白い人と採寸
「もう少し背筋を伸ばしてください」
「こうですか?」
相手は素直に姿勢を正した。もともと高い背がさらに伸び、春恵はすかさず巻尺を背中に当てる。示された数字を紙に書いて、次は肩幅。そして数字を書いて……を繰り返していた。
翌日、昼前に惣一郎は橘屋へやって来た。白い背広に灰色のシャツという出で立ちだ。あまりの着こなしっぷりに店内がどよめいたのは気のせいではない。
春恵が手を離せなかったので、受付は別の者が担当した。相変わらずの柔らかい物腰で受付をしている間も、やたらと作業場を気にしている様子だった。そして春恵を見つけるなり目を綻ばせるものだから、やはり犬と照らし合わせてしまう。
隣の希乃が肘で小突いてくる。「あとはやっておくから行ってきなさい」といらぬ気を遣われ、こうして採寸をしているわけである。
「身長はおいくつですか?」
「百八十七センチです」
思わず見上げてしまった。視線を上げるだけでは彼の顔が見えないから、首ごと持ち上げないといけなかった。申し訳なさそうに眉を顰める彼と目が合う。
「すみません。私の顔を見るのはさぞ苦痛でしょう」
「いえ、そんなことは……その背の高さだと普段着に苦労しそうですね」
「既製服で間に合った試しがないですね。特に袖と丈が」
そう言いながら、今着ているシャツの袖口を引っ張って見せた。確かに少しだけ手首が見えている。
瑛二も全く同じことを言っていた。彼もまた一般男性に比べると、身長も体格もある。警察官の制服が合わなくて特注になった、とぼやいていて、作ってあげたのは懐かしい記憶だ。
「腕、失礼します」
腕を真っすぐ伸ばすよう誘導し、巻尺を肩から手首へと這わせる。ほんの一瞬、彼の体が強張ったのが分かった。
「楽にしていただいて大丈夫ですよ。次、腰周りなので腕はそのままにしててください」
「……」
測りやすくなった腰に巻尺を回す。調和の取れた見事な逆三角形だった。服越しに筋肉の硬い感触が伝わってきて、見た目の麗しさとは裏腹にしっかりと鍛えているのが窺える。
何のお仕事をされているのだろう。この風貌だからそこらの職業でないことは確かだ。
どこか気まずそうな惣一郎とは対照的に、春恵は淡々と記録していった。これまでの仕立ててきたものの中で一位を争う手足の長さで、縫い応えがありそうだった。頭の中で製作時間を見積もりながら巻尺を置く。
「次に生地と色なんですけど、ご希望はございますか?」
「いつもは白を選ぶんですが……」
彼を反物が並ぶ棚に案内した。男性物の棚には、白や濃紺、臙脂など落ち着いた色が整然と並んでいる。
「こんなにも選択肢があると迷ってしまうな」
「皆さまそう仰られます。普段着なのか、行事で着るのかで選ぶのもいいかもしれません」
「普段着を想定しています。刺繍も何もない無地で」
隣に立つ彼は一つ一つをじっくりと眺めていた。その真剣さに春恵はたちまち目が離せなくなる。凹凸のはっきりとした横顔は、どこか人間離れして見えた。彫刻と言っても過言ではないのかもしれない。
不自然にならないように顔を背け、棚に向き直った。
彼によく似合うのはどれだろうか。昨日から白い服ばかり着ているから、白が好きなのだろうか。でも違う色で遊んでもいいのかもしれない。髪と瞳の色によく似合うのは――などと考えていると、自然と手が伸びていた。
「こちらはいかがでしょうか」
墨色の正絹だった。本物の絹しか使っていないから、他の反物よりも上品な光沢がある。指先に絹特有の滑らかな感触が伝わってくるが、確かな張りもある一級品だ。
「黒よりも柔らかいので、日常に馴染みやすいんです。髪や目の色ともぴったりですし、昨日の白いコートや他の羽織にも合うと思いますよ」
「それにします」
即答だった。
「……もっと他のを見てからでも」
「いえ、それがいいんです」
「せっかく一から仕立てるのに、私が決めてしまってよろしいんですか?」
「むしろ決めてもらえて光栄だ」
惣一郎の声は微かに高揚していた。他は眼中にないとでも言うように、うっとりと反物を眺めている。本人が満足ならこちらが止める筋はない。
「ではこの墨色で。納期は二週間ほどかかりますので、完成したらご自宅にお届けします」
「分かりました。楽しみにしています」
春恵は小さく息を吐いた。
なぜだろう。やはりぶんぶんと揺れる尻尾が見える気がする。表情がよく変わるわけではないのに、彼の感情が手に取るように分かってしまう。
小首をかしげながら、預かっていた背広を渡した。
「ところで、昼食はいつもどうされているんですか?」
長い指でボタンを留めながら尋ねてくる。
「この近辺で適当に済ませています。日によって休憩時間が違うので」
「なるほど。今日は何時頃の予定で?」
「少し作業が残っているのでーー……」
「白篠様」
彼の視線が背後に向く。声をかけてきたのは希乃だった。にこにこと、それはもうにこやかな笑顔を浮かべている。
嫌な予感がした。
「ちょうど休憩に行くように言おうとしていたんです」
予想外の言葉に春恵はぎょっとした。彼もまた目を瞬かせて、希乃を見ていた。
「待ってください、私まだーー」
「この子、集中して昼食を食べ損ねることもあって。よかったらご一緒してやってくれませんか」
「むしろよろしいのですか?」
「ええ、ええ!もちろんです!」
だめだ、誰も聞いてくれない。
唯一味方になってくれそうな女将も微笑ましそうに笑っている。
彼は春恵を見下ろして、
「お供してもよろしいですか?」
あくまでも丁寧さは欠けていないが、有無を言わせない圧があった。




