幼馴染と噂話
『女の幸せは良い旦那を見つけることだ――なんて言葉は嘘よ』
女は家庭に入ることが当たり前とされる世の中で、女手一つで洋服店を立ち上げた母から口酸っぱく言われてきた。
生まれて間もない頃に父は亡くなっていたから、春恵に父との記憶はない。しかし父の話をする時、母は決まって渋い顔をする。のっぴきならない事情があることは、子どもながらに薄々と感じていた。「母は苦労してたんだなぁ。今は幸せそうでよかった」くらいの認識だ。
他の家の子に比べると、自由に育てられたと思う。厳しく言いつけられることは少なく、逆に「自分で考えてみなさい」とよく言われた。友達が「うちはお父さんがこう言ってたから」と決まりごとのように話すのが、不思議に思う時もあった。
母の思いをしっかりと受け継いで育った春恵は、女学校では一歩引いた場所から周囲を見ていた。卒業が近付くにつれ、「あの子は縁談が決まっている」「働きたいけど卒業と同時に結婚する」――そんな声が飛び交う。未来は一本道しかないという愚痴を聞きながら、春恵は密かに人生設計を立てていた。
母みたいに服を作る仕事をしたい。
針と糸で一枚の布が形になっていくあの時間が好きだった。卒業後の進路を母に打ち明けると、二つ返事で背中を押してくれ、さらには修行先まで提案してくれた。
母の子でよかったと、心の底から思った瞬間である。
市街地の喧騒は、故郷の静けさとは正反対だ。
街の中心地にある仕立て屋「橘屋」は、老舗として名高い店だった。
白無垢や振袖といった礼装を専門に扱っている。女学校を卒業後、春恵はここに弟子入りし、住み込みで修行に励んで数年が経過していた。
刺繍への勘の良さは母譲りだったらしい。若いながらも腕は確かだと評判になるのはあっという間で、今では白無垢の意匠と刺繍を任せてもらえている。
春恵は最後のひと針を通した。糸処理をして布を広げると、立派な鶴が現れる。我ながら見事な出来である。
「また断ったんだって?」
隣で作業をしていた希乃が声をかけてきた。今年で四十歳になる彼女は、春恵が店に来た時からずっと面倒を見てくれている。厳しくも優しい、信頼できる先輩の一人だ。
「すみません、せっかく場を設けていただいたのに」
「謝ることないわよ。私もやめておけって言うつもりだったから」
一週間ほど前、希乃から一人の男性を紹介された。顧客から「どうしても春恵を紹介してほしい」と打診されたのだという。賭け事が好きだの女好きだの何かと噂の絶えない男だったため、希乃はその場で断ったが、それからがまたしつこかった。先方の粘り強さに根負けして、一度だけ食事に行くことになったわけである。
「ずっと自慢話だったでしょ」
「……まあ、そんなところです」
「やっぱり!着物を包む短い時間でもそうだったんだから!」
希乃は裁縫道具を片付けながら、怒ったような声で言った。
「ああいう男は話を聞いてほしいだけ。嫁を探してるんじゃなくて、自分の武勇伝に拍手してくれる人を探してるの」
希乃が肩をすくめてみせると、春恵は苦笑した。あの短い食事の中で、終始感じていたことを一言一句代弁された。
「春恵ちゃんは布を大事に扱える人を選びなさいね」
「布、ですか?」
「そう。着物を雑に掴む男は、だいたい女のことも雑に扱うの」
「あー……なんか分かるかもしれません」
希乃は苦虫を噛み潰したような顔をする。あの顧客に着物を渡した時のことを思い出しているのだろう。直接見たわけではないが、彼が雑に扱う光景は容易に想像できた。
「でもあの子はそんなことしなさそうよね。ほら、いつも来る警官の――」
希乃が言いかけたその時、引き戸がカラカラと音を立てながら開いた。立っていたのは橘屋の女将だった。白髪を綺麗にまとめ、柔和な笑みを浮かべている。
「春恵ちゃん、瑛二くんが来てるわよ」
「噂をすれば」
希乃が意味深な視線を寄越してくる中、春恵は慌てて生地を畳み始めた。立ち上がって女将に一礼すると、微笑ましそうな目を向けてくる。
「今日もお昼一緒にどうだってさ。いつも律儀な子ねえ」
「ちゃんと仕事戻ってきなさいよ」
「そんなんじゃないですって……!」
女将たちの言葉に居た堪れなくなり、春恵はそそくさと暖簾をくぐって外に出た。
黒い詰襟に金ボタンを留め、官帽を目深にかぶった瑛二が立っていた。春恵を見つけるなり、いつもの真顔がわずかに緩む。会うのは三日ぶりだ。
「行くぞ」
挨拶もそこそこに彼は歩き始め、春恵は急いで背中を追いかけた。
昼下がりの商店街は一番賑やかだ。威勢のいい魚屋の掛け声は至るところから飛んできて、揚げ物屋からは香ばしい油の匂いが漂ってくる。人で溢れる通りをひたすら進み、いつもの蕎麦屋へ向かった。
二人を見るなり、店主はすぐに端の席に案内した。常連になりつつある二人の特等席である。頼む物も決まっているから、注文を取りに来ることもなかった。
「警察官のお仕事はどうなの?」
「大忙しだ」
湯呑みにお茶を淹れながら尋ねると、瑛二からは素っ気ない反応が返ってくる。官帽を脱いだ彼は、慣れた手つきで小瓶の漬物を取り分けていた。
彼の真面目さを示すように、短い黒髪は後ろに撫でつけられている。固く結ばれた唇と、何を考えているか分からない切れ長の目は相変わらずだ。「格好いいけど見ているだけでいい」と友人が言っていたのを思い出す。
春恵が橘屋に弟子入りした頃、彼は一足先に市街地で警察官として働いていた。希乃に連れられてきたこの蕎麦屋で偶然会い、週に二回ほど昼食を共にするようになったのだ。
「それは事件でってことでいいんだよね?」
「ああ。異常すぎる」
お茶を飲んで息を吐いた彼は、眉間を揉みほぐし始めた。理由を聞こうとしたその時。
「昨日の夜、甘味処の娘さんがいなくなったらしい」
ふいに客の会話が聞こえてきた。内容が内容なだけに、春恵は思わず聞き耳を立てる。
「本当に? この間は呉服屋の次女じゃなかったか」
「その前にも女学生がいなくなってだよな」
隣のテーブルに座る商人の男たちが、声を潜めて話している。
「一人は森で見つかったんだろ? どういう状態だったか聞いたか」
「聞いた聞いた。ズタズタに引き裂かれてたって」
「おい、そんな大声で……」
男たちは慌てて口を噤んだが、春恵の耳には十分届いていた。反射的に湯呑みを強く握りしめる。
春恵は真正面を窺った。彼は左右に首を傾けて凝りを解している。よく見ると隈ができていて、頬も痩けている。珍しく疲れた様子だ。
「大忙しなのはあの事件のせい?」
「聞こえてたか」
瑛二の顔が苦々しいものに変わる。どうやら正解だったらしい。
「ここ一ヶ月で三人が行方不明になっている。全員この辺りに住む若い女性だ」
彼は声を落とした。春恵も思わず身を乗り出す。
「引き裂かれてたっていうのは本当なの?」
「食前に話してもいいのか?」
「いいよ。聞いたの私だし」
「本当だ。発見された女学生がそうだった」
熊や狼の類かと思ったが、市街地に現れたらそれなりの騒ぎになっているはずだ。街の中心地に住む春恵でも、害獣が出たという話は聞いたことがない。
「見つかったのってこの近く?」
ここで初めて瑛二が躊躇いを見せた。隠さないで、という意思を込めて目を見ると、やがて観念したように溜息を吐いた。
「……お前の家の裏山で見つかってる」
春恵は息を呑んだ。どこか他人事のように聞いていた話が、一気に現実味を帯びる。
「あの山にはお狐様が住んでいると言われてきただろう」
春恵はこくりと頷いた。
「村の人たちは『お狐様の神隠し』だって言ってる。女学生が殺されたのは、お狐様の怒りを買ったんだと」
感情こそ抑えられているが、瑛二の目には焦りが浮かんでいた。
その瞬間、春恵の頭に懐かしい光景が蘇った。
『お狐様の葬列』の噂を聞いて、夜中に縁側へ出たこと。無数の青白い光が列を成して山へ入って行ったこと。狐面を被った白い着物の何かがいたこと。そして、子狐を助けたこと。
市街地にずっと住んでいたら「あんなのただの伝承だ」と一蹴できたのかもしれない。だが、春恵は昔「お狐様の葬列」を目撃しているし、瑛二も祖父の体験談を聞いて育っている。事件とお狐様の関係を全く否定できなかった。
「そして昨日の夜、四人目の行方不明者が出た。近いうちにあの山に捜索に行くことになっている」
瑛二は湯呑みを置いて、まっすぐ春恵を見つめた。
「お前も気をつけろ。夜は絶対に一人で出歩くな。夜勤でなければ付き添ってやるから」
「……うん」
小さく頷いたのと同時に店主がやってきて、二人の前に器を置いた。湯気が立ち上り、出汁の香りが鼻をくすぐる。いつもなら食欲をそそられるはずなのに、今日ばかりは喉を通る気がしなかった。




