第二章:すべてが始まった庭
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ヴァロリア王国の一角、静かで穏やかな庭園の中で、三人の若者は小さな一歩を踏み出す。
カエル・ヴァレンハルトの胸に芽生えたのは、初めて他人と心を通わせるという、淡くも確かな感情。
セリア・ダーニエルの慎ましさと、ナエリス・ダーニエルの無邪気さが、その空間に温かな光を灯した。
まだ何も知らない子どもたち。だが、出会いはすでに物語を動かし始めている。
運命に導かれるように交わる視線。揺れる心。
一杯の紅茶、ひとつの笑い声が、世界のかたちを少しずつ変えていく。
静かな午後、花咲く庭園で、運命の糸がそっと結ばれた。
そして、まだ誰も知らない「始まりの記憶」が、静かに刻まれていく――。
カエル・ヴァレンハルトは、目を逸らすことができなかった。
セリア・ダーニエルが自己紹介の言葉を少し詰まらせながらも、彼女の視線や、ためらいがちな立ち姿には、どこか人を惹きつけるものがあった。
まるで時間が彼のためだけに緩やかに流れているかのようだった。
セリアの母、リオラ・ダーニエルは、カエルの視線に気づき、カエルの母であるオーレン・ヴァレンハルトと軽く微笑みを交わした。
「カエル、坊や」
と、オーレンが優しく声をかけた。
「裏庭の庭園に女の子たちを案内してあげたらどう?」
カエルが返事をする前に、ナエリス・ダーニエルはすでに動き出していた。
瞳を輝かせて、サロンを駆け抜ける。
「いこうよ!あんた、走り方がおじいちゃんみたいだよ!」
と叫びながら、彼の手をぐいっと引っ張った。
カエルは少しよろめきながらも、セリアの妹の勢いに押され、ついていくしかなかった。
その後ろで、まだ母の隣に立っていたセリアは、一瞬ためらった。
「セリア」
と、リオラが穏やかに微笑んで言った。
「妹さんとお友達に付き添って。せっかくだから庭を楽しんでおいで。」
セリアは静かにうなずき、ゆっくりと歩き出した。
まるで陶器の上を歩くかのような、繊細な足取りだった。
オーレンはその様子を見守りながら、小さくため息をもらした。
「この子たち……まるで世界が、まだ彼らの中で鼓動しているみたいね。」
ガラス扉を抜けると、カエルとナエリスは一気に広がる色と香りに包まれた。
午後の柔らかな光が、咲き誇る桜の葉を通して差し込んでいた。
ナエリスはカエルの手を放し、風と踊るように花々の中を走り抜けた。
セリアも扉をくぐり、太陽の光が肌を撫でた瞬間、その景色に目を見開いた。
真紅、紫、黄色といった色とりどりの花々が列をなし、整えられた石畳の小道が続いている。
小さな橋が透き通る池に架かり、その先には、淡い木で作られたガゼボが桜に囲まれて佇んでいた。
しばし立ち止まった彼女は、その光景に言葉を失った。
「……きれい……」
と、魔法が壊れないようにとでも言うように、そっとささやいた。
興奮したナエリスが二人の元に戻ってきて、両手を取って強引に引っ張った。
「ほら!もっと近くで見ようよ!」
カエルとセリアは驚きつつも顔を見合わせた。
その瞬間、ふたりの視線が重なった。
セリアの頬はふわりと紅く染まり、カエルはその様子に思わず微笑みをこぼした。
「カエル、この庭って……あなたが手入れしてるの?」
と、ナエリス・ダーニエルが好奇心いっぱいに尋ねた。
「僕が? いや……」
と、カエル・ヴァレンハルトは笑いながら首を振った。
「庭の手入れは、使用人たちがしてくれてるよ。でも……本当に見事にしてくれてる。」
「うん、とってもきれい!」
と、ナエリスはくるりとその場で回転しながら言った。
そのとき、庭の向こうから、ひとりの女性が凛とした足取りで近づいてきた。
深い藍色のドレスに、しわ一つない白いエプロンを着けたその女性は、ヴァレンハルト家の執事長――リリーだった。
「カエル様、ガゼボでお茶のご用意ができております。」
カエルは軽くうなずいた。
「うん、すぐ行くよ。」
三人は並んで歩きながら、リリーのあとについてガゼボへと向かった。
白い木造のガゼボには、花咲く蔓草が絡まり、庭全体を見渡せる優雅な空間が広がっていた。
そこには、風がやさしく通り抜け、花の香りがふんわりと漂っていた。
彼らは丸い小さなテーブルを囲んで腰を下ろした。
リリーは繊細な磁器のティーカップに紅茶を注ぎ、バタークッキーとフルーツケーキの乗ったトレイを中央に置いた。
「ナエリス、お菓子は好き?」
と、カエルが優しい笑顔で尋ねた。
「だいすき!」
と、ナエリスは元気に答えながら、すでにケーキに目を輝かせていた。
「よかった。クッキーはたくさんあるし、このケーキも今朝焼いたばかり。焼きたてだよ。」
そう言ってから、カエルはセリアの方へ目を向けた。
「セリアは……甘いもの、好き?」
セリアは少し恥ずかしそうに頷き、控えめな声で返した。
「……はい、好き……です。」
「それはよかった。」
カエルはそっと微笑んだ。
紅茶を味わいながらしばらく静かな時間が流れた後、カエルは再び口を開いた。
「ふたりは……どこから来たの?」
セリアはそっとカップをソーサーに戻し、かすかな声で答えた。
「王都から来たの。父が王国への貢献で名誉男爵の称号を授けられて……それと、エラゴンとの国境問題を回避したことも理由の一つだと思う。」
カエル・ヴァレンハルトは驚いて眉を上げた。
「うわ……それはすごいね。」
「領地はないの。ただの称号だけ。でも、それでも王国の政治会議に参加できるようになったの。」
「じゃあ、お父さんは王国の評議会に関わってるんだ?」
セリア・ダーニエルは小さくうなずいた。
そのとき、バタークッキーを頬張っていたナエリス・ダーニエルが、興味津々の表情でカエルを見た。
「カエルって、学校に行ってるの?」
「まだ正式には通ってないよ。」
と、カエルは穏やかに答えた。
「先生たちには年齢よりも進んでるって言われてて、今までは自宅で勉強してた。でも、来月から通う予定なんだ。」
「うちのお姉ちゃんも!今年から少年部に入学するの!」
と、ナエリスは目を輝かせながら言った。
カエルはセリアを見て、驚いた様子で口を開いた。
「本当? じゃあ、同じ学年になるかもしれないね。」
セリアはふいに目を逸らし、唇にかすかな微笑みを浮かべた。
何かを確かめるようにカエルを見つめ返し、少し首をかしげながら尋ねた。
「カエル様……あなたって、魔法使いなの?」
「“カエル様”なんて、かしこまらないで。ただのカエルでいいよ。」
と、彼はやさしく微笑んだ。
ナエリスがすぐにその言葉を真似して元気に叫んだ。
「カエル!カエル!その名前、すっごくかわいい〜!」
カエルはくすっと笑いながら、ナエリスの頭をやさしく撫でた。
「ありがとう、ナエリス。」
それから、少し真面目な顔になって言った。
「五歳の時の儀式で、火、水、風、三つの属性に適性があるって分かったんだ。」
セリアは目を見開いた。ナエリスも口をぽかんと開けていた。
「すごい……」
と、セリアが静かに感嘆の声を漏らした。
「魔法が使える人は少ないのに、あなたは三つも……とても珍しいことだわ。」
カエルは控えめに微笑んで礼を言ったが、すぐに説明を加えた。
「この才能のせいで、小さい頃から厳しい訓練を受けてきたんだ。実は、王様から直々にお呼びがかかって、両親と一緒に謁見したこともある。そのとき、王から正式に支援をいただいて、魔法の修行に専念できるようになったんだ。」
セリアはじっと耳を傾けていた。
そして、落ち着いた声で言った。
「学校では、午前中にみんな一緒に座学を受けるけれど、午後は別々になるって知ってる?私、魔法が使えないから普通の予備課程なの。カエルは……きっと軍事系のコースに進むんじゃないかなって思って。」
カエルが何か返そうとしたその瞬間――
ナエリスが元気に歌い出した。
「まーち、そるじゃー、かーみのけ ぺらぺら~♪」
三人は思わず笑い声を上げた。
遠くからその様子を見ていたリリーさえ、優しく微笑んでいた。
カエルの瞳がきらきらと輝いていた。
「僕ね、この土地が大好きなんだ。両親が守ってきたこの場所。ここに住む人たちはやさしくて、いつも僕を受け入れてくれた。両親の働きのおかげで、ヴァロリアも成長したと思う。だからこそ――僕はこの人たちを守りたい。この国を、幸せにしたい。」
その真っ直ぐな言葉に、セリアの瞳がほんのり潤んだ。
彼女は、心からその想いに打たれていた。
すると、カエルは手を差し出して、二人に向かって言った。
「ナエリス、セリア……友達になろうよ。」
「……友達?」
と、セリアは少し驚いたように繰り返した。
「うん。そんなに驚くこと?」
セリアは少し目線を落とし、やわらかな声で答えた。
「……私たち、王都でずっと暮らしてたの。もともとは平民だったし、友達もあまりいなくて……」
カエルはきっぱりと返した。
「平民でも、貴族でも、そんなの関係ないよ。人はみんな、それぞれに価値がある。」
ナエリスは両手を挙げて、嬉しそうに叫んだ。
「やったー!じゃあ、今から私たち友達だね!」
三人は声をあげて笑った。
その場に広がる笑い声に、リリーも思わず吹き出してしまう。
――何か、とても特別な時間が、ここから始まったのだと、誰もが感じていた。
出会いはいつも、何気ない瞬間から始まる。
たった一言、たった一歩。それが未来を変えることもある。
カエルにとって、今日という日は「特別」になった。
セリアの微笑みも、ナエリスの笑い声も、胸の奥にしっかりと残ったからだ。
孤独の中で育った少年の心に、やさしい風が吹き始める。
友情という名の種は、今、小さな芽を出したばかり。
だが、その芽がどんな花を咲かせるのか、それはまだ誰にもわからない。
次の一歩は、きっと誰かの心をまた動かしていくことだろう――。




