問いと答え
私の全ての身体と記憶が失われたら、そこに私はまだ残っていると言えるのだろうか。
A. 残っている
B. 残っていない
Aは、私=魂という派閥である。
何らかの目に見えない物が私の存在を支えているという考え方だ。
つまり身体や記憶が全て失われようとも「私」の魂が残っている。
だから私の存在は揺るがないということだ。
実に力強い。
実際これは正しいのかもしれないし、正しくないのかもしれない。
証明も不可能だし、反証も不可能だ。
今ここで死んでみせ、キリストのように復活でもしない限り。
これは信仰の類の問いだ。
だからこれ以上の深入りは避けようと思う。
数字は数を数えるために、言葉は相互理解のために、信仰はより善い生のためにあるのだから。
Bは、私は身体ないしは記憶に属するという派閥である。
身体派閥、記憶派閥、身体と記憶のどちらも派閥と様々に分けられるだろうが、
ここでは全部ひっくるめてひとつの派閥とする。
たとえば織田信長に関する記憶が一つ残らず消え去ったとしたら。
地球上の誰一人として織田信長の事を知らないし、
未来永劫知られることはなく、過去の歴史も葬り去られたとしたら
果たして織田信長はいると言えるのだろうか。
ここで織田信長の魂を持ち出すことはせず、
織田信長がいるとは言えないというのがこの派閥の主張である。
つまり誰かの軌跡が膨大な歴史の山からこぼれ落ちたら存在が消滅するというわけだ。
では、無数の語られることのない死者は存在することすら認められないというのか。
Aはあまりにロマンチックすぎるし、Bは逆にドライすぎるように思える。
どうしたものか。
行き止まりに思えるのは同じ場所をぐるぐると回っているからだ。
基本的に適切な問いは立てられた瞬間に答えられるはずだ。
そうでないならば問いの立て方に問題がある。
今回の問いもそうだ。
問いは問いのためにあるのではない。
問いは答えのために、答えは問いのためにあるのだ。
今回の問いを極端にするとこうなる。
無は有るか。
A. 有る
B. 無い
これは言葉の使い方の問題である。
言語ゲーム。
だから我々の姿を反映しているに過ぎないのだ。
言葉は我々を映す鏡。
言葉は我々の歴史そのもの。
言葉は我々の奥深くに隠された傷。
言葉は何のために。
答えのない問いに詰まったら。
城をぐるぐると回るドラム隊に出会ったら。
言葉の使い方を見直すこと。
バランスを取ること。
リズムに調和すること。
スタイルを守ること。