神をやめたい少女と、記憶を捧げた男
雪深い山のふもとに、小さな村があった。
この村には、昔から語り継がれてきた伝承がある。
──かつてこの地に、ひとつの災いが訪れた。
冬が何年も解けず、作物が実らず、病が人々を蝕んだ。
そのとき、神はひとりの子を地に遣わしたという。
神の子は、祈りと引き換えに災いを鎮め、村を救った。
彼女の名は、エナ。
白銀の髪。透き通る肌。琥珀色の瞳。
その姿は七つのまま、時を止められたように変わらない。
エナは神殿に住まい、村人たちは誰ひとりとして、彼女に触れることはおろか、声をかけることすらしなかった。
彼らはただ、ひたすらにその存在を畏れ、遠ざける。
神殿の門は固く閉ざされ、外に出ようとすることすら、村人たちは許さなかった。
──すべての災いを、その身に背負わせておきながら。
神の子は、村の災いを背負う器でしかなかった。
エナは村の災いを請け負いながら、一人で神殿の奥にいた。
彼がやってくるまでは。
少年の名は、キオ。
黒髪も黒い瞳も、この村では珍しくない。だが彼だけが、穏やかな風をまとっていた。
彼はいつも神殿の裏手からこっそり入り、エナに花や菓子を持ってくる。
ふたりだけの秘密の時間を重ねるたび、彼女の瞳は少しずつ色を取り戻していった。
「キオ、わたしね。外の世界を見てみたいの」
「大きくなったら、連れてってあげる。絶対。約束だ」
しかし季節が巡っても、エナの姿は変わらなかった。
神は〝人〟ではない。
村が押しつけた定めをその身に背負い、この地に縛られた存在だった。
彼女の瞳には、言葉にできない哀しみが宿っていた。
キオが十三になった年、村の掟で旅立ちを命じられた。
村の外で働き、外貨を得て戻る──
それが村の青年たちに課せられる通過儀礼だった。
別れの前夜。
雪の帳が降りる中、エナは小さくつぶやいた。
「……キオ。もしわたしが〝神〟じゃなかったら──ただの女の子だったら……好きになってくれた?」
キオはまっすぐ頷いた。
「そんなの、とっくに大好きだよ。だから──必ず迎えに来る」
その言葉を最後に、キオは村を発った。
彼の見えなくなった背に向かって、エナはそっと呟く。
「……でもね。神が〝人の愛〟を選んだら──祟るんだよ」
***
七年の歳月が流れた。
青年となったキオは、再び雪深い村を訪れた。
神殿は、あの日と変わらず、雪に埋もれるように静かに佇んでいた。
扉を押し開けたその先──
そこにいたのは、あの頃と何ひとつ変わらぬ、七歳の少女だった。
時が止まったような光景に、キオは息を呑む。
変わらぬ姿で彼を迎えたエナは、そっと微笑み、静かに言った。
「……来てくれて、ありがとう。終わらせに来てくれたんだね」
指差した先には、一枚の磨かれた黒曜石があった。
光も影も映さぬ漆黒の鏡。それは、彼女の魂そのもの。
「この鏡は、わたしの核なの。願いも、呪いも、祈りも……神としての、すべてが映ってる」
「……これを壊せば、エナは人になれるのか?」
問いに、エナは静かに頷いた。
「でも……同時に、鏡の中に封じていた災いも解き放たれる。嵐、飢饉、病──わたしが抑えてきたもの、すべて。村はきっと酷い目に遭う。私のわがままでそんなことは──」
「その村が、エナになにをしてきた?」
キオの声には、怒りが滲んでいた。
「なにもせず、ただエナの力にすがってきただけだ。誰も君の痛みに気づこうともしなかった。そんな人たちのために、君が犠牲になる理由なんて、どこにもない」
エナは俯き、静かに目を閉じた。
やがて、そのままの姿勢で言葉を落とす。
「……それでも、自分で壊すには、神としての自分を否定しなければならない。わたしの……すべてを」
少しの沈黙ののち、エナはキオの目をまっすぐ見つめて言葉を放つ。
「だけど、それだけじゃ足りない。外の人間の、たったひとりの……心からの強い想いが必要なの」
「それなら、僕の想いを使って。何年経っても──エナのことだけは、忘れなかった」
キオが惑うことなく答えた言葉に、エナの瞳はわずかに揺れた。
「……でもね、キオ。それには〝祟り〟があるの」
「祟り……災いとは別の?」
「神の魂が砕けると、代償が必要になる。神の祟りを、どちらかが引き受けなきゃならなくなる」
キオはしばらく黙って鏡を見つめた。そして瞳に決意を宿し、静かに口を開く。
「なら、その役目……僕が引き受ける」
エナはかぶりを振った。苦しげに、今にも泣き出しそうな顔で。
「……それだけじゃ、済まない。祟りを引き受けた人は、この土地にいられなくなるの。魂が拒まれるのよ。記憶を──繋がりのある人たちを忘れて、誰も知らない場所へ導かれてしまう。二度と、ここへ戻ってこられなくなる……!」
「それでいい。君が生きて、自由になれるなら」
エナははっとして顔を上げる。
優しいキオの顔を見ると、エナは耐えきれず涙がこぼれた。
「だめだよ、キオ…… あなたには、大切な人たちがいる。家族も、友達も……みんな忘れてしまう……私のことも……っ」
それでも、キオの瞳は揺るがない。ただ真っすぐに、彼女を見つめる。
「失うのが〝人との記憶〟だけなら、僕は大丈夫だ。知識は残る。生きていける。でもエナは、この空間しか知らない。僕と話して得た知識も、記憶も──きっと、必要になる」
「私の、ために……」
キオの穏やかな声に、エナの肩が小さく震えた。
ぽろぽろと涙をこぼす彼女を、キオは優しく、まるで大切な命を守るようにそっと抱きしめる。
「大丈夫だ。エナに出会ったときから、僕の心は決まってた。君のためなら、なんだってできるよ」
その言葉に、エナは小さく息を呑んだ。
胸の奥に、あたたかな痛みが広がる。
彼の瞳は、昔と同じまま── 強く、優しく光っていた。
「忘れても、きっとまた出会える。僕たちは、そういう運命だって、信じてる」
ふたりは心を決め、鏡の前に立つ。
エナがキオの胸に手を添えた瞬間、黒い鏡が波打ち、光を放った。
彼女は神としての自分を否定し、〝ただの女の子〟になることを選びとる。
砕けた鏡が眩い光を放ち、キオの体がふっと浮かんだ。
そして──その姿は、雪に溶けるように、消えたのだった。
***
時は流れ──
とある町の朝。
広場の一角で、茶屋を営む若い女性がいた。
白銀の髪。琥珀の瞳。
どこか浮世離れした空気をまとった、美しい女性。
ある日、黒髪の旅の剣士がふらりと立ち寄った。
穏やかな黒い目の奥に、言いようのない喪失感を抱えた男だった。
「すみません……ここ、開いてますか?」
その声に、彼女はふと目を見開き──すぐに微笑んで答える。
「ええ、どうぞ」
青年は戸口で足を止め、首をかしげた。
「……なんだろう。初めて来た店なのに、懐かしい気がするんです」
茶を注ぎながら、彼女はそっと答える。
「そうですか。──また会えて、嬉しいです」
「〝また〟? 僕たち、どこかで会ったことが……?」
「……ううん。たぶん、今が〝はじめまして〟よ」
けれどその場に流れたのは。
不思議なほど、あたたかく……懐かしい沈黙だった。
まるで──また巡り会うことを。
ずっと前から、約束していたかのように。
──運命だけが、すべてを覚えていた。
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