっと前に土砂降りだった日があったでしょ。その時たまたま雨宿りに来て」
「へえ」
「色々あって袴を仕立てることになったの」
相槌は短いが、意味ありげな含みがあった。警察官特有の反応に、惣一郎を見定めようとしているのが分かる。
「どういう経緯で仲良くなったんだ?」
「仲良くって言うほどでもないけど」
「何度か食事に行ってるのに仲良くないは無理があるだろ」
「そ、れは、そうかもだけど」
歯切れの悪い返事をすると、見かねた瑛二がすらすらと喋り出す。
「最初は客として接していたけど、何度か来店するうちに話すようになり、偶然会うことも増えて、それで一緒に食事をするようになったってところか?」
「え、すごい、その通りだよ」
満点の回答に拍手を送ると、溜息を吐かれてしまった。
店員が薬缶を運んできてくれたところで、会話は一時中断する。なみなみ注がれるお茶を見ていると、不思議と冷静になってきた。
惣一郎から向けられる好意には薄々気付いていた。
例えばふとした時に感じる視線だ。並んで歩いている時、昼食に食べるものを選んでいる時など、何かと顔を見てくる。自意識過剰だということを加味しても、ただの知り合いを見る眼差しではない。何かの答え合わせをしているようにも見えた。
惣一郎と呼ぶように提案されたのもそうだ。初対面の店員に向かって普通はそんなこと言わない。ではなぜ?――ちなみに希乃と女将の答えは「好きだから」である。
「見ず知らずの他人に下の名前で呼んでほしい時ってどんな時?」
「相手と距離を縮めたい時」
「そうかぁ……」
となると、なぜ惣一郎は距離を縮めたがっているのか。過去に受け持った客ではないし、どこかですれ違ったことすらないはずだ。あんな美丈夫を見かけたら記憶に残るに違いない。
「どうして見ず知らずの他人と距離を縮めたいんだと思う?」
「好きだから」
「でも接点がないんだよ?」
「一目惚れって言葉知ってるか?一目見ただけで心惹かれるって意味なんだが」
「それくらい知ってるよ!」
「お前、そいつのこと警戒してるんだろ」
図星を突かれ、言葉に詰まってしまう。自分でも理解しきれていない感情をさくっと言い当ててくるのは、さすが幼馴染だ。
一方的な好意に身構えている自覚はあった。惣一郎の態度からして、悪意があるとは到底思えない。が、直観的な危機感を払拭できないでいる。あの純粋な金色の目を見る度に、罪悪感に駆られていたのはここだけの話である。
「警戒するのは別に悪いことじゃない。むしろいいことだ」
「罪悪感で死にそうなんだけど」
「仕事柄な色んな人間を見てきた。善良そうに見えるヤツが実は裏の顔を持っていたり、優しさの裏に計算があったり、意外とそんな事例は多い」
瑛二は窓の外を見た。暗い雲で覆われた空は、今にも雨が降り出しそうだった。
「……あの人もそうなのかな」
「そうは言ってない。でも否定もできない。会ったこともない人間を信用するなとは言えないがな」
要するに気をつけて損はないってことだ、と席を立ちながら言った。春恵も慌ててその後に続く。
彼はごく当たり前のこと言っているだけなのだ。考えすぎるのもよくないので、切り替えて財布を取り出した。
「どこの神社の神職なんだ?」
「白篠稲荷神社だっけな。この近辺ではあるみたい」
「へぇ。聞いたことがない」
「……もしかして調べようとしてる?」
「どうだろうな」
肩をすくめてはぐらかした彼は、二人分のお会計を済ませてくれた。自分が食べた分を渡そうとしたが、断られてしまう。次回おごる約束を取り付けて、遠慮なく甘えさせてもらうことにした。
外に出ようとした瑛二がぴたりと足を止める。いきなり立ち止まるものだから、その背中に思いっきりぶつかった。じわじわと痛む鼻を押さえ、抗議の目を向ける。
「ちょっと、急に立ち止まらないでよ」
「雨降ってる」
「え……あ、ほんとだ」
店を出たのを見計らったかのように、大粒の雨が降り始めた。土砂降りとまではいかないが、走って帰るには些か強すぎる勢いだ。
ここから橘屋までは少し距離がある。二人して傘は持っていない。
「瑛二はどうするの?」
「すぐそこだから問題ない。傘を取ってくるからそこで待ってろ」
「大丈夫だよ。走れば大丈――」
「水守さん」
突如、凛とした低音が聞こえた。声のした方向を見ると、話題の中心人物だった惣一郎が立っている。白い着物に白い羽織、深紫の唐傘を差してこちらを見ていた。
「白篠さん」
春恵が呟くと、惣一郎は薄く笑みを浮かべた。
「今日は来られないと……」
「たまたま近くを通りかかったんだ。橘屋に寄ったら、希乃さんに『雨が降りそうだから迎えに行ってほしい』と頼まれてね」
惣一郎の口調はいつも通りだ。
でも、その金色の瞳はどこか翳って見える。傘の影のせいだろうか。
「こちらは?」
彼の視線が瑛二へと移った。ほぼ同じ位置にある二人の視線が静かに交わると、妙な緊張感が走る。瑛二は官帽を脱いで、一歩前に出た。
「烏丸と申します。白篠さん、ですよね?春恵がいつもお世話になってます」
先ほどとは打って変わって警官の表情になっている。愛想はいいが、しっかりと人を見定めようとする鋭い目つきだ。
惣一郎はわずかに目を細めた。柔らかな笑みはそのままだが、金色に鋭さが増した気がする。
「いえ、こちらこそ。水守さんには大変お世話になっております」
穏やかな声にはどこか譲らない響きがあった。
一触即発の空気を感じ取った春恵は息を潜める。口を挟もうにも適切な言葉が見当たらなかった。
「わざわざありがとうございます。おかげで春恵が濡れなくて済みました」
「いえ。風邪を引いてはいけませんから」
「では俺は失礼します。春恵、気をつけて帰れよ」
「う、うん」
瑛二は官帽を被り直すと、雨の中を駆けていった。
その背中が見えなくなるまで春恵は見送った。
「橘屋まで送ろう」
「……ありがとうございます」
惣一郎が傾けた傘の下に入った。
ここまで彼に近付いたのは採寸以来だ。肩がくっつかないように、ゆっくり歩き出した。
ちょうど目の前に、傘を持つ彼の手があった。大きくて指が長くて、ごつごつしている。それにいい匂いもするし、彼の息遣いがやけに鮮明に聞こえた。視界の端で緩やかに上下する肩がちらついて、急に距離の近さを実感した。
しばらく無言が続く。
「小さい頃、隣の家に住んでた幼馴染なんです」
結局、先に口を開いたのは春恵だった。距離を意識しないためには、積極的に話すしかない。一つ年上で警察官をしているだの、休憩時間が合った日はあの蕎麦屋に行くだの、聞かれてもないのに話してしまう。
「幼馴染……か」
これまで黙って相槌を打ってくれていた彼が呟く。
「私にそういった者はいないから少し羨ましいな」
「羨ましいって言われる関係でもないですよ。無遠慮だし、良くないことでもなんでも言われるし」
「でも本音で言葉を交わせるのだろう?私との会話とは違って」
驚いて彼を見上げると、真っ直ぐ前を向いたままの横顔が見えた。唇は真一文字に結ばれていて、怖さすら覚える真剣な表情だ。
ちくりと刺された気がした。おそらく本心から出た言葉なのだろう。
どう返すべきか悩み、しばらく沈黙が続いた。傘に打ちつける雨の音がやけに響く。
「……すまない。感情的になってしまった。私と彼では過ごした時間が違う。当たり前なのに」
「ぁ……いえ……」
我に返ったらしい惣一郎の表情は、一転してしおらしいものに変わった。自己嫌悪に陥っているのか、しょんぼりと眉が下がっている。
この表情を見ると、こちらが悪いことをした気分になってくる。悪戯をして叱られた犬みたいな顔はずるいだろう。
彼はそっと柄を持ち直すと、空気を切り替えるように話題を変えた。
「袴、もうすぐ完成するんだって?」
「……はい。今日の午後に仕上げるので、明日にはお渡しできるかと」
「もうすぐじゃないか。早く袖を通したくてたまらないよ」
でも、と続けた。
「明日は社務があって、一日動けないんだ」
「よろしければお家までお届けしましょうか」
橘屋の方針では、常連の顧客にのみ直接届けることになっている。代金の支払いが確実であり、素性の明らかなため揉め事も起こらない。惣一郎は常連の顧客には当たらないが、この親密さなら認められるはずだ。彼も二つ返事で了承すると思っていた。
しかし、返ってきたのは沈黙。何かを迷っている様子だった。
「白篠の家までは少し距離があるし――あまり良い場所ではない」
計ったかのように雨足が強くなった。おかげで後半が聞き取れなくて、首を傾げる。
彼は少し考えて、春恵をちらりと見て、また考えた。
いの一番に袖を通したい。でも家に呼ぶのはちょっとな。おそらくこの二つを行き来しているのだろう。
無言で彼がどちらを選ぶのかを待った。
「明日の午後四時に来てくれないか?そしたら迎えに行ける」
心待ちにしていた衣装には敵わなかったようだ。
「ただ、お願いがあるんだ。私が来るまで境内に入らないこと。誰かに声を掛けられても絶対振り向かず、鳥居の前で待っていてほしい」
絶対に、と念押しされた。
怪談のような言いつけに不安を覚えるが、こちらが申し出た手前、今更断ることはできない。彼が迎えに来てくるまでの辛抱だと言い聞かせて、春恵は黙って頷くしかなかった。
やがて橘屋の暖簾が見えてきた。蕎麦屋からここまでは大した距離ではないのに、何十分も歩いた心地がする。
「着いてしまったね」
春恵を軒先に入れても彼は傘を閉じなかった。今日は中へ入らず、そのままどこかへ行くのだと悟る。本当に予定の合間に来たようだ。
「すみません、送ってもらうだけになってしまってて……」
「私がしたくてしたことだから気にしなくていい。ではそろそろ行くとするよ」
「はい。ではまた明日に」
春恵は小さく手を振ると、彼は静かに笑って会釈を返した。
白い着物が次第に灰色の景色に溶け込んでいく。深紫の傘だけがぼんやりと浮かび上がって、やがてそれも霞んで見えなくなった。
春恵は軒先に立ったまま、しばらく動けないでいた。




