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はじまり

「今夜はお狐様の葬列の日かもしれん」


 市場からの帰り道、荷を背負った男性たちがそんな噂話をしていた。夕暮れ時の山道にその声は妙に響き、春恵の耳に残る。


 七歳になったばかりの春恵は、母と妹と並んで歩いていた。誕生日のお祝いに貰った手作りの黄色い着物に、白い前掛けを身につけている。子ども専用の小さな買い物籠には、紙に包んだ菓子が収まっていた。通行人からは微笑ましい視線を向けられるが、春恵はそれどころではない。


「葬列ってなあに?」


 妹が母の着物の裾をつかみ、大きな声で尋ねた。母は笑って、立てた人差し指を唇に当てる。


「亡くなった人をお墓まで送ってあげるのよ」


 そう言う母の声は強張っており、ひと回り以上大きな籠を持つ指先には力がこもっていた。


「狐がそれをするの?誰かが死んじゃったから?」

「こら、お狐様と呼びなさいといつも言ってるでしょう……家族やお友達が死んじゃって、迷わずあの世へ行けるようみんなで道案内しているの」


 春恵は祖母から聞いたことがあった。

 家の真裏にお狐様が住むとされている山がある。月のない夜、どこからともなく光が浮かび上がり、列を成してその山に向かっていくのだという。厳かに進む様子はまるで葬列のようだから「お狐様の葬列」と呼ばれていた。

 祖母と母は「見た者は二度と戻らないから、見てはいけない」と顔を曇らせ、祖父は「嫁に連れていかれるんだ」と笑いながら酒を呷る。ある者は「白い神輿で生贄を運んでいる」と怪談のように語る。

 物事の分別がつくようになった村の子どもたちは、所詮子ども騙しだと思っていた。夜の山に入らないように牽制する、大人が作り出した話にすぎないと友達は言うのだ。


 しかし、春恵は嘘だとは思えなかった。母達は本当に何かを恐れている様子だった。ただの噂話ではないのだと、子どもながらに察していた。

 とはいえ、友達に「私は信じてる」なんて反発しようものなら、冷やかされるに決まっている。だから春恵は黙っているしかなかった。


「お狐様の葬列を見た者は、一緒にお墓まで連れて行かれちゃうのよ」

「お父さんが眠っているところ?」

「ううん。あそこよりももっと奥。しかも真夜中に。みんな寝ているから気付かれないかも」

「……」


 その光景を想像したらしい妹の顔色が、目に見えて曇った。母の着物を掴み、絶対離さないと言わんばかりに力を込めている。


「だから絶対に見に行ってはだめよ。分かった?」


 母に見つめられ、春恵も妹も小さく頷いた。


「いい子ね。さあ、早く家に帰りましょう。おばあちゃんが心配するわ」


 三人は少しばかり足を速めた。山道の木々の影が長く伸び、何かの手のようにも見える。春恵は籠をぎゅっと抱きしめた。中のお菓子が少し潰れてしまったかもしれないが、それどころではない。

 春恵の胸の中では、恐怖と好奇心がむくむくと膨れ上がっていた。見てはいけないと言われると、かえって見たくなるのが子どもの性である。

 けれど、祖母と母の言葉が歯止めをかけていた。


 *


「お狐様の葬列を噂してる人がいたの」


 幼馴染の瑛二にぽつりと溢した。

 家の裏庭にある大きな欅の木の下に二人は座っていた。買い物からの帰り道、瑛二の母に遭遇し、あれよあれよと言う間に一緒に食事することが決まったのだ。賑やかな食事を終え、今は二人で食後の果物を待っている。

 瑛二は春恵より一つ年上だ。正義感が強く、誰よりも生真面目な性格だった。口数が少ないからみんな怖がるが、春恵はその距離感が心地よかった。今日も草笛を作りながら、黙って話を聞いてくれている。


「本当にあるのかな」


 瑛二は草笛を唇に当て、ひと吹きした。ピィ、と高い音が響く。


「お前は信じてるのか?」

「……うん。おばあちゃんが嘘つくはずないもん」


 春恵は膝を抱えて答えた。

 しばらく沈黙が続く。風で揺れる草を見ていたから、彼がどんな表情をしているのかは分からない。肯定も否定もされないから、馬鹿にはされていないのだと思う。横目で伺った彼は、草笛を作り直していた。


「俺の爺ちゃんも見たことあるって言ってた。子どもの頃、どうしても見たくて隠れて待ってたんだと」

「本当?」


 春恵はパッと顔を上げた。彼はちらりと見ただけで、また草笛に視線を戻す。


「狐のお面を着けた人たちが、青白い提灯を持ってすうっと目の前を通り過ぎたんだって。お囃子も聞こえたって言ってた」

「……お爺様は連れて行かれなかったの?」

「気付かれなかったから大丈夫だったらしい。でも」


 彼は言葉を切って、春恵を見た。


「あれは人を害するものじゃない、って。ただ自分たちの道を行くだけで、こっちから列に入らなければ何もされない」

「じゃあ、連れて行かれるっていうのは?」

「多分、見た人が提灯を追いかけて自分から山に入るんだろ。それで迷って戻ってこられなくなる」


 彼の説明は理屈が通っていて、春恵も納得せざるを得なかった。


「ねえ、瑛二」

「ん?」

「もし本当に今夜、葬列が通ったら見に行きたいと思う?」


 彼は目を丸くする。

 好奇心に突き動かされて出た言葉だとは分かっていた。見に行きたい。でも一人では怖いからついてきてほしい。あわよくば、という気持ちがあった。


「お前、正気か?お母様に怒られるぞ」

「分かってる。でも……」

「俺は行かない」


 きっぱりと断られ、春恵は肩を落とす。正義感の強い彼がどう答えるかなんて分かりきっていたことだ。


「お前も行くな。お狐様たちの邪魔をするのはよくない」

「……行かないよ」


 春恵は小さく頷いた。断られたことで好奇心は落ち着いたし、元より一人で見に行く勇気はなかった。

 また草笛の音が鳴ったその時、母の声が裏口から響いた。


「春恵、瑛二くん、果物ができたわよ」


 二人は顔を見合わせて立ち上がった。先に歩き出していた彼が振り返り、真面目な顔で言う。


「約束だぞ」


 春恵は頷いた。


 二人は家の中へ入っていった。切り分けてくれた桃を食べながら、春恵はちらりと窓の外を見た。今日は新月のようで、月はどこにも見当たらない。

 瑛二の家族が帰った後、春恵は洗い物の手伝いに行った。食器を拭いている最中も頭の中を占めるのは、瑛二の祖父の話だ。

 青白い提灯を持つ、狐のお面を着けた人。

 ちょうど手にしたのは青いお皿だった。この色よりももっと白を混ぜたような感じだろうか。


「ぼーっとしてるけど、どうしたの?」


 母に声をかけられ、ハッと我に返る。


「なんでもない!」


 拭き終わったお皿を置き、次のお皿を手に取った。

 

 



 夜が深まるにつれ、胸騒ぎは強くなる一方だった。

 家族が眠りについた後も、春恵は布団の中で目を開けたままでいた。月明かりがないから、障子の向こうは真っ暗だ。虫や蛙が自分の居場所を知らしめるように鳴いている。

 ごろりと寝返りを打つと、母の寝顔が見えた。規則正しく動く胸に合わせて呼吸をしてみたが、ちっとも眠たくならない。

 埒があかなくて、春恵はそっと布団から抜け出した。夜風に当たれば、気を紛らわせられるかもしれない。極力音を立てないように布団から這い出し、抜き足差し足で板の間を歩く。縁側に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。虫たちの大合唱も殊更大きくなり、不思議と心細さはない。

 もし葬列が通るなら、ここから見えるのだろうか。

 駄目だと分かっていても、気を抜けばすぐに葬列のことを考えてしまう。

 だけど、すぐ近くに母もいるし、大きな声を出せば何かあった時には気付いてくれるはずだ。遠くから見る分には構わないだろう。


「青白い光だっけ」


 春恵は縁側に座り、遠くを見つめた。瑛二の祖父が言っていた色を探すが、それらしきものは見つからない。

 いくら目を凝らしても現れず、どんどん時間だけが過ぎていく。夜風に当たり続け、指先の感覚が鈍くなってきていた。

 もしかしたら、今夜は来ないのかもしれない。噂話は所詮噂話で、大人たちの思い違いだったのかもしれない。

 春恵は小さく息を吐いて、もう布団に戻ろうと腰を上げた。

 その時だった。


「……?」


 ぴたりと風が止んだ。

 あれだけうるさかった虫たちの声も聞こえなくなり、辺り一帯がしんと静まり返った。世界から音が消えたような不気味な静寂だ。春恵は子どもながらに空気が変わったのを感じ取っていた。


 そして――聞こえた。

 チリン、チリン。

 耳をすまさずとも遠くから鈴の音がする。やがて笛の音も聞こえ始めた。美しいのにどこか悲しげな旋律は、春恵の心を掴んで離さない。

 呆然と立ち尽くしていると、欅の木の向こうに淡い青白い光が灯っている。一つ、二つ、三つ……数えきれないほどの光の玉が、空中でゆらゆらと揺れている。春恵は息を呑んだ。

 青白い提灯だ。本当に来た。これがお狐様の葬列なのだろうか。


 その瞬間、「見てはいけない」という声が頭の中で響く。でも目を逸らせないし、足はすくんで動かない。

 光は整然と並び、静かにこちらへ向かってくる。やがて光のそばに、ぼんやりと白い影が浮かび出した。人らしきものだ。みな揃いの狐面を着けて、白い着物を着ているから、本当に人間なのか確証が持てない。面の下から覗く目がきらりと金色に光る。

 背の高い者もいれば、小柄な者もいて、ゆっくりとした足取りで同じ方向へと向かっている。

 列の中程には、輿のようなものが浮かんでいた。白い布で覆われ、中に何が入っているのかは分からない。けれど、それが大切な何かであることは伝わってきた。


「……」


 家のすぐ前を葬列が通過していく。春恵は呼吸すら忘れて、ただ魅入っていた。美しかった。この世のものとは思えない幻のような光景だ。

 春恵は縁側に座ったまま、じっと見つめていた。最後尾の提灯が見えてくると、名残惜しい気持ちで最後の一人が通り過ぎるのを待った。


 灯りが見えなくなって、ようやく春恵は息を吐けた。

 まだ心臓がドキドキしている。噂話は本当だったけど、連れて行かれなかった。あんなに綺麗だったのに、なぜ祖母も母も怖がるのだろう。尋ねたいが、葬列を見に行ったことを怒られるのは怖い。

 そそくさと部屋に戻ろうとしたその時、ふと気がついた。


「あれ?」


 葬列が来た方向から、一つだけ青白い光がやってくる。先ほどまでのものとは違って、地面に近いところで不安定にゆらゆらと揺れていた。

 目を凝らすと、動物のような小さな白い影が見える。

 狐だった。それもまだ小さい子どもの。

 短い四本足を懸命に動かしているが、後ろ足を引きずっているように見える。


「怪我してるのかな……」


 思わず声を漏らした。

 子狐は春恵の家の前まで来ると立ち、ふらりと倒れ込んでしまった。なんとか起き上がろうとしているが、怪我をした足を庇ってうまくいかないようだ。提灯の光も消えかかっている。このままでは列に追いつけず、迷子になってしまうかもしれない。


 ――お狐様たちの邪魔をするのはよくない。


 瑛二の言葉がよぎったが、それでも目の前で弱る動物を見捨てられなかった。気が付いた時には縁側から飛び降り、裸足のまま駆け寄っていた。


「待って!」


 子狐はびくりと身体を震わせた。暗闇に金色の目が浮かび上がり、警戒するように春恵を見つめる。


「大丈夫、何もしないから」


 なるべく怖がらせないように、下からゆっくりと手を伸ばした。子狐は後ずさりし、歯を剥き出して小さく唸る。


「怪我してるでしょ? そのままじゃみんなに置いつけないよ」


 最後尾の提灯は既に山の中に消えている。どんどん子狐と距離が開いていることに、春恵は焦りを覚えた。

 浴衣の袖から、名前が刺繍された白いハンカチを取り出した。母が作ってくれた大切なものだ。これを使ってしまうともう二度と戻ってこないかもしれないが、構っていられなかった。


「ね、手当てするだけなの。すぐ終わるから」


 子狐はじっと春恵を見つめていた。時間にして数秒程度のことだが、とてつもなく長く感じた。

 やがて、諦めたように前足を差し出す。春恵は安堵の笑みを浮かべて、触れるくらいにまで距離を詰めた。

 おそるおそる傷口を確認すると、鋭い何かで挟まれたようだった。おそらく猟師たちが仕掛けた罠に掛かってしまったのだろう。ハンカチを細長く折りたたみ、優しく前足に巻きつける。


「痛くない?」


 子狐からの反応はなく、春恵をじっと見つめるだけだった。

 ハンカチを結び終えると、子狐はゆっくりと立ち上がった。春恵を見る瞳にはもう警戒の色はない。四本足でもしっかり立てている。


「もう大丈夫。ほら、早く行って」


 山を指差すと子狐は提灯を咥え、ひょこひょこと駆け出した。さっきよりも足取りは軽快で、あの調子で追いかけたら最後尾に追いつけそうだ。

 小さな後ろ姿を見送っていると、立ち止まってはこちらを振り返ってくる。

 ついてこないように警戒しているのか、お礼を言われているのか。

 春恵は小さく手を振った。


 提灯が見えなくなったのと同時に、虫たちが一斉に鳴き始めた。いつもの夜が戻り、葬列を見たのは夢だったのではないかと思えてしまう。しかし、春恵の掌にはふわふわとした毛並みの感触が残っている。夢で片付けるにはあまりにも生々しかった。


「春恵!」


 突然、肩を掴まれた。慌てて振り向くと、肩を上下させた母がすぐ後ろに立っていた。


「こんな夜中に外へ出るなんて!あれほど駄目と言ったでしょう!」


 心配と怒りの混じった母の顔を見て、春恵は何も言えなかった。お狐様を助けたなんて話したらもっと怒られてしまう。


「ごめんなさい。眠れなくて外の空気を……」

「早く中に入りなさい」


 母に背中を摩られながら、春恵は山を見上げた。

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