2 奴隷の美少女と妖艶な美女とサウナと岩盤浴、そしてシャワーに浮かれる平凡なわたくし
※話の都合上、生理の話題がさらっとでます。
不思議な世界で出会った美少年は、自分を神聖王国の王子であると名乗った。
それが本当だとすれば、少年は、アウローラが生きる時代のざっと100年以上は前の人間ということになる。
意味がわからない…が、ここがすでに古代遺物の中だという意味のわからない状況下では、もはや昔の時代の王族と会うことくらいは大したことがないのかもしれない…図太い神経を持つアウローラは思った。
昔の時代の人間との邂逅。それくらいなら大丈夫。受け入れられる。しかし、いきなり生き物を踊り食いされたのは耐えられなかった。謎の生き物とはいえ、目の前で動いて喋り、確実に意思をもっていた存在だ。それを目の前で平然と齧られた。さらに、アウローラが生き物を食べるしかない時を楽しみにしているらしい。怖すぎる。
怯えるアウローラの表情を心行くまで愉しんだ少年スペルモルは、ご機嫌な様子で「立て」と命令した後、姿勢を整えるやアウローラに腕を差し出した。
アウローラは反射的にその腕に指先を添えてから(…エスコートしてくれるんだ!?)と驚いて少年を見下ろす。
あまりにも傲慢な態度で接せられたため、自分が奴隷に落ちたような気になってしまったが…少年にそういうつもりはなかったらしい。
ニヤニヤと得意げな笑みを浮かべたまま、スペルモルはアウローラを連れて祭壇を降りる。
連れていかれた先にあったのは古風な館だった。やはり昔の神聖王国時代に好まれた様式で、繊細な彫刻と大胆な彩色が特徴的であり、当時の価値観からすれば、目の前の館の規模はほぼお城と呼べる建物だろう。
スペルモルは堂々と正面の大扉から中に入るや、大声で『出迎えろ』と叫んだ。
しばらくして現れたのは、貫頭衣に質素なベストを羽織った、随分と痩せた美少女だった。しかも裸足だ。12、3才だろうか。石床をペチペチ鳴らしながら一生懸命にこちらへ走ってくる。
スペルモルはふんぞり返ったまま黙って待っている。少ししてたどり着いた少女は、スペルモルの足元にうずくまり『おかえりなさいませ、尊きお方』と言った。鈴が鳴るような愛らしい声だった。
それに対し少年は『湯殿を準備しろ。この女をいれてやれ。俺の新しい服はどうした?』矢継ぎ早に要求を突き付ける…唖然としたアウローラは二人を交互にみつつ悟らざるをえなかった。
彼女は奴隷だ。この少年、すでに奴隷を使役している。
(うちの国…建国からずっと奴隷なんていなかったはずなのに!? なんでこの子…こんなに手慣れているの!?)
少女は無言で顔をあげ、おずおずと胸元で両手を合わせる。そしてゆっくりその手を動かすと、柔らかい光とともに美しい白の服が一式現れた。
(魔法…!? …え、物質に作用するって…そんな魔法みたいなことができるの?!)
アウローラが知る魔法といえば、王家に代々伝わる体質として「遺物を通じて魔法じみたことができる」という事実と、あとはおとぎ話の中で都合よく話を動かすための架空の設定、それだけだ。服を生みだす魔法なんて聞いたことがない。
スペルモルは少女から服をうけとるや、アウローラに告げた。
『俺は着替える。お前も身ぎれいにしたら後は好きにすればいい。用があればそいつに命じればどうにでもなる。
せいぜいゆっくり過ごせ。ここでは俺たちに仕事なんてないからな…ああ、子種が欲しいなら俺の部屋に来てもかまわない。二階の主寝室だ』
ぎょっとしてアウローラは叫んだ。『…行きません! お湯は使います! ありがとう!』
動揺するアウローラをまじまじ見つめながら、スペルモルはアハハと嬉しそうに嗤った。からかわれた、と気づくとともにアウローラは、ん?と首を傾げる。
(…待って…この子いくつなの? 十そこここの子が使う冗談にしては下世話すぎない…?)
『じゃあな』
スペルモルはもうアウローラから服へ興味を変えたようで、服を両腕に持ったまま背中を向け、足取りかるく去っていった。
残されたのは、アウローラと、足元でうずくまり黙り込む美少女。アウローラは恐る恐るかがんで美少女の肩に手を置いた。少女はびくっと怯えるように体を揺らしたため、慌てて離し、できるだけ優しい声で話しかけた。
『こんにちは、はじめまして。わたしはアウローラです。あなたのお名前は?』
『ヒュプシュと申します。尊きお方。どうぞ可愛がってくださいませ』
顔を伏せたままの少女から完全に調教済の返答がかえってきて、アウローラは「…ひぇ…っ」と思わず変な声がでた。
深呼吸をして気を取り直し、もう一度話しかける。
『ヒュプシュ嬢。私を見てください。どうぞ私となかよくしてください』
ヒュプシュは恐る恐る顔をあげるも、目を合わせず動揺していた。そして、貴婦人のほほえみを浮かべるアウローラの口元をじっと見つめて、おずおずと言い出した。
『…尊きお方のご命令に従い、湯殿にご案内いたします。初夜の衣装はお望みですか?』
「それは絶対にいらない」貴婦人のほほえみのまま、アウローラはつい現代語で拒絶した。
ヒュプシュはびくっと肩を揺らして、またその場にうずくまろうとした。しまった、と気づいたアウローラは必死に謝った。怯えるヒュプシュを、知る限りの古語を駆使してなだめ、ようやく湯殿へ案内してもらう。
湯殿は、神聖王国を名乗る前の時代…王朝前期の様式だった。
とても広く、奥にサウナ室がある。少し離れた位置にある暖炉のようなものは、恐らく蒸気を作るための装置だ。小さな挿絵でしか見たことがないため定かではないが。
隣の壁からは湯と水がそれぞれ小さな滝になって流れ、それを受け止める陶器製の巨大な水がめは、水面を揺らしながら豊かな水をたくわえた状態で横に並んでいた。
中心には岩盤浴用の黒い石でできたベッドが並んでいる。そこに先客がいた。
同じ女であるアウローラすらドキッとするほど妖艶な裸体で、こちらに背を向け寝そべっている。近づくアウローラたちのけはいに気付いたのか、身じろぎをして、ゆっくりと振り返った。
「!? え、…お母さま!?」
アウローラはとっさに叫んだものの、別人だとすぐに気付く。アウローラの母親よりずいぶん若かった。20半ばくらいの歳だろうか。しかし、その顔だちがとても良く似ていた。かつてその類まれな美貌が災いし、侍女になるはずだった高位貴族令嬢らが傍にいることを拒んだという…そんな嘘か本当かわからない逸話を持つ母の、若かりし頃の写真とそっくりな美女だ。ただし顔立ちだけ。母は説教の時すらポヤポヤした空気感の持ち主で、残念ながらこんな風に色っぽくはない。
『…新しい方ね…』
美女はけだるげにつぶやいた。ため息まじりのアルトボイスがとてもとても色っぽい。
アウローラはカーツェをして、ぶしつけに声をかけてしまった非礼を詫びた後で名乗った。
美女はそれを無表情に眺め、小首を傾げながらひとつ瞬きをする。凄まじい色気のある所作だった。
『…正式な挨拶をありがとう存じます…私はただのヴィルヘルミナと申します。…貴族ではありません…。一介の修道女にすぎない身ゆえ…どうぞお捨て置きくださいませ、尊きお方…』
そして平民のように頭を下げる彼女だが、その所作は洗練されており、明らかに上流階級の教育を受けた者のそれだった。
何者だろう、とアウローラは不思議に思ったが、同時に「こちらに関わるな」と望まれたことを察したので好奇心を捨てることにした。
『ヴィルヘルミナ嬢。多分これからも会います。迷惑になりません。気を付けます。』
アウローラも平民のように頭を下げた。もともと政略結婚した王太子(9)のお飾り妃という立場にいたが、考えてみれば別世界に来たからにはもう肩書は意味をなさない。新参者としてはきちんと馴染む努力をしたい。
ヴィルヘルミナはそんなアウローラを見て、何かしら考えたようだった。ゆっくり瞬きをひとつ、それから無表情に少しだけ笑みのような空気を浮かべ、一言『…そう』と答える。いやだから色気がすごい。何か…心が無意味にドギマギする。
内心が忙しいアウローラに気付いていないだろうヴィルヘルミナは、ふと、アウローラの隣でうずくまっていたヒュプシュに視線を向けた。その視線を追ってヒュプシュを見たアウローラがぎょっとする。
「…えっまたぁ?! いつの間に?! 『ヒュプシュ嬢。体を壊します。どうかやめましょう』?」
しゃがみこんで訴えるアウローラの姿に戸惑ったヒュプシュが、助けを求めるようにヴィルヘルミナを見た。
『…かわいいヒュプシュ。…お水を飲みにいきなさいな…。それから…自室で、ふたつほど斑点を召し上がって…30分休んだら…迎えにいらっしゃい…』
『うん、ミナ姉さま。いってくる』
ヴィルヘルミナの指示にほっとしたような声音で答えたヒュプシュが、アウローラの視線を避けるように身を縮めながら湯殿を出ていく。その華奢な姿を呆然と見送るアウローラに、ヴィルヘルミナが声をかけた。
『…アウローラさま。湯殿のご利用に…お手伝いは必要ですか…?』
いちいち色っぽいヴィルヘルミナに、ちょっとクラっとしながらも『使えます。優しい言葉をありがとう。ルールを教えてください。湯殿でしてはいけないことはありますか?』アウローラは聞いた。
『…ございませんわ。…この地にいる女性は5人…私とヒュプシュ、あなた様以外に…あとふたりおりますが…それぞれ湯殿を使う時間が異なりますゆえ…さほどお気になさることはございません…』
『ありがとう。お言葉に甘えます』
アウローラはお礼を言って、さて、と湯殿を見渡した。
サウナと岩盤浴。実家で何回か使ったことがある。まずは服を脱ごうとアウローラが壁際の棚に向かったとき、ふと思い出したという風にヴィルヘルミナから声がかかった。
『…そういえば。…こちら、男性も…利用することがございました…10歳の子ですが…とても高貴なお方で…きまぐれな時間帯に突然いらっしゃいますので…もしお気になさるということなら…その棚の裏側に回られますと…シャワー室というものがございます…。アウローラさまの前に来られた女神が…ヒュプシュに命じて造り足されました…そちらは個室ですので…ご安心かと…』
え。あの傲慢な少年、女性がいても気にせず突撃してくるってこと…? 裸で…?
アウローラはドン引きしつつヴィルヘルミナの親切に対し本気の感謝を言葉にこめて伝え、棚にある、身体を拭く用だろう綿の布の入った籠をひとつ掴んで裏側に回った。
シャワー室というものを知らなかったアウローラだが、個室に入ってひと目みただけでその使用方法に見当がついた。そしてとても気に入った。立ったまま体を洗い流せるのだ。しかも髪や身体用のそれぞれ違う石鹸が置いてある。お湯をふんだんに捨てるようだが、その分、髪も背中も足の指の間までスッキリして、あまりの使い心地の良さにアウローラは感動に打ち震えていた。
(…これ…最高…毎日はいろう…)
体を拭いて、さて着るかと籠をみる。いつの間にかアウローラのドレスが消え、代わりにローブのようなものが入っていた。戸惑いながらも使うほかなく、下着であるシュミーズワンピースの上からローブを羽織ってシャワー室を出れば、その正面でまたヒュプシュがうずくまっていた。アウローラは天を仰いだ。
『…ヒュプシュ嬢。私に土下座はいりません…。待ってくれてありがとう。どうか座って待ってください』
ヒュプシュはおずおずと姿勢を変え、体育座りをした。アウローラは無言で壁際に向かい、置かれた籐の椅子を指さしてニコリ。と貴婦人のほほえみを浮かべた。
『…ヒュプシュ嬢。私を待つときは椅子に座ってください。そして休んでください。飲む、食べる、遊ぶ、寝る、してください。私はただの国民です。あなたと同じです。どうか』
ヒュプシュは戸惑うように視線を揺らしながら、アウローラの目をおずおずと見つめた。そして、ごくりと息を飲み込むと、『…お貴族さまではないのですか?』と囁いた。
アウローラは自分がここに来た経緯を説明しようかと考えたが、言葉の壁によって断念した。古語は使い慣れない。会話にはなっているようだが、正確に使えているかどうか自信はない。
『…貴族でした。今はただの国民です。ヴィルヘルミナ嬢、ヒュプシュ嬢と同じです』
やむなく結論だけ告げたアウローラだが、ヒュプシュにはそれで充分だったようだ。
ヒュプシュは長くほーっと息を吐いた後は、ごく自然に立ち上がってアウローラに話し始めた。
『アウローラさんの部屋をつくったよ。ついてきてね。
…あたし、本当は貴族の言い回し、よくわかってないの。アウローラさんの言葉は色々と変だけど、わかりやすいから助かる。
詳しく言いたくない気持ちわかるよ…ミナ姉さまみたいに、あなたもお貴族さまに利用されてここに捨てられたんでしょ?
あたしもそう。あたしは根っからの平民だけど、領主の坊ちゃんに勝手に見初められてさ。口説かれて嫌だったのに、そいつの婚約者っていう貴族女が急に来て、あたしをひどい言葉で貶めて、あげくこの世界にポイッだよ…誰もかばってくれなかった。村で一番かわいい、だとか手際が良いから良い嫁になる、だとか言っていたくせにさ。』
ヒュプシュはタガが外れたようによく喋った。アウローラは必死に聞き取る。真剣に聞こうとしているのは伝わるようで、ヒュプシュは初めてにこっと笑った。
『そうか。あなた、言葉が得意じゃないのね? 最近に来た女神と同じだ…外国から来たのかな。そういえばシャワー室使っているし…もしかして同郷? 性格、真逆だけど。…ねぇ、外国ってどんなところ? あの国よりひどい? それともまし? ここにいるってことは、きっとどっちの国もひどいんだろうね…。
だったら安心して。ここはもう大丈夫。あなたは知っている? この世界が「神域投影」っていう魔具の中にあるって。お偉い魔導士さまとやらが、世界を善く作り直すための実験場として新しく作った世界なんだってさ。あたしはこの魔具の材料のひとつ。そいつが誰でもいいから女の魂をよこせって強請ったらしくて、領主と貴族女が邪魔なあたしを材料として差し出したの。
だからね、この世界はあたしがいるから動きだしたんだ。神話にあるでしょ? 世界は動かぬ箱庭にして…』
『…女神が降り立ちて、のち、全てが動き出した…?』
ヒュプシュは笑った。
『そう、それ! あたしはこの世界の最初の女神なの。魔法もこの世界だとやたら上手くいくんだ。外の世界にいたときなんか目じゃないくらい、なんでもできちゃう。とはいえ外の世界に向けて何かできるわけじゃないけどさ。復讐してやりたい気持ちもなくはないけど…どうでもいいな、もう。関わりたくない。
それに貴族の魔法って何か変だし…不気味な使い方ばっかりするから…逆らうなんて恐くてできない。あ、でも大丈夫。この世界でならあたしは絶対に殺されないから。この世界の貴族って双子だけ。弟のほうが、さっきあなたを連れてきた子ね。姉のほうもすっごい我がままだけど、ふたりとも鞭を使わないから従ってあげているの。それに…実は最近、もっと凄まじい女神が来たから、今はそっちのほうが怖くて。言葉も通じないし。…でも、あたしを殺して世界が動かなくなったら、困るのはあいつらだから。
…あ、ここだよ。入って』
ヒュプシュは扉をコンコンと叩いて、アウローラに鍵を投げ渡した。驚きながら両手で受け取ったアウローラに、ヒュプシュは『上手』と笑った。アウローラも笑みがうつって、ふたりでニコニコほほえみあう。そして、鍵を開けて、木製の扉を開けた。
部屋は使用人用より少し広い程度の質素な場所だった。日の光がよく入りそうな大き目の窓が正面にあるが、今は鎧戸で閉められていて室内はとても暗い。アウローラは中に入って窓に向かった。木枠を塞ぐ鎧戸の仕組みを目で確かめながら、そっと外して横にずらす。
日の光が差し込む窓からは、外の景色が一望できた。館自体も高い位置にあるが、この部屋はもっと高いらしい。見下ろして数えれば、この部屋は3階だった。外へ目を向け直せば、みえるのはほぼ森だ。道らしきものも見えるが、馬車道にしては狭い。ふりかえって、室内を眺めると、ベッドと椅子、小さなテーブル、その横に木箱がふたつ並んでいる。そして、正面には出入口の扉と、ニコニコ笑うヒュプシュの姿。
『どう? いい感じじゃない? あなた、貴族じゃないならこのくらいの広さが落ち着くだろうなって思って少し直したの。ベッドの上にあるフカフカは貴族の使うクッションだよ。何かそれを背もたれにして寝るんだって。ミナ姉さまが月の物のときにたくさんあると楽って言っていたから、あなたにも多めに用意したの。何か足りないものある?』
アウローラは木箱を開けて中をのぞいてからヒュプシュに笑いかけた。
『ありがとう。足りないものはありません。素敵』
『ふふ、よかった。何かあったら呼んでね』ヒュプシュはニコッと笑って扉を閉める。
そしてすぐ開き、ひょこっと顔をのぞかせて、ヒュプシュがいたずらっ子のような愛らしい笑みを浮かべながらアウローラを指さした。
『言い忘れていた。あのね、あなたがワンピースの上から着ているソレ、バスローブっていって、濡れた身体の上に直接着るものだよ。そしてあなたが身体を拭いていた布は、あかすり用の布。サウナの後にゴシゴシ擦って垢を浮かして、水がめのお湯か水をかぶって洗い流すの。外国の人ならわかんなくて当然だよね。本当、気にせず何でも聞いてね。じゃあね。おやすみ』
扉が閉まる。ペチペチという足音が遠ざかっていくのを聞きながら、アウローラはおもむろに立ち上がり、いったん全部を脱いでバスローブを着直した。下着は…しまった、洗濯の場所を聞けばよかった…まぁ、明日でいいか。
そして、木箱を見る。
一つ目の木箱には、さきほどまでアウローラが来ていたドレスが洗濯後のように綺麗になって入っていた。その下にはたくさんの生成りの布が無造作に積んである。確認してみれば、ヒュプシュが来ていたような貫頭衣とベスト、それから恐らく下着と思われる丈の短い簡易なドロワーズのようなもの、月の物の時に使うワタ(さすがにこのままじゃ使えない。裁縫道具を借りて当て布を仕立てなきゃ)、そしてバスローブなど、生活に必要な布がたくさん入っていた。アウローラはそれをひとつひとつたたんでしまいなおしながら、ぼんやりと考えていた。
(…お父さまはあれから大丈夫かな…目の前で消えちゃったから、きっと心配している…知らない世界だけど、生きて無事だよって伝えたいな…きっと難しいだろうな)
布の整理を終えて、アウローラはもう一つの木箱を開ける。そちらは特に何も入っておらず、おそらく私物を増やせるように、というヒュプシュの心遣いだろう。とても優しい。疲れ切った心にくる。
アウローラは窓に鎧戸を嵌め直すと、ベッドへ行き、少し悩んでからクッションのひとつを抱きしめて丸まる形で横になった。
ベッドは正方形で、まっすぐ横たわると足がはみでてしまう。かつて夜も危険だった時代、警戒のため、もたれかかるように座った状態で寝ることを前提にした様式だった。
王国史を思いかえすと、ベッドが長方形になったのは神聖王国から王国へ名を変えた後期のはじめ頃…この正方形のベッドを望んだのがヴィルヘルミナだとすれば、彼女もまたスペルモルと同じく神聖王国のひとなのかも…あるいはもっと前の…、とアウローラは考えを巡らせつつ、うとうとと眠気に身を任せる。
(…色々あったな…情報量が多すぎて疲れた。…レルムはベッドで寝られているかな…)
もう戻れない世界にいる青年のことが頭をよぎる。
優しくて頼れる同い年の護衛官。あまり表情は変わらないが、笑うととてもかわいいので笑顔が見たくて職務中の彼によく絡みにいった。
アウローラの前ではいつも穏やかな自然体で、一見ではそうは見えないがその気になればとても強いらしく、彼が武術大会で「剣豪」の称号を得たときは、幼い夫とともに全力でお祝いをした。
初めて会ったのは夫が4歳の頃だから、彼とは五年の付き合いになる。当時はまだ見習いだった彼を巻き込んで、毎日一緒に少年の子育てに勤しんだ。アウローラとは「相棒」の仲だ。
アウローラが冤罪により貴族用の牢に勾留された際に、彼女を救おうとした彼は貴族でありながら平民牢へ連行されてしまったと聞く。今考えれば、それは、揃って脱獄されることを危惧したためかもしれない。
(平民牢は資料でしか知らない。牢の内装をわたくしは知らない。…ひどい目に遭っていないといい…。…会いたいな、もう一度)
ファム・ファタールその②
魔法使い 兼 奴隷ヒュプシュ(17)食料難が当たり前だった古い時代の人なので栄養不足により痩せている。成長も阻害され幼く見えるが、当時の平民としては普通体型。
貴族は怖い。知らない言葉でわめく平民も怖い。訳ありの女性は同類だから大歓迎。言葉遣いは変だけど優しいお友達が増えて嬉しいな。アウローラの下着(純白のシュミーズワンピース)を外出着だと思っている。
ファム・ファタールその③
修道女ヴィルヘルミナ(21)絶世の美女。ごく弱い他者の心を操る眼(魅了眼)を持っていたが、異世界転移の際に魔力充填して無力になっている。妖艶なのはもともと。
王族の落とし胤(庶子)のため産まれた直後に出家したものの、あまりの色気に周りが勝手に大騒ぎし、真面目に暮らしていただけなのに、なんやかんやで遺物の中にポイッとされた。解せぬ。
自分に関わろうとする人間が好きじゃない。誰にも興味がない。根はわりと親切。自分のことを説明する気もないのでミステリアスな印象を周囲に与える。「隠してるだけで魔法強いんじゃね」と双子から密かに警戒されているが、無力。
「きっと語れないくらいの悲劇の末ここに来たのね」とヒュプシュに内心気遣われているが、そうでもない。
「何かしら秘密があるせいで人を遠ざけているのかも」がアウローラの感想だが、ない。本当に何もない。