森で惑う
――クリスマスの日。
ひょっこりと現れた老人に拾われ、彼の家に連れていかれたあの日の夜。
公園から連れて帰ってきた老人は忙しそうに台所を動き回っていた。
戸棚や冷蔵庫を開け、何かないかと物色している。
「まいったな、犬なんて飼ったことねぇからな。とりあえず水分だよな。牛乳……はねぇな。まあ、水でいいか。――あ! 結局タバコ買いそびれちまったっ ついでにドッグフードでも買ってくりゃよかったぜ……」
ボヤキながら老人はとりあえず水を目の前に置いた。
「ほれ、飲めるか? 今日はさみぃからなぁ。冷えすぎんのもよくねぇかと思ったから白湯にしといたぜ。飲める程度にはなってるはずだ」
……慎重に水に顔を近づけ、しばらく間をおいてからゆっくり口をつける。
「お。よしよし、飲んだな。となると次はメシだな……オメーには何がいいんだ? とりあえず魚でも食わしてみるか。確かまだサンマの残りがあったような……」
そして取り出したサンマを加熱し、少量の米に混ぜて差し出す。
「明日、響子に犬に食わしていいもんとか聞いてみるか……とりあえず今晩はそいつで我慢してくれ」
「……」
……食べ物に顔を近づけ匂いを嗅ぐ。
今度はそこまで警戒することなく食べることができた。
「おっ、へへ……よし。飲み食いできる元気があるんならとりあえず心配はいらなそーだな。……ずいぶん汚ぇし、後で風呂にでも入れてやっか」
老人はタバコを吸いながらこっちの食事を見守る。
一本目のタバコを吸い終わり二本目に手をつけようとしてたけど、こっちがちょうど食べ終わったのを確認した。
「おー、全部食ったな。美味かったか?」
食べ終わったら満足感と安心感が一気にやってきた。
思わずしっぽをパタパタとふりながら老人を見上げてみる。
「へへっ、なかなか可愛いじゃねえか、オメー。……ったく、こんなもん適当な所に捨てやがってよぉ」
老人は目の前でしゃがみこみ目線を近づけてくる。
「オメーが前の飼い主をどう思ってたんか。そいつにどんな都合があったのかも知らねえがよ。オレはロクな奴じゃねーって決めつけてやるぜ」
……とても不機嫌そうだ。
公園で見た時からずっと怖い顔をしてたけど老人は更に機嫌を悪そうにして眉間にしわを寄せている。
「“拾ってやってください”なんて紙切れを置いただけで自分のやった事を帳消しにしたつもりでいやがんだ。紙切れすらオメエのためじゃねぇ。オメェの飼い主はただのクソ野郎だよ」
「……」
そう話す老人を不思議に思って眺める。
「オメーも捨てられた時に罵倒の一つでもしてやりゃよかったんだ。もしオメーが人間の言葉をしゃべれりゃあ相手がドン引くほどキッタねぇ悪口も教えてやるんだが――」
そう言いかけるも老人は訂正の言葉を口にする。
「いや、人間の言葉しゃべる犬なんて気持ちわりぃか。あー、でも人間の言葉を完全に理解できる犬ってんなら悪くねぇかもな。そしたらオレとしても退屈しねぇ毎日になりそうだ」
老人の話を黙って聞いていると、
突然、老人はこっちの顔を両手でムニムニと触ってくる。
「にしてもオメー、なんか変な犬だなぁ。体は真っ黒いくせに顔はやたら白いしよぉ。……そーいやオメーに名前もつけなきゃなんねぇな」
何がいいかと真剣に悩んでいるようだ……と思ったがほんの2秒ほどで悩んでる時間は終わった。
「雪。――ってのはどうだ?顔がやたらと白いしなっ それに今の季節にも合ってるっ オメーを拾った時も雪が降ってたしなっ」
その命名によほど自信があったのか老人はかなりウキウキした様子だ。
「よし、決めた。雪――オメーの名前は今から雪だ! これからはずっとオメーをそう呼ぶからな。ちゃんと覚えるんだぞ? 雪っ」
これからずっと――あの人はそう言ってくれた。
あの人はいつだって近くにいてくれた。名前を呼び続けてくれた。
“雪”――大好きな名前。あの人が呼んでくれる名前。
あの声であの名前を呼んでくれるだけで嬉しさでいっぱいになった。
テツロウ……無事なんだよね? 会いたいよ――
テツロウ――――…、
****
「――……」
ザァッ――と流れる風が体に当たる感覚がした。
微睡んでいた意識が少しずつ覚醒し、雪は目をゆっくりと開く。
それと同時に周りの音も聞こえ始める。
ジジ……と鳴く虫の音。風が流れる毎にざわめく木々の音。
雪は倒れていた体を起こす。
ここは……外だろうか? あの白い部屋ではない。
かといって見知った場所でもない。
雪は自分についた土埃を払うためブルブルっと体を振り動かした後、改めて周りを見回した。
しかしどこを見ても樹木が生い茂っているばかりで目を引くものは見当たらない。
どうやら自分はどこかの森の中で気を失っていたらしい、と雪は認識する。
今の時間は夜のようだ。暗い森の中に月明かりが差しこんでいる。
木々に囲まれているとはいえ空を覆い隠すほど鬱蒼とはしていないようだ。
それ以上の情報はここにいても得られそうにはない。
雪はとにかく移動しようと歩き出す。
“でも――どこに行けば?”
雪の目的はもちろん帰ることだ。哲郎のいる場所へ帰ること。
しかしその為にはあの白い部屋にいた女に会うしかないということは雪も理解していた。
“でも、どうすれば?”
そもそも雪をこの場所に飛ばしたのはあの女だ。
頼んだところで素直に帰してくれるとは思えない。
あの部屋の女はこの世界に悪い影響を及ぼしているモノがいると言っていた。
つまりそこには雪にソレをなんとかさせようという意思がはっきりとある。
“それをどうにかすれば帰してもらえる……?”
そうだとしても部屋の女は詳しいことは何も語らなかった。
突然、見知らぬ場所に送られてしまった雪には何をどうすればいいのかなどわかるはずもない。
それに気になっている事はもう一つ。
雪は哲郎の家に帰るという思いでいっぱいになっているが、同時に白い部屋で聞かされたある言葉が頭の中で回っていた。
『君は死んだんだよ、雪』
……でも、それはおかしい。だってこの通りちゃんと生きている。
ケガだって一つもしていない。いつもみたいに動ける。
これで死んでるだなんて、そんなわけがないじゃないかと雪は考える。
そう思いつつも、あの女の言葉はいつまでも雪の頭から離れなかった。
***
移動を始めて20分は経っただろうか。
とにかく森を出ようと歩いているがまだ景色が変わる気配はない。
ふと横を見ると何かの動物が数匹、密集した木々の間から遠巻きにこちらを窺っている。
大きさや頭にある角の形状から鹿のように見えるが尻尾が地面に届きそうなほど長く、また背中は一部が大きく盛り上がっており、まるでラクダのこぶを思わせる。
少なくとも雪にとって初めて見る生き物だった。
他にも見たことのない奇妙な小動物らしき生き物もちらほらと目にする。
ソレらが雪を襲ってくるようなことは今のところないが、恐らくこの森は彼らのテリトリーだ。敵意を向けてこないうちに早く離れなくては。
雪は下を向きながら、とぼとぼと歩く。
ケガはなく身体的な問題はないはずだが、一体どこに行けばいいのか。
どうすれば家に帰してもらえるのかという思考が枷になり、その足取りを重くする。
とりあえず身を隠して休めそうな安全な場所を朧気な意識で探す。
“テツロウ……”
未知の環境に置かれながらも雪の頭には常に哲郎のことが離れずにあった。
あれから哲郎がどうなったのかを知りたい。響子に助けてもらえたんだろうか?
いや、きっと無事なはずだ。
今頃はあの家で自分の帰りを待ってくれているかもしれない。
哲郎のことを考えると足にもわずかに力が入る。
怖さで座りこんでしまいそうな心も少しだけ奮い立つ。
“まだ諦めない”
雪は真っ直ぐ前を見て歩く足に再び力をこめる。絶対に家に帰る。
その為にはまず生き延びる方法を探さなければ――
「――!」
その時、雪の足が突然ピタリと止まり、後ろを振り返った。
――何かの音が聞こえた。
今まであった虫の鳴く音や木々がこすれる音、森の動物達による物音ではない。
―ギィ……ギャ……ギャッ……!
音は雪が歩いてきた道からではなく、木々と深い茂みに覆われた奥からするらしい。
……これは声だ。しかも一つだけではない。
獣の類かと思われる声はいくつも折り重なるように聞こえてくる。
10匹か……それ以上。どうやらかなりの数がいるようだった。
“何かを追いかけてる……?”
狩りか何かだろうか?
たくさんの物音は互いに声をかけ合いながら同じ方向に走っているようだ。
「ウゥ……、ウゥウ……ッ」
雪は小さく短く唸り声を繰り返す。本能的に危険を感じ取っていた。
近づくべきじゃない。急いで離れたほうがいい。
今はとにかく自分の身の安全を確保しなければならない。
少しの間、迷っていたが雪の足は音のするその方向へ恐る恐ると動いていく。
本来、危険と感じているモノに自ら近づいていくなど犬はしない。
しかし雪はその危険こそ知らなければならないと考えた。
この完全に未知の場所で孤独になってしまった雪。
この世界における危険な存在はなんであるのか?
どんな脅威から身を守らねばならないのか?
自分の目で知っておかなければならない。
雪は生き延びて、もう一度あの家に帰るため自らを死地へと追いこんだ。