恢凪哲郎とその家族
「よしよし。どれもよく育ってそうじゃねえか。全部、収穫しちまうか」
そう言って自宅の裏庭の畑から野菜を収穫し、ビールケースの中に放り込んでいる老人が一人。
日本のある閑静な住宅地。
端っこには木造の平屋が建っており、その家には80過ぎの老人が住んでいる。
ここの住宅街は50年以上前に開発された地区であり、建てられている家は軒並み古い。
しかし築年数が進み建て替えられた家やゴーストタウン化を防ぐために新しい家を建ててみれば、買い手がつき引っ越してくる新しい住民もチラホラと増える。
とはいえ、やはり全体的な年齢層としてはまだまだ高い。
そしてそんな古株の住民が多い中でもひときわ異彩を放っているのが、先ほど楽しそうに家庭菜園をしていた老人――
恢凪哲郎82歳である。
恢凪哲郎は妻と一緒にちょうど50年前にこの土地に引っ越してきた、かなり古参の住民になる。
そしてこの地区では中々に話題の多い人物でもある。
住宅の壁に落書きをした小学生を怒鳴りながら日が暮れるまで追いかけまわしただの、カツアゲをしてた三人の不良高校生をぶん殴っただの。
または自転車で逃走したひったくり犯を300メートル走って追いかけて、とっ捕まえた結果、警察と被害者からお礼を言われただの。
これらのエピソードは全てここ2年の間に培われたものであり、傘寿を迎えている老人が作る武勇伝としては些か以上に常軌を逸したものがある。
そのため哲郎をよく知る近隣住民からは――
「昔から怖い人ではあったけど、80歳になってからもっと怖くなったわ……」
「粗野で乱暴な奴ではあったんだがなぁ。もう何十年ものつきあいだけどやっと理解したよ。あいつ、マジのバケモンだったんだな」
「奥さんの事があって心配してたけど……もう今は元気すぎるくらいよね」
かなりの破天荒さで知られている――が。周りから浮いているかというとそういうわけでもなく。
近所づきあいはそれなりにあり、口は悪いものの快活な人柄から彼に好感を抱いている住民は多い。
付き合いの長い古参の住民ほど彼を好む。
しかしその反面、新参の住民の中には怖がって近づきたがらない人もそれなりにいる。
そんなパワフルな老人の家に訪問客がやってくる。
玄関のチャイムを鳴らしながら元気な子どもの声が一つ。
「おじーちゃーんっ!」
声で誰かを確認した哲郎は野菜の収穫を止め、裏庭から声をかける。
「おう! 今、行くからよーっ」
若い時に比べてほんの少し重くなった腰を上げ、家の正面へと歩いていくと哲郎にとっては見慣れた客が二人。
「おじーちゃん! 遊びにきたっ!」
「よう、舞菜。また遊びにきてくれたんだな」
片手を上げ、ふりふりと動かしてるのは哲郎の孫娘である三田村舞菜。
今年8歳になったばかりで、ボブカットの髪が年齢に見合った無邪気な可愛らしさを引き立てている。
「とりあえず中に入れてくれる? 寒くってもう……っ」
身をこごめながら哲郎にそう訴えてるのが娘の三田村響子。
結婚もしていて8歳と12歳の子どもを持つ2児の母だ。
一人暮らしをしている哲郎を気にかけ、こうしてこまめに様子を見に来ている。
「もうすぐ年末って時期だしな。今日の最高気温は8℃だってよ。これでも今が一番あったけえ時間帯だぜ」
そう言ってドアを開け、いつものように身内の来訪を歓迎した。
***
玄関に入ると冷え込みがピタッとおさまる。
しっかり身体を温めるにはコタツの置いてある居間に行くしかないのだが、風にさらされることがないだけでずいぶんマシだ。
ほっ、と響子が落ち着いたように息をついた。
ベージュ色のコートを脱ぎ、隣に置いてあるツリー型のコートラックに引っかける。
粗野な老人が持つには妙にこじゃれたデザインだがこれは哲郎の妻の趣味だ。
哲郎自身は玄関に入る度にいつも邪魔くさいと感じているが片づけることはない。
「ごめんね。今日は私と舞菜だけなの。旦那は仕事だし、息子は学校の友達と約束しちゃったみたいだから」
「かまわねえよ。オメーだって別に無理して来るこたねえんだぞ?」
「無理なんかしないわよ。お父さんじゃあるまいし」
「オレがいつ無理したってんだ?」
「さあね」
「ねえ、おじーちゃんっ 雪は? 雪はーっ?」
と、靴を脱ぎ終わった舞菜が哲郎の腕を引っ張り、聞き慣れた要求をしてくる。
「なんでぇ、オレじゃなくてそっちが目当てかよ」
いつものことでしょ、と軽く笑いながら響子が言う。
ったく、と軽く文句を言いながら哲郎が奥の居間に向かって声をかける。
「おーい、雪ーっ 舞菜達が来たぞーっ」
すると、チャッチャッチャっと小気味の良い足音を立てながら近づいてくる犬が一匹。
「あっ、ゆきーっ!」
近づいてきた犬の首に舞菜が腕を巻きつけギューっと抱きつく。
特に嫌がる素振りもせず8歳の子どもより大きいその犬は自分の頭を舞菜の身体に軽くこすりつけた後にわうっ、と小さく一吠えをする。
破天荒で乱暴で周りからちょっとだけ怖がられている老人の一人暮らしに寄り添う犬―――雪である。
***
『今年も残りわずかですねー』
テレビをつければどのチャンネルでもそんな話をしているのが目に入る。
昨日が終わるまではクリスマスがーと盛り上がってたかと思えば、今度は一年を振り返ってがあーだ、紅白がどーだ、来年の正月がこーだ。
ニュースキャスターも芸人も何かの番組の司会者もみんな同じことばかり口にするのを見て哲郎はうんざりしていた。
(テレビなんかつけるんじゃなかったぜ)
哲郎はテレビの電源を消し、コタツに入りみかんを食べてる娘を見習って自分もみかんを一つ手に取った。
「おっとそうだ。響子、今日はこいつ持って帰れ。前回のは失敗しちまったが今回は自信作だぞ?」
そう言って哲郎はビールケースを響子の傍に置く。
中には先ほど家庭菜園で収穫していた野菜が乱雑に入っていた。
「あら、いつもありがと。わっ♪ 今回は大根とほうれん草ね」
「おじーちゃん、わたしほうれん草きらーい」
部屋の端っこで雪と遊んでいた舞菜が口をとがらせて言う。
「あ、あり? なんだそうだったのか? もっと早く言ってくれりゃあいいのによ。じゃあホウレン草は明日からクビだな」
「甘やかさないでよ、お父さん。――舞菜、そうやって好き嫌いしないの。ほうれん草、体にいいんだから」
「むー……」
舞菜のほっぺがふくらんでいく。
雪はそのふくらみが気になるのか少し首をかしげている。
「あー別にいいだろ。健康にいいかどうかより好き嫌いで生きてけ。オレはずっとそうしてきたし―――」
「ちょっとっ やめてよ。お父さんの不摂生な人生観にこの子を巻きこまないでよねっ」
「なんだよ不摂生な人生観ってよっ」
舞菜は床にべたっと伏せている雪に体を預けながら話しかけている。
「おかあさんだって好き嫌いあるくせに。雪だって嫌いな食べ物くらいあるよねー?」
……体を預けるというかほぼ雪にのしかかっているような状態だが、当の雪は別にどうってことなさそうにあくびをしている。
響子がその様子を横目に見つつ、
「……今さらだけど。雪って結構大きいわよね」
「本当に今さらだな。もう2年経ってんだぞ」
「そうだけど。お父さんが拾ってきた時はホント子犬って感じの大きさだったじゃない。……数か月でこんな感じになっちゃったけど」
大型犬ほどではないにしても確かに雪は犬としては大きい部類には入るか。
体重約23kg 体高43cm。
世間的な基準で言えば一応、中型犬にはなるはずだが、全体的に体ががっしりとしていて、骨太。
そのせいかそこらの犬よりひと際大きい印象を受ける。
「まあ8歳の子どもの体重を受け止められるくらいに丈夫なのは違いねえな」
「あとさーこれも今さらなんだけど……『雪』って名前、やっぱりどうなの?」
「なんだよ? オレの命名に文句あるってのか? あと本当に今さらだな」
「だって顔の毛が白いからってのが理由でしょ? 名前とその由来を聞いた時からずっとムズムズしてたのよ」
「なんでだよ? いい名前じゃねえかっ」
「つけた理由が適当すぎるって言ってるのよ。白い毛なんて顔周りと足だけで残りの毛はみんな真っ黒じゃない。……まぁ唯一、ちゃんと女の子っぽい名前なのはいいと思うけど」
「バカたれ、よく見ろ。おなかも白いだろうが」
「それがなによっ」
確かに雪の体毛はそのほとんどが黒い。
白いのは顔やおなか周りと足先のみであり、少なくとも目に見えやすい大部分は黒く覆われている。
名前と外見のイメージが結びつきにくいという話であれば響子に軍配が上がるだろう。
「いいんだよ。名前なんてそん時のぉ…あー…ふぃーりんぐ? が大事だろうがっ」
「無理して横文字なんて使わなくていいわよ」
「うるっせぇなっ! 時代に置いてかれないように食らいつこうと頑張ってるってことだろうがっ」
「はぁ…雪、こんな適当おじいさんに拾われちゃうなんて。あなたもついてなかったわね」
雪を見ながらそんな軽口を言い終わると響子はよいしょ、と立ち上がり
「さて。やっと体も温まったし。――お母さんに挨拶してくるね。それとお線香、少なくなってたでしょ? 買ってきたから仏壇に置いておくね」
その言葉に哲郎はおう、と短く答えタバコを吸おうとポケットに入ったライターを取ろうとしたところで、舞菜がいることを思い出し手を止めた。
以前、舞菜を気にせずタバコを吸って響子にこっぴどく怒られたのだ。
「吸ってもいーよ? 何回もおじーちゃんの家に来てもう平気になったもんっ」
と、舞菜はどこかわくわくしているような。むしろ吸って!と催促しているようにも見える。
哲郎に気を使ったというよりはタバコの煙を克服した私を見て!といったところだろう。
「――いや。やっぱやめとく」
「えー……」
「残念そうにすんな」
つまんなそうな顔をしてから雪との遊びに戻っていった。
(……そういや俺も今日はまだ線香あげてなかったな)
妻の恢凪誠子は2年前に他界している。
50年前に結婚し、当時はまだ新しかったこの土地に引っ越してきた。
騒音を好まなかった妻にとって閑静な地区を目的に作られたこの場所はとても理想的だったのだ。
哲郎もそれで文句はなかった。
……一緒に暮らしてきた。
子どもが生まれ、大きくなり、独立し、結婚してこの家を離れた後も、哲郎と妻の誠子だけは変わらずこの家で幸せに暮らし続けてきた。
ところが3年前に誠子が認知症を患ってしまう。
症例として認知症にはいくつか種別があるが、誠子は精神的不安から「帰りたい」と口にするいわゆる帰宅願望。
時には暴力性が表れるタイプのものであった。
初めの2か月は哲郎や話を聞いた娘が家に泊まりこみで面倒を見ていたが結局はそれも限界が訪れ、娘の提案で介護施設に入所させることになった。
幸い施設への入所受け入れは早かった。
施設の部屋が中々空かず、申し込んでもすぐに入所させてもらえない家庭も多い中、この点は幸運だったと言える。
妻の介護中、哲郎は一度も弱音を吐くことはなかった。
しかし、それでも“無理”だと理解はしていた。
自分がどれだけ全力を尽くそうが娘の助けを借りようがとても手に負えないと十分、身に染みていたのだ。
だから妻を施設に入れるという話にも哲郎は反対することができなかった。
そうして施設に入り9か月も過ぎた頃、恢凪誠子は発作を起こし息を引き取った。
娘とは妻が亡くなった後も電話で連絡を取り合ってはいた。
その時に一緒に暮らさないか? と話があったのだが、この家を離れる気はないと断ったのだ。
(そしたら今じゃ週に5回は顔出しに来やがるからな……)
響子の家は二駅先の隣町にあり、車でここまで来ている。
そう遠いわけではないし確かに通おうと思えば通えるだろうが正直、来すぎだ。
響子の夫や子どもは仕事や学校もあり来るのは週に1度か2度。
哲郎としてもそれくらいがちょうどいい塩梅だと感じている。
響子のようにほぼ毎日顔を出されるのは自分の娘といえど、さすがに勘弁してくれと思ってしまう。
(それが嬉しくないってわけじゃないんだけどよぉ……)
もう少し自分の幸福に集中してほしいもんだと老人は考える。
とりあえず円満な家庭は作れているようだが、昔から娘はこっちを気にしすぎて自分を疎かにするきらいがある。
一応こっちだって人生の約半分を使って自分の子どもが幸せになれるよう下手くそなりに力を入れてきたんだから、それに見合うくらい幸せになってくれなきゃ困る。
そう哲郎と彼の妻はずっと考えていた。
みかんを食べながら、そんなことをぼんやり考えていると――
「――――おっ?」
哲郎は思わず間抜けな声を出してしまう。
何かと思えば舞菜と遊んでいたはずの雪がいつの間にか近づいてきており、哲郎の脇の間に自分の頭をスボッと通して、そこから哲郎の顔をじっと見つめていた。
「雪、オメー……」
雪は何も答えず、じっと見ていた哲郎の顔をペロっとひと舐めした。
妻の死があってから哲郎は時折、こうやって感傷的な気分になることがある。
そんな時に雪は決まって哲郎の傍まで行き、寄り添ってくれるのだ。
(……不思議なワンコロだよ、オメーは)
「……ははっ どーした、雪? 今度はオレと遊びてェのか? 舞菜と遊ぶのはもう飽きたか?」
「むーっ そんなことない! 雪、こっち! こっちーっ!」
舞菜は雪のしっぽをぐいぐいと引っ張るが、雪は4本の足で踏ん張り微動だにしない。
「いっひひ 諦めろ、舞菜。オメーがどう頑張っても雪はオレにぞっこんだ」