明日を明るく生きるために
――――ぐいぐいっ
……何か頭を揺さぶられているような感覚があり、
目を開けてみると哲郎の頭を雪が鼻先で何回も押しつけていた。
「何かと思や……雪か。なんだもう起きろってのか?」
布団から少しはみ出していた足が外気の冷たさをよく伝えてくる。
はっきり言って起きたくなかったが、今の時間を確認しようと目を動かしていると――
ピンポーン
玄関のチャイムが聞こえる。5秒ほど経った後、今度は3回連続でチャイムが鳴る。更に5秒が経つと今度は5回連続でチャイムが鳴る。
更に5秒が経つと今度は7回連続でチャイムが鳴った。
次の5秒後には10回連続でチャイムが鳴ると理解した哲郎は――
「……あんのバカたれがっ!」
舌打ちしながらドスドスと足音を立て、玄関の外で待つ娘のもとへ急いだ。
*
「おとうさーんっ いるんでしょーっ?」
10連続チャイムの準備をしている響子が外から声をかけている。
その時、ドアが勢いよく開かれ鬼の形相をしている哲郎が出てきた。
「響子! 呼び鈴を連続で鳴らすなって言ってんだろうがっ! オメー、ガキの頃からそうだぞっ!」
「お父さんがさっさと出てきてくれれば1回ですむわよ」
どうってこともなさそうに響子は言う。
「オメーまさか他所でもこういうことしてんじゃねえだろうな? シャレになんねえぞ?」
「まさか。こんな非常識なこと、お父さんにしかしないわよ」
笑いながら響子は答える。こいつブン殴ってやろうかという怒りを抑え、
「で? 何しに来たんだよ? 今日は仕事って言ってただろ」
「時間がとれたら来るとも言ったでしょ? 今日の仕事は午後からだから」
「だからってこんな朝っぱらから来ることねえだろ」
「朝っぱらって……もうすぐ11時になるわよ?」
響子が呆れた顔でそう言った。
「あ、あり? ホントか? そんなに寝ちまってたのかよ……」
早朝に起きるのは慣れてたはずなのに……失敗した、と哲郎は昨日の就寝時間を悔やんだ。
「もしかして夜更かしでもして起きられなかったんじゃないの?」
「べ、別に夜更かししたってほどじゃねえよ……」
ジトっと睨む響子に対して目を逸らしながら返答をする。
響子は軽くため息をつきながら手に持った買い物袋を見せてきた。
「お昼ごはん、私が作るわ。食材は買ってきてあるから台所借りるね」
そう言ってさっさと奥の台所へ移動してしまう。
すると今度は雪が寝室の方から現れ廊下の真ん中で止まり、玄関で突っ立ってる哲郎と居間を交互に何度も見る。
頭を同じ動きで繰り返し振ってるのがなんとも愛らしい。
恐らく哲郎に早く来いと催促しているのだろう。
「くっそーあのガキャァ……ちょっとは父親を敬えっ」
娘に悪態をつきながら哲郎は居間に向かった。
*
「そーいや、今日はオメーだけなんだな? 舞菜達は学校か?」
居間のコタツの上に置かれた煮物を食べながら哲郎が尋ねる。
「もう冬休みに入ってるわよ。だから舞菜が昨日、来たんじゃない。今日は二人とも友達と遊びに行ってる」
「あー、ガキにはそんなモンもあったか」
「私が家を出る時、舞菜ってば友達とした約束忘れてついてこようとしたのよ? 今日は会えなくて残念だったわねー?」
「どーせ目当ては雪だろ? 別にいいわいっ」
雪は部屋の端で自分の食事を終え、ちゃぷちゃぷと水を飲んでいる。
自分の名前が聞こえ、一瞬顔を向けるがすぐに水分補給に戻った。
「……あと5日で今年も終わり、か」
部屋に張られたカレンダーを見て響子がポツリと呟く。
「ねぇ、年末は私達家族みんなお休みなの。久しぶりに全員で集まって食事しましょうよっ お寿司でも買ってくるからさ」
「おいおい、この部屋でやる気か? せめーだろうが」
「ちょっと物を片づければいけるわよ。ねえ、いいでしょ?」
響子は身を乗り出してそう提案してくる。
どこか有無を言わせないような迫力まで出ているような気がする。
「わかったよ。……寿司はオレも嫌いじゃねえしな」
「決まりねっ」
笑顔で、ぐっと親指を立てる仕草をしてくる。妙に嬉しそうだ。
「何が決まりねっ、だよ。……ったく誰に似たんだ、その強引っぷりは」
「いいじゃない。年の最後をみんなで迎えられるなんて幸せよ。雪だって楽しみよねー?」
話がわかってかわからないでか雪はワウっと返事をする。
「――ごちそうさん。わざわざ作ってもらって悪かったな」
最後の一口を食べ、空いた食器を集めていく。
「あ、いいよ。食器は私が片づけるわ。それが終わったら仕事に行くから」
「いいっての。こんくらいオレだってできるわい」
そう言って重ねた皿を持ち、哲郎が立ち上がったその時――
ガシャーン!
「っ!?」
驚いて一瞬固まった響子がその場に目をやると落ちた皿が割れ、コタツのテーブルに散らばっており、
哲郎が胸を押さえ、うずくまっていた。
「お父さんっ!? ちょっとっ!」
「いっ、ちちち……だ、大丈夫だっ すぐに落ち着く……」
そう言う哲郎の顔はとても苦しそうだ。険しい表情の哲郎に雪が近づいていく。
それを見て、哲郎は雪の頭に手をポンと置く。
「……おう、雪。びっくりさせて悪いな。オレは大丈夫だからよ」
そう言ってしばらくすると哲郎は立ち上がり、胸をトントンと叩きながら散らばった皿の破片を見る。
「あークソ、皿割っちまった。悪ぃ、今片づけるから――」
「お父さんっ!」
何事もなかったかのように振る舞う哲郎だったが響子がそれを阻む。
「お父さん、やっぱり病院に行きましょう。今日は仕事を休むわ。病院までつきそうから――」
「おいおい、バカ言ってんじゃねえぞ」
適当にあしらおうとする父親に対し、響子が叫ぶ。
「バカ言ってるのはお父さんのほうよっ!!」
「……あんまでけぇ声だすな。オレの耳はまだ遠くなってねえんだからよ」
軽口を言う哲郎だったが、娘の剣幕からさすがに適当に流せる空気でないのは察していた。
「1か月前にも胸を押さえてたことがあったよね? 私が知らないだけで、もしかしてその前にもあった? それに昨日だってそうだった。ひと月以上もそんなのが続くなんて普通じゃないわよ」
「そうかもしんねぇがよ。痛み自体はすぐおさまるんだぜ? 毎日痛くなるってわけでもねえし……」
「……ねぇ、お願いよお父さん――私と病院に来て? お父さんは私のことを煩わしく思ってるかもしれないけど、それでも私はお父さんとお母さんが大事なの。いくら構うなって言われてもそれだけはできないのよっ」
響子は哲郎のしわだらけの手を握って必死に訴えている。
握られた手に小さく震えている感触が伝わってきた。
哲郎はしばらく目を閉じる。
雪も哲郎の答えを待っているかのようにその場に座り二人をジッと見つめている。
長い沈黙の後、哲郎は小さく息を吐いた。
「……病院は好きじゃねえんだけどなぁ」
「好きな人なんていないわよ。……お父さん」
「……わかった。病院には行くよ」
そう答えると響子はとてもホッとしたような表情を見せる。
「行きましょう。車を出す準備をするからお父さんも――」
早速とばかりに向かう響子に哲郎がストップをかける。
「待て待て、そうあわてんなっ その前に――雪の散歩に行かせてくれ」
「ええっ? ちょっと――」
ここにきて何を言ってるんだ、と響子は抗議をしようとする。
「今日は派手に寝坊しちまったもんだから、まだ連れてってやれてねえんだ。散歩が終わったらオメーと一緒に病院に行くからよ。それでいいだろ?」
「でも――っ」
「……場合によっちゃあ入院、なんてこともあるかもしんねえだろ? そうなったら雪にかまってやれなくなっちまう。こいつオレとしか散歩行こうとしねえしよぉ」
「だからって――っ」
「頼む、響子。どうしても今……連れてってやりてえんだ」
「っ……」
ムスっとした顔が通常運転のような哲郎とは思えないほど、その顔はひどく穏やかなものだった。
本当はすぐにでも病院に連れていきたかったがその気持ちをわずかに抑え、響子は譲歩を口にする。
「……わかった。でも散歩が終わったらすぐに病院だからね」
「わかってるよ。そんな長くはかからねぇ」
ジャンバーを着こみ、準備をしながら答える。
「よーし。待たせたなっ 雪! 散歩に行くぞっ 」
そう言うと哲郎は犬用のリードと首輪を手に持った。
その動きと言葉に雪が素早く反応し、小さく飛び跳ねながら哲郎の周囲を走り回る。
「やめろやめろ、いったん止まれっ 動きにくいだろうがっ」
その光景を見て響子は思わず、ぷっと笑ってしまった。
「普段は大人しすぎるくらいなのに。お父さんと散歩に行けるってなった時の雪は本当に無邪気な子どもみたいね」
実際、雪はまだ子どもなのだが、普段の雪は常に誰かに気を遣うことばかりしているようにも見える。
ああやって子どもらしくはしゃぐことが出来るのは父がいる時だけなのだろう。
……できればこの光景を一生見ていたいと思う。でもそれは無理な話だ。
一生続いてほしいと願うものが本当に一生続くことなどありえない。
その願いが強ければ強いほど、終わりは早く、唐突にやってくるのだから。
**
「うぅ~さみぃ。昼間だってのに昨日より冷えてる気がするぜ……っ」
肩をブルㇽと震わせる。
実際は昨日とほぼ変わらない気温なのだが冷たい風が定期的に吹きつけて、哲郎の気力を少しずつ削いでくる。
「手袋くらいつけてくりゃよかった。……オメーは平気なのか、雪?」
雪は哲郎のすぐ前を歩いている。
たまに嬉しそうに小さく跳ねながら哲郎の方に振り向いてワン! と声を出す。
「へへ、そうかい。……そりゃなにより」
散歩を楽しむ雪だが、どんなに楽しくても哲郎を引っ張って駈け出そうとはしない。
いくらパワフルな哲郎といえど、雪に全力で引っ張られてしまえば抑えられず倒れてしまうだろう。
それを理解している雪はあくまで彼の歩調に合わせてゆっくりと歩く。
――やがて正面に公園が見えてくる。2年前に雪を拾ったあの公園だ。
真っ昼間であるにも関わらず公園に人の姿はなく閑散としている。
普段は子どもが遊んでいたり、子連れの親同士が世間話をしている姿も見かけるのだが、さすがに冬の冷え込む時期にこんな所にいる理由を作る気は親子そろってないようだ。
「ちょっと休憩させてもらっていいか?」
雪にそう言うと哲郎は2年ぶりに公園の中に入っていく。
*
哲郎は公園の奥に設置されているブランコに座りながらよく晴れた空を眺めていた。
いつもなら一服するところだったが今日はやめておいた。
これから病院に行こうという時にタバコなんて吸ったらまた響子にどやされるに違いないからだ。
(どやされるだけならいいが……泣かれるのはなァ)
不器用でも自分なりに娘の人生の邪魔にならないようにと考えてきていたが妻のことでも、そして今も結局迷惑をかけてしまった。
哲郎と誠子は我が子に愛情を注ぎ、娘も両親を愛している。
その繋がりが存在している以上、構わなくていいと突っぱねることに意味などなかった。
「いつまで経ってもオレだけの命ってわけにはいかねぇな。……今はオメーもいるしな、雪」
隣で座っている雪の頭を撫でると雪は気持ちよさそうに目を閉じる。
それを見た後、哲郎はブランコから立ち上がり雪の正面に座りこみ、同じ目線で雪に語りかける。
「いいかぁ、雪。この後オレは響子と一緒に病院に行ってくる。すぐ帰ってきてぇとこだが……場合によっちゃ入院になっちまうかもしれねえ。そうなるとしばらくオメーに会えなくなっちまうんだ」
雪はきょとんとした顔で見つめている。きっとよく理解はできていないだろう。
それでも哲郎は雪を真っ直ぐ見て話を続ける。
「だからそん時はよ、響子の家に世話になっとけ。あいつもそのつもりだろうからよ。あの家には遊び盛りのガキんちょが二人もいる。オメーも退屈はしねえはずだ」
そう言って雪の頭をポンポンと叩く。
話が終わると雪は哲郎に近づきペロペロと顔をなめた。
「へへっ……ありがとよ、雪」
哲郎はよいせと立ち上がり、雪のリードを持ち直す。
「そろそろ帰るぜ、雪。確か前に買っといた高めの缶詰があったよな……出かける前に皿に入れといてやるよ」
雪は一度だけ軽く跳ねて、ワン! と答えた。
哲郎を先導するように雪が前を歩き始める。
ところが雪の首輪に繋いだリードがピンッと引っ張られ、雪はそれ以上前に進めなくなる。
その直後――
ドサッ
首輪が引っ張られる感触と共に鈍い物音が雪の耳に聞こえる。
雪が後ろを振り向く。
そこには地面に倒れ、苦しんでいる大切な人の姿があった。
**
――倒れている。テツロウが動かなくなっている。
哲郎は口から泡を吹き、苦悶の表情で胸を押さえながら倒れている。
雪は哲郎に向かって吠える。倒れた原因など雪にわかるはずもない。
だから吠える。起きて! と哲郎に向かって何度も吠える。
名前を呼んでほしい。“ゆき”と――いつものように大きな声で呼んでほしい。
それだけを願い、動かない飼い主に必死に吠え続ける。
「グッ……、………ッッ」
しかし哲郎は動かない。顔もだんだんと蒼白に変わっていく。
「………!」
雪は最後に一吠えした後、公園を飛び出していった。向かう先は哲郎の家だ。
駆ける――駆ける――全速力で家まで駆けていく。
途中、何人かの通行人を見たが――違う。テツロウを助けてくれる人は家だ。家にいる。
家ではキョウコがテツロウの帰りを待ってくれている。
あの人ならテツロウを助けてくれる――!
雪は生まれてから一度も全力で走ったことはなかった。哲郎の家に来てからもそんな機会はなかった。
初めて必死に走る雪はまるで放たれた矢のように住宅街を駆け抜けていく。
――近づいてきた。もうすぐそこだ。
後は目の前の十字路を左に曲がれば家に着く。
一度も止まることなく速度を緩めることもなく。
少しでも早く響子に異常を知らせるために十字路を曲がり――
――そこで雪の意識は途絶えた。
◇◇◇◇
――――……
閉ざしていた意識が戻ってくる。
眠っていたのか? 雪には一体何が起きたのか理解ができない。
テツロウの家に向かって走っていたはずだ。テツロウの家に着いたはずでは?
雪は何故、閉じられているのかわからない自分の目をゆっくり開くと――
“―――――”
見知らぬ部屋だった。哲郎の家ではない。
床も壁も天井も全てが真っ白に染められた一つの部屋。
部屋の真ん中には椅子とテーブルが一つ置かれており、椅子には誰かが座っている。
雪は目を丸くしてその誰かを見つめている。
雪を背にして椅子に座っていた何者かは自分以外の存在に気がついたのか雪をちらりと見て、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
どうやら女性のようだ。そしてソレは透き通った美しい声で雪に話しかける。
「おや。意外なお客様がやってきたね」
雪はその場から動くことができなかった。
まるで理解の及ばぬモノを目にしてしまったように、ただその“人間らしき何か”を凝視している。
女性は雪の反応を気にする様子もなく、一言――
「よく来てくれたね――――歓迎するよ」