月夜の出会い
「おねえちゃん……っ」
暗い森の中を幼い少女が弱々しく歩いている。
途中で転んだのだろうか。
少女の衣服は泥だらけで手足や顔にはすり傷がいくつもある。
一体どんな仕儀があって、むせび泣く少女がたった一人でこの夜闇を歩いているというのか。
「おねえちゃん……どうしよう。みんな……おねえちゃんが殺されちゃうよ……っ」
少女はここに来る前の姉のことを思い出す。
『逃げて、ヴェルメ……森に入って、隠れているの……行って、はやく!』
少女の姉はそう言った。村を襲ってきた脅威から少女を逃がすために。
(助けを呼びに……? でも、わからないよ……おねえちゃん。誰なら助けてくれるの……?)
少女は立ち止まり、思わずしゃがみこんでしまいそうになるが――
――ギィ……ギッ……ギィッ……!
その時、少女の後方から複数の鳴き声が聞こえてきた。
「っ! お、追ってきた……!」
その声は間違いなく村を襲った脅威そのものだった。
村から逃げた少女をここまで追ってきたのだ。
「逃げ……ううん。か、かくれ、かくれないと――」
しかしそう思い立った時にはすでに遅く。
暗闇から現れたその“異形”は少女を目がけて飛びかかった。
***
雪は茂みの中から信じられないといった様子でその光景を見ていた。
様子を窺いに来た雪がまず目にしたのは人間の少女に飛びかかる異形の姿。
そのまま押し倒した少女を地面に押さえつけ、合図を送るように木々の間の暗闇に手を振っている。
すると少女を襲った異形と同じ姿のモノが次々に現れた。
“――アレは、なに?”
一見、人の姿をしているが人ではない。
雪は初めて見るソレらにただ目を凝らしている。
人間の子どもより少し大きい程度の背丈。
適当なボロキレを体に巻きつけているだけかのような衣服。
横に伸びた大きな耳と全身の深い緑色の肌。
その手にはそれぞれ太い木の棒や鎌、斧や弓といった得物が持たれている。
ソレはこの世界においてゴブリンと呼ばれる魔物。
雪がいた世界では誰もが目にすることなどなかった、まさしく異世界の生物だった。
そしてソレらは集まり、倒れた少女に群がっていく。
ゲッゲと笑い、サメのような歯をむきだしにしながら。
「ぅ……、ぅ……っ」
ゴブリンにのしかかられ身動きのとれない少女はそれでもなんとか逃げようと体に力をこめる。
「ギッ……!」
そんな些細な抵抗が気に障ったのか押さえつけていた一匹が立ち上がり、少女の腹部を蹴り上げた。
「かっ、は……っ!」
少女の体は衝撃でわずかに転がっていく。
痛みのあまり腹部を押さえ、体を丸めてその場から動けなくなってしまった。
「けほっ、……けほっ」
魔物に意識を取られていた雪は倒れた少女に目を向ける。
苦痛にうめき、倒れている姿が雪の知っている光景と重なった。
ゴブリンは少女の頭を何度も踏みつけた後、腕を掴んでそのまま乱暴に引きずっていく。
「おね……っ、……ちゃん……おね、ぇ……ちゃん……」
少女は抵抗する気力も削がれ、力なく項垂れたままどこかへ連れてかれようとしている。
「――ガウゥッ!!」
その瞬間、雪は全力で飛び出し、少女を引きずる魔物の腕に思いきり牙を突き立てた。
「ギャッ……!?」
ゴブリンは掴んでいた少女を思わず離し、嚙みついた雪を振り払おうと必死にもがいている。
バタバタとした動きに合わせて雪の体も左右に大きく振られるが、それでも雪は噛みついた腕を離さない。
雪は怒っていた。少女を痛めつけるこの異形の存在に激しい怒りを感じていた。
痛みと恐怖で動けなくなった、か弱い生き物に絶え間ない悪意をぶつけるこの存在が許せなかった。
“やめろ! どうして傷つける? どうしてヒドいことをする!? やめろ! やめろッ!!”
雪は相手がいくら暴れても決して離さなかった。
しかし魔物の一匹が手に持っていた太い棍棒で雪を横から何度も殴りつける。
さすがに耐えきれず、五度目の殴打で雪は吹き飛び、木の幹に体を打ちつけた。
――痛い。血を吐いた。きっと肋骨が数本折れている。
雪は倒れている少女を見る。知らない少女だ。まったく無関係の人間だ。
大人しく隠れて、逃げていればこんな目には合わなかった。
でもできなかった。倒れて、苦しんでいるあの姿が。
あの時、公園で倒れた哲郎の姿と重なって見えてしまった雪には賢明な思考をする余裕などなくなっていた。
“やめて……助けるんだ……あの姿はっ、助けなきゃいけないモノだ。踏みつけて、傷つけて……壊そうとするなんて……間違ってる”
崩れた体をなんとか起こそうと足に力をこめる。
しかし――
二匹のゴブリンが持つ弓から放たれた矢が、雪の身体を貫いた。
わずかな気力を振り絞り立ち上がりかけた身体は今度こそ完全に崩れ落ち、雪の意識は深い闇に落とされた。
***
「――ゆ、き……雪っ!」
“……テツロウ?”
目の前には哲郎がいた。いつもの見慣れた、しわの深い顔で白い歯を見せる笑顔でこちらを見ている。
「ヒヒ。待たせたなぁ、雪。武田のばーさんから謝礼をもらってきたぜ。――ほれ、見ろ! スーパーの割引券5000円分だぜっ」
自慢するように割引券をヒラヒラさせている。
……思い出した。近所のおばあさんがカバンを盗まれたから、テツロウがその犯人を追いかけて捕まえたんだ。
それでおばあさんからお礼をもらった。これはその時の……
「正直、お礼としちゃショボいけどよ。ま、ケチなひったくり一人捕まえた報酬としちゃ妥当か。武田のばーさんもケガはしてねぇみたいだし、よかったってもんだ」
テツロウの声はホッとしていた。
そうだ……この人は誰かが怖い目や理不尽な目に合うことをいつだって嫌っていた。
その本音を表面に出そうとはしないけど、この人は誰かが幸せになることを心から喜んでくれる人だった。
「オメーも覚えとけ、雪。世の中ちょっと外に出りゃ、おっかなくて納得いかねぇ事ばっかりだ。今までひったくりだのカツアゲだのをしばいたことはあるがよ。大抵、何も悪いことしてねぇ連中がそういうクソったれな目にあうんだ」
テツロウはタバコを吸いながら空を見ている。
夕日が沈みかけた空にタバコの煙が飛んでいく。
「……オレはそいつが大っ嫌いだ。そんなクソな目にあう筋合いのない奴がひでぇことになんのは我慢なんねぇ」
そう言い終わるとタバコの火を消し、テツロウが頭を撫でてくれる。
「だからよ、雪。もし誰かがオメーに理不尽をぶつけてくるようなら相手が総理大臣だろうが神様だろうが遠慮するこたぁねぇ。思いきりケツに噛みついてやれ。そん時はオレも一緒に蹴りでもぶちこんでやるからよ、ヒヒっ」
テツロウは冗談めかした、けれども底意地の悪そうな笑いを浮かべながら雪に言った。
テツロウ……テツロウの言った通り、外は怖くて理不尽だったよ。
テツロウの傍はあんなにも穏やかで幸せだったのに……今は怖くてしかたない。
本当は……今すぐあなたの所に帰りたい。
でも……
***
「ギッ……!?」
その時、ゴブリン達が驚いたように一斉に同じ方向を見た。
そこには矢で射抜かれ、動けなくなった雪の身体。
その雪の身体から黒い霧のようなものが湧き出てくる。
濃霧と言っていいほどのソレはすぐに雪の身体を覆い隠し、更に大きく広がっていく。
「…………え」
少女も黒い濃霧に目を向ける。
その瞬間、その場にいた全員が自分が今この森にいる理由を忘れ、あの黒い霧から現れようとしているモノの正体を見届けようとしていた。
黒い濃霧に包まれている中、雪は立ち上がっていた。
自分が今どうなっているのかよくわからない。
でも身体は動く。痛みも消えている。
目の前には雪と少女を痛めつけた連中がこちらを見ている。
その悪意がなくなっている様子はない。
ならば雪の取る行動は決まっていた。
“……本当は今すぐに帰りたい。でも、テツロウだったら……これは見逃さない”
突然、広がっていた黒い霧が雪に向かって集束していき――
“目の前の理不尽でひどいことを――クソったれなことをテツロウだったら見逃さない!!”
――大きく、爆ぜた。
「っ――!?」
少女は思わず目をつぶった。
ドンッ――という大砲を撃ったかのような凄まじい轟音と共に少女と魔物の間に突風が吹き抜けた。
そして一匹のゴブリンがバラバラになった体で宙を舞っている。
ソレはやがて肉片と血をまき散らしながら地面に落ちた。
「ギッ……!? ギィッ……!」
ゴブリン達は一体何が起こったのかと、どよめいている。
少女が先ほど突風が過ぎていった後ろを振り返り――
「っ――」
そこにあった姿に息をのんだ。
ソレは巨大な黒い異形そのものだった。
5mはあろうかという大きさ。
その巨体を支える四本の足。それに付随する巨大な赤い爪。
尻尾は自分の頭まで届くほど長く太く。
尾の真ん中から先端までの周囲を鋭いトゲが覆っている。
全身が漆黒。体毛はなく艶気を帯びている。
獣に近いフォルムをしているが顔はどの生物にも当てはまらない。
頭部は後ろに向かって大きく伸びており、巨大な口の上には赤く光る目が左右に二つずつ。
鹿には目の下に眼下線と呼ばれる開口部があり、それが目の形に似てることから4つ目に見えるという話があるが。
この黒い怪物が放つ赤い光は紛れもなく四つの眼だった。
誰も視認することが出来なかったが、先ほどバラバラに吹き飛んだゴブリンは突進してきたあの黒い怪物が殴りつけた結果によるものだった。
この黒い怪物がほんの十数秒前まで激しく殴られ、矢で射られて息絶えようとしていた犬だったと正しく理解している者が果たしているのだろうか。
「ギ……ッ、ギィッ……!」
一匹のゴブリンが他の仲間に合図を出すと黒い怪物を囲むように移動しはじめる。
この怪物と戦おうというのだ。
その行動は決して勇気から立ち向かおうとしているのではないし、倒せると見くびっているからでもない。
ゴブリン達は皆、突如現れたこの怪物に恐れ慄いていた。
ならば何故、戦おうとするのか。
それはそうする以外に助かる方法がないから。
この怪物は自分達に強い敵意と怒りを持っている。
逃げられない。誰一人、逃がす気がない。
ならば戦うしかない。この怪物を仕留めることでしか生き残る術がない。
取り囲むゴブリンの数は十二。
剣や鎌、棍棒、弓をそれぞれが持ち、じりじりと間合いをはかっている。
対して黒い怪物は微動だにしない。
ただグルル……と小さい唸り声をあげている。
「ギヒャアッ!!」
一匹が合図を出すと他のゴブリンが怪物に向かって一斉に飛びかかった。
――その決着はあっという間についた。
黒い怪物はまず長く巨大な尻尾をぶおん、と横に一振り。
飛びかかった9匹のうち、5匹はその衝撃でバラバラになった。
近くにあった樹木も数本、吹き飛んだ。
怪物の頭部に向かって剣を突き立てようとしたゴブリンはまるで自ら飛びこむかのように怪物の口に収まり、そのまま嚙み潰された。
側面から襲いかかった2匹のうち1匹はそのまま空中で巨大な爪に引き裂かれた。
もう1匹は足で地面に叩き落され、そのまま圧し潰された。
その際、近くにいたゴブリンは前足で殴り飛ばされ、グチャグチャになりながら吹き飛んだ。
樹木の枝にのぼり矢を射っていた2匹のゴブリンも次の矢を番える暇もなく引き裂かれた。
悲鳴を上げることすらできなかった。
まったく戦いになどならなかった。蹂躙とはまさにこのことだろう。
「ヒ、ヒィ……ッギャ、ギヒィッ……!!」
そして残った最後の一匹。他の仲間に合図を出していたゴブリンだ。
恐らくリーダーとしての役割を持っている個体なのだろう。
そしてそれは少女を蹴り飛ばし、踏みつけにしていた個体でもあった。
得物の斧を落とし、地面に膝をついて両手を上げている。
身体を震わせながら怯えた目で怪物に何かを必死で訴えているように見える。
言葉はわからないが傍から見ても命乞いをしていることがよくわかる光景だった。
……尋常ではなかった。
生物同士の力関係がこうまで一変してしまうものだろうか。
ほんのついさっきまでこのゴブリン達は間違いなく雪や少女にとって格上であり、恐ろしい異形の存在だった。
しかし今ではこの世界の何よりも小さく、弱く、哀れな生き物なのではないかと錯覚してしまう。
この許しを請う姿があれば少しでも良心のある人間なら躊躇も生まれたかもしれない。
しかし“殺さないでくれ”と相手に命を乞う行為など、犬である雪には理解できるものではない。
それに何よりも黒い怪物へと変貌した雪には、“危険な敵”を排除するという思考を切り替える余裕などなかった。
哀れ最後に残った魔物は懇願する姿勢のまま。
振り下ろされた足によって原形のない肉片となった。
――そして静寂が訪れる。
黒い怪物となった雪は最後の一匹を潰したその場所から動いていない。
……ひどく疲れた気分だ。
ボーっとして気を抜くとこの場で眠ってしまいそうになる。
もう危険はない。自分が全て片づけた。
ただ自分がやったという自覚はあるものの、どんなふうにやったのかよく覚えていない。
間違いなく自分の体なのに、これが自分の体であることにものすごく違和感を感じる。
ダメだ……これ以上は考えられない。
“そうだ……あの子は?”
雪はゆっくりと辺りを見回し、あの少女を捜す。
――いた。少し離れた所で座りこんでいる。
少女は呆然とした表情でこちらを見ていた。
“よかった……生きてる”
ひどいケガをしていないか確かめようと雪は少女に近づいた。
怖がらせてしまうことも考えたが走って逃げれる元気があるのなら、それはそれで安心できるかもしれない。
……その場合、ちゃんと家に帰れるのかが心配だけど。
ゆっくりと少女に向かって歩いていく。
姿は怪物のままだ。どうすれば元の姿に戻れるのかわからない。
そもそも戻れるのか? 一生この姿のままなんだろうか?
“こんな姿じゃ、テツロウに嫌われちゃうかな”
雪はあの白い部屋に来て以降、何を考えても辛い気持ちになってしまう。
まるでこれまでの幸せな毎日のツケを払わされているかのように。
……だとしたら後どれだけの辛い気持ちを感じなくてはいけないのだろう?
まだこの世界に来て幾ばくもないというのに、雪の心に受ける苦痛はあまりにも大きすぎた。
“かなしい……ツラい……テツロウ”
そう考えていると、いつのまにか少女は雪のすぐ足元という所まで迫っていた。
雪は慌てて半歩下がる。
うっかりあと一歩踏み出していたら少女を踏み潰してしまうところだった。
「…………」
少女は固まったように黙って雪を見つめたまま動かない。
どこかケガをしていて動けないのか。恐怖のあまり動くことができないのか。
すり傷は目立つが歩けないほどのケガはないように見える。
「――――」
雪はケガの有無を確かめるため少女をしばらく観察している。
少女もただジッと雪を見つめている。目を大きく開いて少し驚いているような表情だ。
“……もう離れてあげないと”
大きなケガはないことを確認して安心をする。
これ以上、怖がらせまいと雪は少女から離れようとしたが――
「……泣いてる……の?」
“――――え?”
「どうして……泣いてるの?」
その言葉を聞いた途端、何故か体から力が一気に抜けてしまい、伏せの姿勢になって雪は動かなくなってしまった。
少女の視線が雪を見下ろすカタチに変わる。
少女は雪の頭にそっと触れると、
「あなたも……怖かったんだね」
ゆっくりと頭を撫でてくる。
雪は何故だかその小さな手から離れることができなかった。
「怖かったのに……助けてくれて、ありがとう」
目に涙を溜めながら少女は雪にお礼を言った。
雪がいつのまにか元の犬の姿に戻っていると気づいたのは、もう何十秒か先のことだった。