白い部屋の女
「――……!」
「……!――――……!……!」
……何か音が聞こえる。近くで聞こえているはずなのによく聞こえない。
どうしてだろう……
……何をしていたんだっけ?
……そうだ、テツロウだっ テツロウを助けないと――――
でも……体が動かせない。どうして……?
目も、開けられない……瞼を開く力も入らない……
「犬が轢かれ――――……!」
「こ、この犬……急に飛び……てきたから!」
「うそ……この子、哲郎さ……ところの……」
おなかの辺りから何かが流れていってる気がする……
……さむい。すごく、さむい。あの時みたいだ……
テツロウ……こわいよ。テツロウに……会いたい。
名前を……呼んでほしい。“雪”って呼ぶ……テツロウの声が聞きたい。
テツロウ…… テツロウ――――……
***
次に雪の目が覚めた時、そこは見覚えのない真白い部屋だった。
いや、部屋という表現は正しいのか。床も壁も天井も全てが白色の空間。
しかも窓が一つもなく、それどころか扉らしきものさえ全く見当たらない。
まるで完全に密閉された白い箱の中に入っているかのよう。
電気の類がまったくないのにやけに明るい空間になっているのも気味の悪さを強調している。
そして部屋の中心には椅子とテーブルが一つ置かれており、一人の女が座っている。
女は雪の姿を認め、ゆっくりと立ち上がり雪を覗きこむように頭を少し横に傾ける。
肩よりも伸びた青白く長い髪がサラリと横に流れた。
「よく来てくれたね――歓迎するよ」
まるで待ってましたとでも言いたげに薄く微笑みながら女は雪の突然の来訪を祝う。
見た目は20代そこらの小柄な妙齢の女性といったところだろうか。
裸足で淡い紫色をした薄手のガウンのような服を一枚着ているだけの姿。
一見すると入院患者のようにも見える。
静かな落ち着いた雰囲気を感じるしゃべり方だが、声色には少し嬉しさも混じっており淡々とはしていない。
そして真白いこの場所のせいもあるのか――姿が見えづらい。
女は確かにそこにいるはずなのに酷く存在感が希薄で、吹けば背景の白にそのまま溶けて消えてしまいそうな儚さがあった。
雪はその存在を確かめるように凝視している。
すると女が雪に向かって一歩近づいてきた。
雪はビクッと体を動かし、唸り声をあげて女を威嚇する。
全身の毛が逆立っていた。アレはまともな人間ではない。
目の前にいる得体の知れない女に対して雪の本能は危険だと全力で訴えていた。
そんな雪の様子を見ると女はニコリと笑いかけ、
「怖がらなくても大丈夫だよ。ボクが君に危害を加えることはない。そして君もボクに触れることはできないんだ。だからそんなに神経をとがらせても疲れちゃうだけだと思うよ?」
そう言うと女はくるりとふり返り、椅子と一緒に置かれているテーブルに向かった。
そのテーブルに雪が目をやる。何かが置かれているようだが雪の目線からではイマイチ見えづらい。
「君も見たい?」
そう雪に問うが別に返事を待つことはなく女はテーブルの端に置かれた物を手に取ると、それをそっと床に置いた。
女を警戒していたはずの雪だが一瞬忘れて思わずソレに近づいてしまった。
「――――」
ソレは植物だった。浅鉢の中に土が入っており、その上には植物――葉の感じからして、たんぽぽと思われるものが植えられていた。
だが何か奇妙だった。
葉の感じはたんぽぽのソレに酷似している。しかし肝心の花部分がおかしい。
本来、花があるはずのその部分には球体がくっついていた。
そう、球体だ――それしか表現のしようがないモノ。
少なくとも花に当たる部分についているものは植物ではなかった。
ちょうど大人の人間の握りこぶしほどの大きさであり、植物の細い茎で支えるには不釣り合いに思える。
さらにその謎の球体はボンヤリとした黄色い光を放っている。
透明感があり、見た目にあまり重量を感じさせない。
雪がソレを観察していると女がその鉢をひょい、と持ち上げてしまった。
「ごめんね。ちょっとすることがあるから」
そう言って女は鉢をテーブルの上に戻した。
テーブルは横長に作られており、雪の位置からは見えづらいがその上には先ほどのと同じ浅鉢が横並びに五つ置かれている。
どの鉢も同じだった。鉢に植えられている植物らしきもの。
その花部分はどれも謎の球体がくっついている。
「ちょっと待っててね。えーと……」
そう独り言のように口にすると女はテーブルの右端に置いてある鉢を眺めている。さっき雪に見せた鉢だ。
そしてその鉢の植物……というより球体に人差し指で触れる。
すると何かを確認しているかのように女はうんうんと数度頷く仕草をすると、雪に視線を戻し――
「――――雪」
「!!」
雪は驚いたように女を見つめ直している。
馴染んだ言葉が聞こえ、雪の耳がピンと立つ。
「君の名前は雪だ――うん、素敵な名前だね。ボクもそう呼ばせてもらうよ」
それを雪が受け入れるかどうかを気にすることはない。
女は椅子の向きを雪の方に変えて、ゆっくりと腰をおろす。
「さて。それじゃあ雪――話をしよう。獣と話をするのはボクも初めての経験だから少し楽しみだ」
女は薄く微笑みながら言葉通りどこか楽しそうな口調で話を続ける。
「まず、雪。さっき確かめてみた限り君はどうやら自分の状況――というより自分がどうなってしまったのかが理解できてないみたいだね。まあここに来る魂はそういうものばかりだから、珍しいことじゃないけれど」
そう。雪は何もわかっていない。
覚えているのは哲郎を助けるために走っていたことだけだ。
「君は死んだんだよ、雪。飼い主である恢凪哲郎を助けようと彼の家に向かっていたが、辿り着く直前で車にはねられてしまった。それで肉体が壊れ、君の魂はこの部屋にやってきたんだ」
”――“
雪には女の言葉が理解できない。
理解はできないがあの声を聞いているとひどく力が抜けていくのを感じる。
それが何故なのかはわからない。
「うん……さすがに人間と同じレベルの理解を求めるのは無理があるかな。まぁ、いっか」
それでも女は語る口を止める気はないようだ。
わかってもらおうと努める気など女にはない。
獣に話を語り聞かせるという稀有な機会を楽しみたい。
それだけの為に女は話を続けた。
「あとは……この部屋が一体どこなのか、は気になってるかな? どう言おうか……少なくとも君のいた世界ではないね。ここは君がいた世界のどこにも存在しない場所だよ」
雪には意味がよくわからない。気分も優れないような気がする。
それでも何故かこの女の言葉を聞くことに集中していた。
「なら君のいた場所はどこにあるのか知りたいよね? ――――ほら。そこに“置いてある”だろう?」
女が指をさしたのはテーブルの上。
つまり先ほど見た浅鉢に植えられた植物らしき球体だ。
「一番右端にある“花”が君のいた世界だ」
それは先ほど雪に直接見せるために手に取られた浅鉢だった。
“――――……”
……フラフラする。真っ直ぐ立っていることがやけに難しい。
言ってることは全然わからないのに……あの女の声を聞いてると、どんどん気分が悪くなってくる気がする。
テツロウ……テツロウに会いたい……
女はそんな雪の様子を特に気にした様子もなく話を続ける。
「それにしても驚いたよ。まさかここにやってきたのが獣とはね」
女は意外そうに。そしてどこか楽しそうに語る。
「この場所にはね。“選ばれた者”しか来ることはできないんだ。と言ってもボクが直接選んでるわけじゃないよ? 誰かしらが来るようにシステムとして組み込んだのはボクだけど」
常人には決して理解の及ばない話。犬の雪なら尚更だろう。
それでも女は語り続ける。
「“花”の中で生きる君達がその肉体を失った時、魂はそこから離れる。そしてその魂がこの部屋にやってくるんだ。でも死んだ全員がやって来るわけじゃない。招くことができる魂は一度につき一つだからね」
雪はふらつく体をなんとか支え、女の言葉に耳を傾ける。
「だから、雪。君は死にたくない――という意思がとても強かったんだろうね。突然、死を迎えている他の数多の命よりも。“選ばれた者”っていうのは、つまりそういうこと」
そう言い終わると女は指先を自分の口もとに当て、考えているような様子を見せる。
「初めての事だったから少し考えたけど――うん。やっぱり君にお願いしよう」
女は決めた! とばかりに両手を合わせて雪に自分の意図を伝える。
「見て、雪。テーブルに乗った五つの“花”――右端にあるのは君が元いた世界だ。他の“花”も同じ。君がいた“花”とは常識や価値観が異なってたりもするけれど、それぞれの世界を形成し数多の命が活動している一つの“花”(せかい)だ」
テーブルに並べられた植物を一つ一つ指さしながら説明をする。
すると女はゆっくりとした動作で真ん中の位置に置かれていた浅鉢を両手で取ると雪にも見えるよう床に置き直した。
「そこでこの“花”をごらん。それ一つだけ他のと違い黒く濁っているだろう?」
確かに。
この女が花と言い張る謎の球体はいずれもぼんやりと黄色い光を発している。
しかしこの球体だけは違っていた。
今、床に置かれた球体は発光などしておらず、表面が全体的に黒ずんでいる。
まるで黒カビがびっしりと覆っているかのようだ。
「酷いものだろう? それはその“花”の中の世界全てに影響を及ぼすほど“困った事”をしている原因がいるということなんだ。前からどうにかしたいと思っていたんだけど……これが中々上手くいかなくてね。つまりボクが言いたいのは――」
その瞬間、雪が女に向かって強く唸り声をあげる。
その様子を見た女は愛らしいものを見るかのように微笑む。
「ふふ、文句があるといった様子だね? それはつまり、これから何をさせられるのかなんとなく感じ取ってくれたということでいいよね? ふふ、本当に賢い子だ」
楽しそうに言うと女は雪に向かって自分の手をかざした。
「!?」
その瞬間、雪を中心に床が青白く光り始めた。
雪は慌てて飛びずさろうとしたが体が固定でもされてしまったかのようにその場から一歩も動かすことができない。
「察しの通り――今から君にはそこへ行ってもらう」
雪を囲った光は上に向かって円柱状に伸びていき、それに合わせて雪の姿が見えなくなっていく。
グルルルッ!ワンッ!ワンッ!ワンッ!
雪は吠える。必死に吠え続ける。
イヤだ、と。あの人の元へ返してと。自分の居場所はあの人の傍だけなんだと。
たった一匹の犬が求める小さな願いすらも届かず。
聞こえなくなるまでただ嫌だと吠え続けた。
――後に残るのは白い無機質な部屋と女が一人。
女は雪が消えた場所をしばらく見つめた後、床に置いた黒ずんだ球体の入った浅鉢をテーブルに戻す。
「ごめんね、雪。でもこの“花”一つ一つはボクにとって大事なんだ。それはもう丹念に心をこめて育ててきたものだからね。だから腐り落ちるその時までは“花”を救うことを出来るだけ諦めたくはないんだ」
女は黒ずんだ球体を見つめながら思う。
雪の前にも何人かの人間をこの“花”に送った。しかしいずれもダメだった。
腐敗具合からして、この“花”を救える機会は恐らく今回が最後だろう。
「上手くいくといいなぁ」
女は目を瞑り、ポツリと呟く。
その様子は夜空の星にかけた願いが叶うことを期待する無邪気な子どものよう。
「いってらっしゃい、雪。君の出現がその世界にあらゆる奇跡をもたらすことを期待しているよ」