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白い人と雨宿り

 早朝から降り続いている雨は、昼になっても止む気配がなかった。屋根を叩く音は時間が経つにつれ激しくなり、遠くの方では雷も聞こえる。

 新聞の隅から隅まで目を通したが、目当ての記事は一つしか見つけられなかった。それも「失踪の女学生、未だ見つからず」という情報提供を求める小さな見出しのみ。世間の関心は行方不明事件から離れているようだ。


 かく言う春恵も当事者意識は薄れつつあった。実家のすぐ近くで遺体が発見されたというだけで、近しい者が巻き込まれたわけではない。瑛二から事件の話を聞いてすぐに家族に連絡し、無事も確認できている。

新聞を畳むと、机に置いた。一口だけ残っていたお茶を飲み干し、湯呑を持って立ち上がる。


 台所で洗い、水切り棚に並べている間、春恵の頭の中は午後をどう過ごすかでいっぱいだった。今日は橘屋の定休日だ。女将も希乃も外出しており、夕方まで一人で過ごすことになっている。普段であれば買い物に出かけたり、友人と喫茶店に行くが、今日はその予定がない。何もしない休日は実に数か月ぶりだった。


「……結局、作業場に来ちゃう」


 気がつけば作業場の奥に向かい、余り布の前に座っていた。完全に無意識である。手芸が趣味の人間が仕立屋で働いていると、環境が整っているが故こうなってしまう。端材を見て何が作れるかを考えるのが息抜きだ――希乃とこの話で盛り上がったことを思い出す。

 ちょうどいい手拭い用の布が見つかり、いつもの作業机に戻った。ここからだと店の玄関口も見えるし、業者の人が来てもすぐ対応できる。布を適当な大きさに切ると、早々に作業を開始した。


 それからは黙々と糸を通して、生地にひたすら花を散りばめていった。白無垢の刺繍糸は白しか使わない。色とりどりの糸を使うのが新鮮で、つい手が進む。

 集中したら周りが見えなくなるのは、昔からの悪い癖だった。だからカラカラと扉の開く音にも気付かない。


「ごめんください」


 突如、落ち着いた低い声が響いた。そこでようやく我に返り、びくりと肩を跳ねさせる。

 定休日だから誰も来ないと油断していた。早鐘を打つ心臓を宥めながら、おそるおそる顔を上げる。


「すみません、今日はお休みでし、て……」


 春恵は言葉に詰まってしまった。受付台の向こうに立っていたのは、びしょ濡れの背の高い男性だった。年齢は春恵と同じか、少し上だろうか。癖のあるふわふわとした銀髪は額を見せるように自然と流れ、生成りのトンビコートとよく似合っていた。そして長い睫毛に縁取られた金色の瞳が優しく笑っている。穏やかさをそのまま体現したような男性だった。


「風で傘が壊れてしまって……少しの間だけ雨宿りさせてもらえませんか?」


 男性の手には見るも無惨な姿になった赤い傘があった。先ほどからガタガタと窓が揺れている。春恵が新聞を読んでいた時よりも風が強くなっていた。


「それは災難でしたね。どうぞこちらへ」


 ぼーっと見惚れていたことを悟られないように、春恵は慌てて男性を応接間に案内した。少々お待ちください、と声を掛けると、給湯室へ向かう。

 温かいお茶と髪を拭くものがあればいいだろうか。先ほどまで縫っていた手拭いと湯呑みを持ち、足早に応接間に戻った。

 男性は衣桁の前に立っていた。掛けられた白無垢は春恵が刺繍を施したものだ。薄暗い光の中で、ぼんやりと鶴が浮き上がって見える。彼はそれを夢の中にでもいるような目で見つめていた。


「よかったらこちらをお使いください」


 盆を机の上に置き、手拭いを差し出した。刺繍は途中で終わっていたが、使う分には問題ない。


「ありがとうございます」


 関節の目立つ男性らしい手だった。髪やコートを拭く所作はいちいち洗練されており、彼の育ちの良さが窺える。


「あの白無垢はどなたが作られたんですか?」

「……私です」


 妙な気まずさを感じながら答えると、彼はパッと春恵を見た。


「もうすぐ結婚される娘さんにとご注文いただいたものなんです。完成まであと少しといったところです」

 

彼は感嘆の声を漏らした。


「これほど美しいものを着られるなら、誰だってあなたにお願いするでしょうね」

「まだまだです。師匠にはかないません」

「謙遜しないでください。本当に素晴らしい白無垢だ」


 彼は顎に手を当てると、鶴の刺繍をまじまじと眺めた。完璧な仕上がりのはずだが、こうもじっくり見られると緊張してしまう。


「鶴の羽だけ少し糸の艶が違うような」

「よく気付かれましたね」


 春恵は目を丸くした。わざわざ言うまでもないほんの些細なこだわりだった。羽を煌めかせたくて、光を拾いやすい細い絹糸を混ぜていたのだ。

 そう説明すると、彼は納得したように頷く。気付かれなくてもいいとはいえ、こだわりを目に留めてもらえるのはやはり嬉しかった。


「昔、刺繍を少しだけ教わったことがありまして。糸を見るのは好きなんです」


 彼は懐かしそうに目を細めた。その穏やかな声を聞いていると、肩の力が少し抜けてくる。


「定休日にもひとりで作業されているんですか?」


 彼は奥の作業机を見た。


「ええ、癖みたいなものなんです。じっとしていられなくて」

「分かります。私もつい散歩に出てしまう。雨でも構わず出かけて、このありさまです」


 自虐的な笑みに春恵も釣られて笑ってしまった。何でも完璧にこなせそうなのに、意外とお茶目な面もあるらしい。


「急に風が吹き始めましたからね。無理もありませんよ」

「でもおかげであなたに会えた。雨風には感謝しなくてはならない」


 さらりと言ってのけた。

 今日が晴れでなくてよかったと心から思った。この薄暗さなら熱くなった顔を見られなくて済む。社交辞令だと分かっていても、心臓に悪いことには変わりなかった。

 こほんと咳払いして妙な空気を切り替える。別の話題を振ろうとしたが、相手の方が一歩早かった。


「そういえば、ここでは婚礼衣装以外でも仕立ててもらえるのですか?」

「着物や袴も受けております」

「では袴の注文を……ああ、そうだ。今日は定休日でしたね」


 目に見えてしょんぼりとしてしまった。動物の耳が生えていたら間違いなく垂れ下がっている。


「お気になさらないでください。採寸は後日になりますが、お受けできますよ」

「!本当ですか」


 今度は耳がぴんと立った気がした。そしてキラキラとした目でこちらを見てくる。よく変わる表情は昔近所にいた犬を思い出させる。

 定休日に受け付けると咎められるかもしれない。でもこの流れとこの目を前にして断れるはずもなかった。

 注文票を書くのに受付台まで案内した。椅子に座るように促したが、濡れているから立ったままでいいと断られる。

 店側が記入する箇所を埋めて行くが、やりづらいことこの上なかった。何せ彼はじっと手元を見てくるのだ。字が汚かっただろうか。誤字があっただろうか。震えそうになるのを堪えながら書き進める。


「春恵さん、というんですね」


 受付者の欄に名前を書いたところで、頭上から呟きが聞こえた。


「名乗りもせず失礼いたしました。橘屋で仕立てをしております、水守春恵と申します」


 春恵が一礼して顔を上げると、彼はなぜか安心したような表情をしていた。自信のない問いの答えが正解だった時みたいな。それもほんの一瞬だけで、まばたきをした次の瞬間には元に戻っていた。


「私は白篠惣一郎と申します」

「しら、しの」


 告げられた名前は、春恵の胸にすとんと落ちる。名は体を表すとは彼のためにある言葉ではないだろうか。澄みきった響きは、口にした者の心をも研ぎ澄ましていくようだ。呟くと彼は嬉しそうに笑っていた。

 漢字を教えてもらいながら注文票に書き写す。


「どうか私のことは惣一郎とお呼びください」

「えっ?」


 ぱき、と鉛筆の芯が折れた。動揺のあまり変に力を込めてしまった。


「いえ、それはさすがに……」

「実はこの苗字があまり好きではないのです」


 綺麗な顔が苦々しげに歪んだから、相当な事情があるのだろう。とはいえ、店員と客の関係。超えてはならない一線というものは存在する。


「お客様を馴れ馴れしくそう呼ぶわけには」

「では親しくなれば呼んでいただけますか?」

「えっと、そう、なりますかね……?」


 やけに食い下がるな。

 曖昧に答えると、「分かりました」とご満悦な様子だった。彼に尻尾があれば――いや、やめておこう。先ほどから彼を犬に見立ててしまっている。

 採寸は明日、仕様は明日までに考えてくる、ととんとん拍子で進んだところでお店の扉が開いた。


「春恵ちゃん、ただいま……あれ、お客様?」


 希乃が買い物から帰ってきた。春恵が事情を説明しようとすると、すかさず彼が割って入った。


「雨宿りをさせてもらっていたんです。そしたらそちらの白無垢がとても見事で……私も何か仕立てて貰いたくなって、無理を言って注文をお願いしたんです」

「まあ!」


 何やら意味深な視線を向けてくる。居心地の悪そうな春恵とは対照的に、彼は人当たりのいい笑みを浮かべていた。


「雨も上がったようですし、私はこれで失礼します。こちらの手拭いは明日お返ししますね」


 春恵はふるふると首を横に振った。


「私が適当に作ったものなんです。刺繍が中途半端ですが、よろしければどうぞご自由にお使いください」


 未完成だからこそ、誰かに使ってもらえるなら手拭いも報われる気がした。

 彼は手拭いと春恵を交互に見ると、少しだけ目元を和らげた。


「……では、ありがたく頂戴します」


 深々と一礼し、開きっぱなしの扉から去っていった。コツコツと雨上がりの石畳を踏む革靴の音が聞こえなくなった途端――


「ちょっと、春恵ちゃん」


 すかさず呼び止められた。

 そろそろと声の主と向き合うと、にやけている口元が目に入った。


「な、なんですか」

「なんですか、じゃないよ。あの人となんか“いい感じ”だったじゃない?詳しく聞かせてちょうだい」

「私まだ家事が……」

「そんなのあとでやればいいのよ」


 春恵に退路は残されていない。

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