98 甘い看守による容赦なき躾
レルム(19)妻の浮かべる淑女の微笑みは、「チューして!」とねだられたも同然であり夫としては応えないなんてありえない。
アレイン(前世28)…アウローラの叔父。通称おいちゃん。スペルモルのともだち兼シルクハット。
スペルモル(12)べらぼうに整った愛らしい御尊顔は健在。アウローラいわく「いくつになってもかわいい天使」。レルムいわく「ドSだけが気がかりだけど今も変わらずかわいい天使」。鳥頭夫婦に溺愛されてすくすく成長する将来有望ドS紳士。
※「ダニィニャ」は造語です。該当する単語がないことは一応調べましたが、現実において偶然に一致したとしても一切まったく関係ありません。
この世界の「元の世界」における、たちの悪い性的なスラングです。倫理観の失せた男性社会で生み出され、あまりのインパクトに語り継がれてしまった、一般の女性では絶対に知り得ない醜悪な意味をもつ言葉と思って頂ければ。
呪物を呪いの器にする。
アウローラは目を見開いて、兄弟を交互に見た。スペルモルもカイザルを凝視した。
『…それは…それが本当なら「消滅の魔法」の練習がしやすくなる。だが、危険だろ。そもそも今ソーマの脳と身体を制御しているんだろ? そこに更に別の呪いを身に宿すんだ…呪われなくても、負荷で自我を食われかねない。
…そうだ、それなら辞書を器にしよう。俺が対話で何かを呼び出すから、アウローラは画面で正体を暴いてくれ。もし、その何かが呪いと分かれば…』
カイザルはニヤと嗤い、片手を差し伸べるや凪を呼んだ。
アウローラの虹眼に映るのは、艶やかな赤みを帯びたボウル状の凪。欠けも歪みもブレもない。アウローラはソーマの魔力色が緑だと知っている。なのに今、彼の手にある凪の色は赤…つまり、カイザルはソーマの能力に頼らず自力で凪を呼んでみせたということだった。
気づいたアウローラは驚愕し、とっさに後ずさりかけた。根性で耐える。
レルムが気付いて妻の肩を抱いた。優しく擦ると、アウローラの肩の力が抜ける。妻が何に動揺したかわからず、レルムは心配そうにアウローラの顔を覗き込んだ。
他の者たちは凪が呼ばれたことに気付いた。面々が様子をうかがう中、カイザルは鷹揚に答えた。
『そっちのほうが怖いことになるぞ? なにせ辞書の呪いは未だ濃い。
スペルモルの中の何かが呪いだとする。消滅の魔法が成功すれば何ら問題ない。が、伝説級の魔法だ、習得が安易なはずがない。
別の害意が上乗せで宿った呪物はそれはもう厄介な代物と化すだろうな?
リスクを考えるなら素直にオレに頼れ、スペルモル。
レディ・アウローラ、貸すのはこの凪でもいいぞ? もちろんオレのカラダをねだってくれてもかまわない。
ついでに何か仕込んでやろうか? レディなら、ダニィニャの技だろうと頑張って覚えてレルムを喜ばすことだろう』
聞いたことのない単語がでたため、アウローラは内心で首をひねった。
と、隣に座っていたレルムがゆっくり立ち上がり、同時にズンと場に圧がかかる。
急に訪れた静かな前兆に、息苦しさを覚えたとき、草間が吐き捨てるような口調で言い放った。
『…そこは変われねぇのかよ、クズが…。
懐かしい館の雰囲気に飲まれでもしたか?
妻の仕置きが恋しくなったのか?
違うだろ。素直に言えよ。「可愛い弟が自分のなりすましから嫌がらせうけていると知って苛ついているところに、当の弟から侮られたので大変ムカつきました」って。
言っておくがスペルモルの判断は「思いやり」だ。てめぇの実力を把握できるほど接してねぇんだぞ、むしろ12で目先の欲に飛びつかずにいられるなんて有能だろうが。褒めろや。
末っ子だからと侮っているのはてめぇの方だよ。
暗殺と誤解だって、説明を怠りやがったから拗れたんだ。双子のあの環境は自分が無能だったせい、そう理解しておきながら懲りずに安易に一線を越えやがって…レルムで力を誇示しようとするな。構われたいなら真っ当なやり方を探せ。
オレは帰る。今後てめぇに通訳はいねぇ。だから、これが最後だ。表面の言葉だけで真意を決めつけるな。相手への理解を怠るな。てめぇの都合のために、レディを利用するな』
カイザルは凪を消してニカ!とレルムに笑いかけた。
「おっと失礼。今のは忠告だな? ただの軽い挑発であって、そんな小難しい話じゃない気はするが…来世の感覚は有意義だ。鵜呑みにしたほうが良さそうだな。
撤回しよう。悪かったな、レディ・アウローラ。スペルモル。忘れてくれ。
敵対する気は本当にないんだ。親しくしよう、レルム」
目が合ったレルムはすんとした真顔で目を細める。
向けられる殺気を闊達な笑顔で受け流し、牢の中のカイザルはひょいと足を組んだ。その気安い姿は隙だらけのようで隙がない。
アウローラは目を見開いて物騒な雰囲気を放つ二人を交互に見ていた。
黙って様子をうかがっていたスペルモルが口を開いた。
『アウローラ。今のは全て忘れろ。覚えなくていい。
カイザル兄上、この館は俺たちが馴染んだ場所とは違う。戦場の天幕にいるように行儀よくしてほしい。…お遊びが過ぎるようなら俺にも考えがある』
『…へぇ? 例えば』
ニヤニヤ嗤うカイザルから目をそらし、スペルモルは草間に声をかけた。
「なぁ、草間。言い忘れていたが、未来に帰る目処が立ったそうだぞ」
草間はベールを揺らして立ち上がった。動揺から椅子を派手に蹴り転がしてしまい、慌てて足で器用に弾いて元に戻す。
「っお、…おおっ? マジか…帰れる? 本当に!? レディ・アウローラ、オレもう帰れるの!?」
「はい。早ければ明日の昼頃には」
草間の雰囲気がぱぁと輝き、ベール越しでも分かるほどの喜びをみせた。
「ありがとう!! マジ感謝! っし! やったぜ!」
タタン、とステップを踏み、草間はキレ良く踊った。喜ぶ草間に、スペルモルが声をかけた。
「おめでとう、草間。帰る前に置き土産がほしい。
兄上の不名誉とやらの詳細だ。じっくり聞かせてくれ。俺が正確に覚えられるように」
アウローラが(? 触れてほしくない話題なんじゃ…?)と首を傾げかけ、ふと気付く。
周囲の空気が凍りついていた。レルムは固まり、草間も同じく。カイザルに至っては中途半端な笑みで青ざめ、時が止まったかのような状態だった。
「あー…と、スペルモル。コイツを庇う気はもうないんだが…オレにも弟がいるからさ。お兄ちゃんって生き物はな? 弟に格好つけていたい生き物でな? つまり…あー…「憑依」を回収してやるよ、もう余計な真似させねー。な? それで勘弁してくれね?」
草間が上ずった声で説得を試みるも、決意揺らがぬ目をしたスペルモルはしみじみと言った。
「草間、お前は優しい男だ。くれたドングリも立派だった。気前が良く面倒見がいい、さらに優しいなんてかっこいい男だよなぁ。
そんな大人の男なら、きっと立つ鳥跡を濁さずで帰りたいだろうが、ここはあえて抑止力を残すのが良いと思う。
「現地の少年に旅人が知見を披露する」。要約だけみれば、実に姉好みの友情物語になりそうだから。
前世の弟妹を喜ばせて去る。カッコいいよな。ぜひ良い思い出を持ち帰って欲しい。
草間の弟君は、きっと兄のカッコよさを再確認できるだろう」
男たちが冷や汗を滝のように流すなか、スペルモルはその愛らしいご尊顔に天使の微笑みを浮かべた。
声変わりの終わりを予感させる落ち着いた低音は、それでも声質としてはまだ愛らしさが残る。スペルモルは抜群の演技力で優しく諭した。
『教えてくれたよな、カイザル兄上? 意味なく甘いのはダメだって。意味があるなら甘くてもいいんだろ? つまり女衆の心が平穏であれば、俺は兄上に甘くいられる。親しくしよう。…な?』
「親しくしよう」、つまり「神聖王国の空気を持ち込んだら容赦なく拡散」。
無垢な笑顔で無垢ならぬ天使は脅し、カイザルは無言で目を閉じ頷いた。ただよう紫色に哀愁が混ざる。
さすがのレルムも怒りが吹っ飛び、草間とともに沈痛な面持ちで直立した。
スペルモルの表情が素に戻り、ぽかん顔のアウローラを見た。
『…さて。どうする?
せっかくの兄上の申し出だ。凪を借りて解呪の練習をしてみるか?』
『え。…あ。ええと。さきほど見せて頂いた凪の使い方で、少し思いついたことがあります。なので、ありがたいですが、ええと…まずはもう一度、今度こそ自分の凪で受け止めてみたいです。いかがですか?』
『いいと思う。やってみろよ。俺も凪の精度をあげたい。ついでに、ちょっと呼んでみる』
『はい、スペルモル。では一緒に練習しましょう』
大人の男3人が気配を消す重い静寂のなか、アウローラは手にした辞書を両手に持ち直した。
ハッと我に返ったレルムがアウローラの隣に座り直す。
『じゃあ、俺から』
スペルモルは、全力で凪を呼んだ。眉根を寄せる彼の両手に、うっすら凪が現れた。ただしブレが大きく、掠れて形を成していない。色も淡く、ほぼほぼ灰色に近い。チラリと銀色に光った次の瞬間、ぐしゃりとへしゃげて散っていった。
ふぅ、とスペルモルはため息をついて脱力し、眼鏡を外してクッションに額を埋めた。全身の汗と動悸が止まらない。
(…俺はここまでだな。なにより魔力が足りない。リンに大半を預けたままだった。
…まぁ、いい。練習はほかでもできる。アレインが付き合ってくれるしな…俺は俺のペースでやるしかない)
力なく顔をあげたスペルモルは、眼鏡をかけなおしてアウローラを見守った。
アウローラはというと、じっと辞書を観察していた。はたからは怠惰に眺めているように見える姿だ。
ただし、本当にぼんやりしている「だけ」と考える者はここにはいない。男たちが静かに見守るなか、アウローラは考えをまとめおわり、ゆっくりと辞書を掲げた。
虹眼を開けたまま、まず書見台をイメージする。それから魔力を編み上げ呪文で補強しながらじっくり確実に準備を整え、それから慎重に凪を呼んだ。
魔力で形作られた書見台に重なるように、ほんのりと淡紅色の凪がまったく同じ大きさ形の書見台として呼び出される。魔力で有機物を支え、存在を凪の上に置き、慎重に手を離せば、辞書はその場に留まった。
魔力も凪も見えていないレルムが、空中に浮いた辞書を見て「おお…?」と小さく呟いた。
スペルモルは集中して観察し続ける。
何が起きたか正確に理解できる草間とカイザルは、示し合わせたように一言告げた。
「「お見事」」
声が揃ったふたりは驚いたように顔を見合わせた後、揃って苦笑した。
ほんの少し場の空気が緩むも、今のアウローラは和める状態にない。凪の維持で手一杯だった。
(その「お見事」なことを、カイザル王は一瞬でやってのけた。しかも、私の凪とは比べものにならない素晴らしい完成度で。
凪の扱いは虹髪のほうが有利なはずだし、なにより彼は今、他人の身体だから絶対的に不利なのに。
生前、一体どれほど修練を積んだのかしら。
当たり前だけど上には上がいる。私、無意識に自惚れていたみたい…しっかりしなくちゃ)
じんわり汗を感じる。しっかり塗り込んだメイクのおかげで顔には出ないが、頭皮の汗が首筋を伝って流れる。高襟に吸われて布の色を濃くした。
『…解呪、します』
アウローラは、深く深呼吸した。
結果は惨敗だった。
カイザルの手を借りる借りない以前の問題だった。前回の経験は、まったく役に立たなかったのだ。
どうやら穢れの種類の見極めが足りず、間違ったアプローチをしたらしい。呪いは執着を忘れるどころか危機感を募らせてしまった。
無理に引き剥がそうとしたからだろうか。まるで、連れ去られまいと必死になった呪いが辞書に両手両足でしがみついて存在を道連れにしそう…のような。辞書全体にまんべんなく広がっていた呪いを一点に集約させたら、下敷きになった呪いが自重で深層部に到達するほど刺さりきった…の、ような。
有機物としてみれば何の変化もないが、呪物としては…呪いを強化してしまったとしか言いようがない。
頑固一徹、まるで拗らせた人間関係のように、辞書の呪いはどうにもならない状態に陥ってしまったのだ。
「…こんなはずじゃ…え…どうしよう…?」
アウローラは途方に暮れ、弱弱しく呟いた。
隣でレルムがオロオロと慰めようとするが、何が起きたかさっぱりなのでかける言葉が見つからない。レルムはとりあえず通常の対応をした。
すなわち抱き上げて、膝にのせ、抱き包み、まんべんなくウチュウチュと口づけの雨を降らす。ついでに耳もハムつく。うまい。うなじの下、高襟の隙間に鼻先をつっこむ。とても良い。
諦めの悪いアウローラはレルムにされるがまま、煮詰まるがまま、それでも凪を維持し続けていた。
スペルモルは荒れた唇を無意識にひっかきながら考えをまとめていた。
『…なぁ、アウローラ。
死者の魂は総じて上を目指すというのが定説だろう? 呪いもだが、魔核は…何故、床に落ちたんだろう…?
兄上は呪いだから? だが、おいちゃんは上ったらしいぞ。
女神の民に解呪された後「昇りながら魔力が混ざった」と言っていた。
加護と呪いの違いと言われたらそれまでだが…呪いの手順で加護が完成することすら俺には疑問なんだ。こっち方面は完全に情報不足だ。
とりあえず上るものと下るものがあるとして、辞書の呪いはどちらになるんだろうな…「画面」で解析できるか?』
アウローラは凪を散らし、辞書を膝に置き直した。その間も、片耳を延々とハムハムハムハムハムされつつ、力強く頷く。
『試します!』
スペルモルも頷き返した。
それから、アウローラの耳をまんべんなくハムハムハムとしてやまないレルムを見やり、出来の悪い犬を諭すように告げた。
『おう、レルム。ちょっとだけ我慢できるか。ここは自宅だが、草間の前だ。後でな』
ハムハムハ…ピタリと動きを止めたレルムは、いたずらした瞬間がバレた大型犬のごとき反応をした。
スペルモルと目をあわせ、そーっとお口を開いて離すと、おもむろに姿勢を正してアウローラの椅子になりきった。
膝に乗せたアウローラに隠れたつもりで存在感を消しているが、女子の影に収まるようなカワイイ図体はしていない。思いっきりはみ出してスペルモルと目が合い続けているが、レルムは「目が合っているのは勘違いである可能性」に賭けて薄目で存在感を消し続けた。
スペルモルは生ぬるい目をゆっくり逸らしてやり、アウローラを見た。
少年に情けをかけられた大型犬は救われた。
やりとりに草間の目も生ぬるくなったとき、アウローラから心の底から嫌そうなため息がこぼれ出た。珍しく赤裸々な悪感情だった。
スペルモルが目を見張って尋ねた。
『…どうした?』
アウローラはハッとして表情を取り繕った。青ざめ涙目で汗をダラダラ流すレルムを振り返り「違うの、レルムに対してじゃないわ。大好きよ、レルム。後でたくさんいちゃいちゃしましょうね」と宥めてからスペルモルに向き直る。
『驚かせてごめんなさい。ええと。そう、解呪後の行き先。
ええと、呪いを行使した死者の魔核は沈む性質をもつようです。
なので、叔父上様が昇ったことがむしろ不可解というか…例外の可能性があるというか…ええと。それに関しては後日。
とりあえず、この辞書も、解呪すると呪いは地に落ちるはずです』
スペルモルは頷き、それとなく体調を確認した。気遣われたと察したアウローラは慌てて説明した。
『無事です。ちゃんと防御しています。さっきのは、つい本音が…ええと、辞書を呪った者の名前が表示されました。知り合い? だったので驚いたのです』
全員がアウローラを見た。レルムも後ろから顔を覗き込み、アウローラを促す。アウローラは言った。
「現王フレドリクよ、レルム。
『私を異世界へ転移するよう主導した人物です。
彼の「画面」はもう見れませんが…どうやら城の資料室から辞書を持ち出し呪物に変えた後、所持したまま亡くなったようです。死因は寿命か事故か…定かではありませんが、呪いとは無関係です。
死後の魔核は、自分でかけた呪いに引きずられ摩耗し消滅した形跡があります。自滅したということです』…何がしたかったのよ…魔法で人心を惑わし…国をも乱して…あげく呪いにまで手をだすなんて…」
現代語はほぼほぼ口の中の囁きだった。
レルムの視線を感じるが、アウローラは表情に出さないよう努めて草間に視線をうつした。
『草間さまの前の所有者たちを何百人と呪いながら転々としていたようです。
周囲の人間から蛇蝎のごとく嫌悪され人望を失うという呪物のはずですが、手順や材料が違ったのか中途半端な出来になっています。
草間さまは、この辞書について他に何かご存じですか?」
草間はベールを微振動させながら答えた。
「わからん怖い。物心つく頃には部屋にあったマジ嫌。多分、親がどっかから手に入れたんだと思うけどどっかってどこ怖い。オレは6才まで神聖王国語しか喋らなかったらしいから…待ってよく考えたらそれすら怖い。そんなガキまじ怖い。よく育てたな、お父さんもお母さんもお兄ちゃんもなお君も優しすぎだろ…感動したいのに怖い。気づいたら呪物が部屋にあるとか本気で怖い。けど知らなかったし、神聖王国語に親近感があったのにマジ怖い。いつの間にか何となくお守り感覚で持ち歩くようになってた怖い。呪物をだよ、怖い。オレ何やってんだ本当…」
声も微振動でビブラートがかかっていた。
そりゃ怖いわよね当然、とアウローラは幾度も頷いた。
「あの、草間さま。もう大丈夫ですわ。
ええと、解呪できなくても、こちらをわたくしにお譲りください。
所有者が変われば呪いはもう届きませんもの。今後は嫌われずにすみますよ!」
ビブラートがこぶしになりつつある草間が食い気味に頷いた。
「ぜひ差し上げたい!」
そしてふと気づいて首をひねった。
「人に嫌われた覚えねぇな…?
オレ好かれる。モテる。…え。勘違いだった? めっちゃ恥ずかしいんだけど。オレ誰に嫌われてたの?」
「あ。動物ですわ。この呪物、所有者が失うのは人望でなく動物の好感ですの」
草間の微振動がピタッと止んだ。
ひねった首がゆっくり戻り、ベールをかぶった顔がアウローラに向けられる。
スキル「要約」を覚えたアウローラは、考え考え言葉につまりつつ簡潔に説明した。
「つまり、レディ…オレはもう動物から意味なく嫌われずにすむ?
イカ耳しまくりツンギレ老猫が安心してくれるのか?
オレには牙剥き顔しかしない老犬も…逃げずにいてくれるのか…!?」
草間は感情を抑えた低い声で確認した。ぬか喜びを恐れる口調は少々ドスが効いていて、アウローラは内心ビクビクしながら淑女の微笑みを浮かべた。
「ええ。きっと大丈夫ですわ、草間さま」
きっと、のあたりでレルムから頬を甘噛みされ、アウローラはそのままハムつかれている。
それを目の当たりにした草間は一抹の不安にかられた。
「レディは虹髪だから呪いは効かない…よな? 本当に…大丈夫?」
「? はい。なにより神域投影には動物がいないので、何も問題ございません」
その間も、レルムは延々とアウローラの頬をハムハムハムハムハム…としてやまない。かなり理性が危ういレルムの姿を目の当たりにし、草間の不安は増した。そっとレルムを指さしてみる。
アウローラはハッと悟り、慌ててレルムの目を覗き込んだ。真顔で圧をかける。
レルムの耳がせわしなく動き出し、オロオロと不安そうに視線が揺れ始め、涙目になったレルムはハッと気づいたように姿勢を正した。「自分、品行方正な護衛官です」と主張するかのようにレルムはキリッとした。
アウローラはふわりと笑いかけた。
「そうよね。人前だもの。レルム、カッコいいわ」
褒められたレルムはご機嫌になった。優秀な護衛官であるレルムは、ハムつくことなく、アウローラの椅子に戻った。
アウローラは草間に向き直り、穏やかに報告した。
「大丈夫でした。それに、そもそもレルムは人ですわ。呪物を持っていても夫婦関係が悪化したりしません」
草間は安堵した。
レルムは片眉をあげて草間を見やった。
「失礼だぞ、草間。確かにおれの耳は変だが、ちゃんとした人間なんだ。動物判定されるのは不本意だ」
顔こそ凛々しく苦情を申し立てるレルムだが、その手はがっちり飼い主の腰をホールドして、今にもよろしくない動きをしそうな雰囲気を発していた。
危機感を抱いたアウローラが両手で剥ぎ取ろうとするも、びくともしない。
雰囲気を発しているだけで実際には動いていないので、アウローラも口頭注意ができず、草間はベールの下で半眼になり、スペルモルは深いため息をついた。
「アウローラ、今日はこれで解散だ。俺は戻って女衆に報告して、明日の朝また来る。草間、何か必要な物はあるか?」
「いや。もう十分にお世話になりました。ああ、お礼の伝言お願い。特にアンナには世話になったから、オレが感謝していることを伝えてくれよ。
オレはこれから風呂を借りようかな。使っていた部屋も軽く掃除したいし、ちょっと忙しくする」
『わかった。伝える。傷に障らないよう動いてくれ。カイザル兄上、またな』
鉄格子越しに片手を挙げて応えるカイザルに頷いて、スペルモルは立ち上がった。
アウローラは慌てて声をかけた。
「待って、スペルモル…『私も一緒に戻ります』草間さまの帰還の段取りを、叔父上さまに相談しようと…? …思って…いて…」
背中から重ための圧を感じ、アウローラはそっと振り返った。レルムは爽やかな苦笑を浮かべていた。
アウローラは目をカッと光らせた。
(え。なにその表情。見たことない。ドキドキする。キュンキュンする。雰囲気は猛獣。なのに爽やか美男子。愛しさマシマシ。そこはかとなく手に負えなさそうな予感がするけど。こんなにかわいい。私のピッピきらきら。抗えない。好きピ。好き超えて推す超えてガチ恋も超えた。結婚しなきゃ。もうしてた。私のレルムだ。最っ高。離れがたい…!)
見つめ合う夫婦を一瞥もせず置き去りにし、スペルモルは部屋を出た。背後からアウローラの慌てた声がするが、無視する。
らせん階段をおりながら、スペルモルは呟いた。
『無理だろ。どうみてもレルムが限界だ。
あいつ「待て」を完遂できてないよな。妻から軍用犬の調教のような扱いされておいて不本意もなにも。…まぁ。…我慢したほう…なの、か?』
首をひねり、スペルモルは即座に思考を切り替えた。
(ま、いいか。日常が戻ってきたってことで)
カイザル(享年86)見た目年齢42歳。退廃的お色気ダンディ(ただいま哀愁ただよい中)。幼少からずっと環境が悪すぎてナチュラルにすんごいクズな言葉遣いが根付いているけど、一人目の妻にしこたま矯正してもらえたおかげでギリ隠せる程度になっているよ。ただしそれは悪癖と理解しての自戒ではなく、大好きな妻が望むから変えただけなので、彼女がいない場ではギョッとするような暴言が悪気無く自然に口をついてでちゃうんだ。ハルバードでボコして「めっ」してくれた妻はもういないし、年の離れた弟に躾られるのも癪だしで、反省することにしたみたいだよ。死者なので一時的な感情を未来に活かせるかは別の話だけど、「草間の忠告は有意義」と判断しているようなので、今後は口にしないはず。




