94 ふたりの愚者が夢みた箱庭
犯罪者に変化があった。館へ確認に行く。
おいちゃんとカイゼリンにそう連絡し、スペルモルはふたりに警備を任せた。そして早々に出発しようとした…のだが。
スペルモルは玄関ドアの前で、イライラと同伴者を睨みつけていた。
「『お待たせしてごめんなさい。けど、あとココだけ…』あ。うー…うん。よし…あれ…眉の長さ、これでいい…?」
この別居期間中、なりふりかまわず修行に明け暮れていたアウローラは、一日中ガチすっぴんだった。完全に気を抜いていた。レルムに会わない予定だったので。
しかし、これから最推しに会いに行く。「きちゃった」デート。乙女にメイクしないという選択肢はない。
自分にできる最高のカワイイで仕切り直す。これぞリアル夫活。
正直、アウローラは気分を変えたかった。少し考えただけで鬱々する推測が色々あったので。そしてそれは保留にするしかなかったので。
暗い眼で夫に会うの嫌。気分あげたい。上げねば。フルメイク楽しい。上がる。しかし久々のせいか筆の感覚を手が忘れているらしく、女子の矜持を保つのに少々時間がかかっていた。
(あ、口紅はイイ感じ。発色いいわ。さすがアンナお勧め未来コスメ)
鏡の前でニッコリ微笑んでみて、出来を確認する。良し。
『…いい加減にしろよアウローラ…てめぇ…状況わかってんのか…ああ…?』
こどもに乙女の理屈は通じない。現実を見据える少年は、いつまでたっても鏡から離れようとしないアウローラにとうとう切れた。
『分かっています。だからこうして準備を…だけど、そもそも…スペルモル、あなたが顔を舐めたりするから余計に時間がかかっているんですよ? 人を舐めてはいけません。めっですからね』
アウローラは焦りながら、説教しながら、ちゃっかり赤く濡れた唇を押さえ拭きするなり、さらに紅を重ねた。グラデの立体感は重要。口づけしても落ちにくくなるしね。
『それは俺が迂闊だった。顔を洗う時間は納得している。着替えもな。けどな、顔にお絵描きは必要ねぇーーーーだろが! やったって変わんねぇんだよ…すまん! 今のは俺が悪い! けど、もう行こうぜ? な?』
スペルモルはうっかり口を滑らせ、アウローラの眼光に怯んで即座に謝罪した。紳士は危機管理能力に優れているのだ。
メイクの効果が薄い自覚のあるアウローラは、軽く涙目になりつつ訴えた。手は止めない。
『顔が変わらずとも肌は変わるんです! 劇的に! 太陽の下だと毛穴が目立つんですよ…!
スペルモルだってニキビできた時はダメって言っても気になるって触っていたじゃないですか…! レルムに毛穴を見られたくないんです! これでも彼の姫なので!』
アウローラは片目ずつ閉じてアイシャドーの入りを確認した。…良し!
お待たせしました、行けます。そう告げる寸前、スペルモルがぼそりと呟いた。
『ああ…肌トラブル?の話か。それな、ヴィルヘルミナに頼めば治してもらえるぞ。
リンもたまにニキビだ毛穴だざらつきだのと騒いだあげく世話になっている。なんつったかな…つやもちふわふわ赤ちゃん肌?にしてもらえるって」
「その情報はもっと早く知りたかった…っ!!!」
「!? アホかやめろアウローラ! もう出るっつってんだろ!!!』
洗面器の上で保温ポットを逆さまにしつつアウローラは叫んだ。お湯がホカホカ湯気をたてる。
顔を洗うべくオイルに手を伸ばしたアウローラを、スペルモルが止めた。勢いで壁ドンになりつつ、アウローラの顎をガシッと掴む。
「とびきりの美人だなぁ、アウローラ? このままがイイ。眺める俺も怒りで動悸が止まらない。きっとレルムもときめくことだろう。だから分かるな? もうイケるよな? …な?!」
至近距離で優しく囁いてくるスペルモルの笑顔は…ブチ切れていた。掴まれた顎に痛みはないが、青ざめたアウローラはコクコク頷いた。
『よし、行くぞ…ぁあ?』
スペルモルが、ふいに眉をひそめた。ふたりの脳裏に突然知らない記憶と感情が駆け巡り、アウローラがハッと身構える。
それは千里眼の発動だった。慌てて制御しようとするが間に合わない。
(…何故、今…!?)
なすすべなく、ふたりは強制的に誰かの過去を観はじめた。
「坊ちゃんは…似ていないね。誰にも。それにあの不気味なお力は…やはり、あの時の胤である証拠だと思えるよ。…お可哀そうな奥様…」
「そんな…噂は本当だったのね」
ソーマは立ち止まった。隙間の空いた窓をみやる。
その部屋は使用人の控室だ。去年から木枠が欠けていて、鎧戸が閉まり切らないのだとか。
控室は屋敷の裏側に位置する。いっこうに修繕されないため使用人はとっくに諦めていた。
音も声もダダ漏れているが、人は通らない。雨上がりに拭けばいいだけ。拭きが甘くて窓枠にカビが育っているが、しょせん職場。
使用人たちは半開きの鎧戸のことなどすっかり忘れてくつろいでいた。
ソーマはじっと耳をすませた。「噂を本当」と断じた乳母の声を聞くために。
すると、別の使用人の声がした。
「高貴なお方は遊び方も惨い。いくら領主さまが接待女を用意していなかったからといって…奥様を要求するなんて…領主さまは逆らえるお人じゃないのに。奥様はあんなに嫌がっていたのに…他に方法があったんじゃないかね…?」
別の使用人が叱責した。
「しっ! めったなこと言うもんじゃない! 偉い人の機嫌を損ねて良い事なんてないよ!
それに、本当にそうかは誰にもわからない…たまにいるじゃないか、平民にも。凄いのが。両親は平凡なのに、やたら凄い魔法を操って立身出世を果たすヤツが。
坊ちゃんだってそうかもしれない。魔法の才能はピカイチ。…なにより男の子が扱いづらいのはよくあることだろう」
その声は皆を励ますように大きかった。しかし誰もが応えかねて歯切れが悪い。
「…仕方ないことだったんだ。なにもかも。
奥様は…飲めない酒を身に浴びてまで努力した。具合が悪くなってもやめずに、入浴よりも頻繁に浴びていた。身代わり人形も欠かさず檻に入れたのに、臨月まで囚われてくれなかった。腹を痛めて産んだ我が子といえど…だからこそ御心は複雑だろう。受け入れられないのも仕方ない。
しかも坊っちゃんは昔からああだ…置き去りにして下がるのも仕方ない。周囲がそう思ってやらないと、不憫な奥様の身の置き所が、いよいよなくなっちまうよ。ご実家では肩身が狭いらしい」
そこに、乳母の声が虚ろに響いた。
「でも、私ごときが乳母なんて…私はただの小作人の娘なのに。荷が重いよ…」
「あんた…4年も育てておいて、まだ言うかね。ここに来た当初は坊ちゃんを「きれいな子だ」って喜んでいたじゃないか」
別の使用人のうんざりしたような声に、乳母が「でもっ」と声を荒げる。
「知らなかったからだよ…! 偶然に会った時はただの迷子かと…特に親切にしたわけじゃない、誰だって擦り傷つくって泣きわめく子どもを見かければ励ますくらいするだろ!? あんな…あんな…」
興奮する乳母を周囲が宥める。座るように声をかけ、椅子をずらすような音が響き、白湯をすすめる声がする。一呼吸おいて、誰かが諭し始めた。
「確かに…ねぇ。坊ちゃんの乳母は長持ちしない。数年で心を病んで下がっちまう。入れ替わりが激しいから、あんたみたいにまだ若い娘にまでお鉢が回ってきたんだろうが…それでも15歳まで育った。きっとあんたが最後の乳母だよ。勤め上げれば、きっと持参金をたっぷり与えて下さるだろう。後は働き者の旦那を捕まえれば悠々自適さ。励みにして、もう少しがんばりな」
「…うん」
乳母の心細げな応えを聞いた後、ソーマは無言で立ち去った。その眼は「裏切られた」と感情をあらわにしていた。
(乳母なんてしょせん他人だ。説教しか言わないオンナだ、剥いて痛めつけてやったから改心したと思ったのに。あんなに泣いて媚びてきたくせに、陰口をいう元気がまだあるんだな。なめやがって。またお仕置きを考えなければ…でも、もう面倒だな)
ソーマはふと大きな石を見つけた。歪な板状だ。土地の魔力が十分に染みていて都合が良い。無言で拾いあげ、少し考えてから魔法で削り始める。
(…僕にふさわしいオンナは他にいる。もっと上等なオンナだ。特別で、従順で、僕だけを大事にしてくれるオンナが。世界にひとりくらいはいるはずだ。どこかに。
…いや。ひとりだけは…ダメだな、僕が飽きる。たくさん必要。色んなタイプを揃えて、飽きる前にローテーションするんだ。好みに拘らなければ、オンナなんて掃いて捨てるほどいる)
ソーマの口元が歪む。
(探そう。特別なオンナを。僕の運命の女を。捕獲して、見定めて、唾つけておこう。厳選している間に、もしかしたらオンナに釣られて同士ができるかも。そうしたら一緒に遊べるかな、この…僕の理想をつめた庭の中で)
板状の石は表面がどんどん削られ、彫られ、ひとりの女性の姿を浮かび上がらせる。
(顔の中身は…難しいな。脳内に理想はあるが…具体的にならない。まぁ適当でいいか。はじまりの女神と分かればいい。重要なのは宝玉だ。父上にねだろう。今日は機嫌がいいはずだから)
屋敷には領主の妻が来ていた。たまに戻ってきては「家族のだんらん」を3人でしているらしい。だからソーマはちょっとした額を握らされて「ゆっくり遊んでおいで」と町へ追い出された。
金があったところで時間はつぶせない。市がたっていない町は静かだ。できることなど何も無い。行く場所がなくて、居る場所もなくて、だから、こうして屋敷へ戻ってきた。
(母上が僕にだけ会ってくれない理由なんてもうどうでもいい。どうせ顔も知らないオンナだ、僕を見捨てたクズだ。裏切りオンナだ。
…兄上の視線の意味も、父上と目が合わないのも…もうどうでもいい。ここは僕の居場所じゃなかった、それだけのことだ。居場所はこれから作る。僕には魔法の才能がある。この箱庭は魔具…いや、呪いは関係ないから魔具じゃなくて…うん、「魔道具」って呼ぼう。
乳母の父親の呪いだって、わざわざかけて解いてやったんだ。その縁があったから乳母は身分が足りないくせに奉公できているっていうのに。
…笑った顔はそれなりに見られるから選んでやったのに。性格が最悪だったなんて。僕に父親を解呪してもらえた恩があるくせに、仇で返しやがって。どいつもこいつも僕を裏切る。…もう裏切らせない。箱庭に入れるオンナは僕に選ばれた特別製だ。美しいまま、壊れないまま、長く長く遊べるように設定しよう)
ソーマの口元は歪み、笑みに似た形になっていた。興奮した心は絶望と夢想で沸き立ち、脳内では明るい音楽が流れだす。その音量は大きく、外の声が遠くなった。きっと誰の声もかき消される。聞き取り辛くなるだろう。けどもう構わない。他人の声に価値はない。聞こうと努めたのに、不快なだけだった。
(確か家宝にエメラルドの原石があったはず。無くなれば疑われるのは兄上だ。だんらんとやらも終わるだろうな、ざまあみろ)
つらつら考えるソーマの身体の動きは冴えわたる。下準備もなく、計画すらたてず、今まで培ってきた知識やセンスだけで緻密に魔法をくみ上げていく。
心の中に沸き立つ夢想が、魔力とともに全身から漏れだす。
幻想的な風景があたりに映し出された。緑の豊かな森だ。はじまりの女神が降り立ったとされる神秘の森。神話は桃源郷の中心、森の祭壇からはじまったとされる。
ソーマが生み出した幻想風景は現実をまきこみ、あたりの空気や環境ごと…ソーマの神域を投影した状態で「所有」された。出来上がったばかりの魔道具へ収められる。
(異界がいる。都合の良い次元を探さなきゃ。なんにせよまだ可能性が全然足りない。もっといろんな場所の要素を「所有」しなくちゃ)
ソーマは歩き出した。
周囲はぽっかり穴が空き、地面も表面がえぐれている。土ごと、木々や雑草ごと、全てが長方形に取り除かれた不気味な広場がうまれていた。ソーマは何事もなかったかのように立ち去る。
(特殊魔法は役に立たないなんて誰が言い出したんだろう? 僕の「所有」はこんなに便利だ。みんなバカの集まりだな…)
ソーマは石板を片手にどんどん歩く。
(地層はどこで獲ろうか。水もいる。滝も欲しい。川も。海も。温泉…活火山もいる。地下水脈は分けなくちゃ。根のように張り巡らせれば、森は勝手に広がっていくはず。
たまに魔力は補給してやらないとな。オンナの魔力のほうが魔具への浸透率が高いのアレなんでだろう? やっぱ物同士だからかな。
オンナは物、納得。だって殴るだけで簡単に諦めるもんな。人間だったら多少は抵抗するのに、あいつらは怯えるだけ…まぁ抵抗したら、しなくなるまで殴るだけだけど。我慢できるんだ、人形扱いでかまわないだろ。
でも僕は違う。人間だから。我慢しなくていい。好きに生きることが許されている。
そうだ、「所有」を乳母に使ってみよう。上手く行けば身代わり人形にできる…けど。多分もう2度と会えなくなる…けど、ね。…慣れだね、慣れ)
ソーマはさまよう。理想郷を完成させるために。いつまでも、いつまでも、このままずっと歩いていける気がした。石板を手にしていれば、人間はひとりでも生きていけそうだな、と、ソーマは思った。
脳内の音楽は軽快に流れ、音量を増していく。もう自分の内なる声すら聴きづらい。独り言で声量を足しながら夢想に没頭する。ソーマは足取り軽く各地をさまよいはじめた。
バチンと弾けるような感覚の後、唐突に美しい音楽は消えた。一瞬だけスペルモルの驚いた顔が見え、すぐにまた「千里眼」に呑まれる。
違う歌が流れだす。ツァウヴァーンの子守歌。若い男の声だ。
懐が温かい。ついこの前まで目も開けられずにいた仔猿が、今や歌に合わせて頭を揺らす赤ん坊だ。
カイザルは歌いながら目を細めた。上衣の中におさめた「湯たんぽちゃん」を眺める。身を丸めてご機嫌な湯たんぽちゃんは、ちゅうちゅうと下唇を吸っている。湯たんぽちゃんの癖らしい。妻はやめさせたがるが、カイザルはこのままでいいと思っている。
(好きに生きろ。せっかくオレの傍に生まれたんだ、臭ぇ戦場なんて知らなくていい。男に守られてホカホカしていればいいんだ。逃げられないこともあるだろうが…全て代わってやるさ。オレの特殊魔法でな)
カイザルが歌い終わっても、湯たんぽちゃんはそのまま揺れ続ける。じっとカイザルを見上げ、プゥと頬を膨らませてみせた。まだ聴きたかったらしい。
カイザルは「ははっ」と笑って、また歌い出した。
湯たんぽちゃんはプゥゥと頬にためた空気を吐き出し、またご機嫌に戻った。
危機感のないまぁるい目と見つめ合う。しばらく歌うと、湯たんぽちゃんの眼がとろんと半眼になり、やがて眠っていった。
ふと視線を感じて、そちらを見やる。
深紅の布地のロングドレスを着た湯たんぽちゃんの母親が、得物を担いでカイザルを睨んでいた。
心当たりがあったので、カイザルはニカ!と笑いかけた。懐を厚くくるむように魔力を編み込み、まぁるく盾を着こむ。カイザルは朗らかに告げた。
『また一段と腹ぁ育ったなぁ。話を聞いたんだろ? 後は頼むな。こども大好きだもんな。増えて良かったな? 存分に遊べよ!』
一人目の妻は無言で指を鳴らした。後ろからぞろぞろと他の妻たちが現れる。腹部の膨らみは様々だが、半分以上が深紅のドレス。つまり妊婦。妊婦にしろ、そうでないにしろ、彼女たち全員の片手には物騒な得物が握られていた。カイザルは笑顔のまま固まった。あれ…今日はフルコースな感じ?
『…妻は5人までと結婚前に約束したはずだ。…今、てめぇの妻は何人だ? 言ってみな』
カイザルはちょっと考えた。そんな約束したっけ? したかも。どうかな。忘れた。まぁいいか。カイザルは渋く告げた。
『今は…12人だな。新しく13人になる。それが?』
妻たちの眼がギラリと殺気を増した。あれ、数え間違えたか? カイザルはもう一度、妻らを眺めてカウントする。合ってる。ここにいるのは12人。
一人目の妻が地を這うような恐ろしい低音でカイザルに唸った。
『…妻は15人いるだろうが…! 今日一人増えたようだがな! 2人はつわりで倒れてるんだ! もう1人は元気だが、臨月だ。悪阻の世話のために付き添っている! だからココに来るのを我慢してもらってんだよ…それがどういう意味か、もう分かるよなぁ?!』
あ、そうなんだぁとカイザルは完全に理解し、力強く頷いた。
『ああ、分かる。身代わり人形が欲しいんだな? 妊婦の厄除け。つわり?に効くのか? よくわからんがいいだろう、好きなだけ用意してやる。他に欲しい物は?』
妻らの殺気は収まらない。目がギラギラだ。カイザルはしみじみ考える。
(…全員おもしれー女たちだったんだが。高い愛らしい声や凛々しい言動はどこいった? なんで妻にすると荒くれ者になるんだ? 子を宿すと変容するよな…女の仕様なのか? よくわからん)
内心で首を傾げるカイザルに向けて、一人目の妻が代表して口を開いた。
『欲しい物だぁ…? てめぇの言い訳だよこの猿野郎!
新生児の育児をなめるな! その場限りの適当な言で手当たり次第に娶って孕ませやがって計画性のねぇカイザルがぁ…釈明を聞いてやるって言ってるんだ! 何か言いやがれ!』
カイザルは妻たちから総出でボッコボコにされながら「ははは!」と高笑いした。
響き渡る明るい笑い声はいつもと同じ、今回も言葉をもらえないと悟った妻たちの眼に、哀しみが宿る。
愛しているのに、相手にされない。愛されている、だけど関心が向けられない。夫が何を考えているのか分からない。意思を教えて。相談して。妻として見て。妻たちはみんな、夫の望みに応える覚悟ができているのに…!
カイザルが分かりやすいよう彼が好む「男同士の話し合い」をわざわざ選び、妻たちは愛を乞うていた。
だがカイザルには伝わらない。
妻は男ではない。女とは愛でるべき者であり、殴っていい物ではない。父親のような無理強いは男の名折れ。女が許可をだした時にたっぷり与える、それこそがツァウヴァーンの男性。カイザルはそう思い込んでいる。
心的外傷の壁は厚く、壁を挟んだ向こう側にいる妻たちの声は、微かにしか聞きとれない。それでも、おねだりだけは聞き逃さないよう耳を澄ませる。愛しているからだ。
自分を選んだからには誰にも不自由させない。物も金もいくらでも用意してみせる。自由でいて欲しい。だからこそ、おねだり以外の声は全て愛しい音だ。聴き流して響きを楽しむ。妻たちの心が自由であるように。余計な口を挟んで、気付かず何かを強いて、嘆きを与えずにすむように。
(女はよくわからん。が、八つ当たりしたいなら好きにすればいい。元気が良くてなによりだ。
母上みたいに軟弱な涙を垂らしてビクビク怯えるしかない環境より、好きに怒り狂える結婚生活のほうが良いに決まっている。オレは本当に良い夫だな。
おっ…やるなぁ。頼もしい。もう少し層を足すか。別に怪我はしないが…振動で湯たんぽちゃんが起きちまう)
カイザルの懐に守られて、何も知らない湯たんぽちゃんはすやすやしている。下唇は荒れて血がにじんでいたが、そんな些細な事はカイザルの眼には映らない。彼は、湯たんぽちゃんが冷めていなければそれでいいのだ。ほかほか温かいままでいてくれさえすれば。
妻らに全力でタコ殴りされながらも、カイザルは、この騒がしい日々を満喫していた。
(これからどんどん湯たんぽは増える。オレの「憑依」は役に立つ。嫌なことも危険なことも全てオレが代わってやれる。湯たんぽたちに与えるのは平穏だ。オレが死んだ後でも変わらない平穏。
それには他国が邪魔だ。なにより王が邪魔だ。我が親ながら何をしでかすか分からん…狂人め。
弟との共闘で気を惹いているが、王に気付かれたら終いだ。今のところバレていない…ほとんどの弟妹もまだオレたちの茶番を茶番だとは気付いていない。
煽られたのかマジで殺りあってるヤツらもいるくらいだ…仕方ない奴らだな。未熟がすぎるだろ、現王派に手の内を明かすなんざ。
危ういヤツから殺したフリして保護しているが…意固地になって奴隷扱いに甘んじるやつもまだいるからな…先は長い。
噂によると、まだまだ王には隠し子がいるらしい…きりがないな。やるしかないが。
とっとと代替わりしねぇと国が滅ぶ。奴隷の輸出なんぞ正気の沙汰じゃねぇ…現王派も他国もバカの集まりかよ。オレが王になって大陸中を掃除して、奴隷制なんぞ概念ごと消し去ってやる)
獰猛に笑いながら視線を落とし、眠る赤子を眺める。自然に緩んだ顔をあげて、妻たちをじっくり眺める。夫への攻撃は的確だが、誰も懐は狙っていない。例え当たろうと赤子は何事もないが、それでも妻らが狙うのは夫だけ。なんという真っ当。良い妻たちだ。カイザルはしみじみ家族を愛しく思う。
(親がこれなら湯たんぽちゃんは真っ当に育つだろう。…親がクズだろうと、長兄が役割を担えば弟妹は真っ当に生きるはずだ。
日常生活は真っ当であるべきだ。
家族や弟妹が好きに遊べる安全な国と大陸を、オレが用意してやらないとな)
バチンと弾ける感覚があり、現実に戻る。
脳裏に駆け巡った生々しい記憶は落ち着くが、記憶に付随する感情は残る。観た感想も生まれる。情緒をかき乱されたまま、アウローラとスペルモルは無言で見つめ合った。
スペルモルは身を引いた。眉をひそめたまま、片手で髪をかきむしった。
『今のが「千里眼」か? ちょくちょく暴走するとは聞いていたが…何故、俺にまでみえた?
…接触していたからか?』
アウローラは少年の乱れた髪を手ぐしで直しつつ頷く。片手間に「画面」を操作し「千里眼」を封印しなおしてから答えた。
『おそらくは。
そういえば。ヒュプシュが過去を思い出した時も…私は彼女と手を繋いでいました。でもあれは、どちらかというとヒュプシュの記憶が蘇ったことに呼応したような…干渉されて発動したようにも思えます。
だとすると今回は…ええと、ソーマの魔核が…溶けて?しまったから…?』
スペルモルは階段を見据えた。ヒュプシュの部屋を透かし見るように目を細め、呟く。
『俺たちが転移したときは、まだ「神域投影」は呪物ではなかった。つまり呪われたのは、それ以降。
仮に…解呪したことでこの干渉が起きたとすれば。
神域投影を呪った張本人は…』




